ג

「やめて! ボクの友達を持ってかないで!」

 あいつ、さっきの。オレが向かったその先には、先程出会った鉄仮面の少年がいた。少年が腕を伸ばし、腕の先のものを取られまいと必死に引っ張っている。少年がつかんでいるのは、あのしゃべる生首。無表情のまま両側から引っ張られ、頭の形が歪みかけている。そして、鉄仮面の反対側。もう一方の側から生首をつかみ、引っ張っているそれ。

 なんだ、あれは。

 それは、黒い靄のような姿をしていた。周囲との境界が曖昧なもやもやとした影が人の姿を象っている何か。人のような形をした黒い影。だがその影には一部、決定的に欠けているところがあった。人の形をなす上で、人として機能する上でなくてはならない決定的なその部位が。そう、その影には――首がなかった。

「ボクの友達はきみじゃないよ!」

 鉄仮面が叫ぶ。友達といって憚らない生首を引っ張りながら。しかし鉄仮面と影では影のほうが圧倒的に大きく、力の差も見たままに影の方が強いらしく、影は踏ん張ろうとしている鉄仮面の身体ごと引きずるようにして生首を奪おうとしていた。いずれ影の方が生首を手に入れるであろうことは、目に見えた未来であった。

 関係のないことであった。鉄仮面とオレとは一〇年来の親友という訳でもないし、なんなら先程の「助けてあげる」という発言はいまも棘となって胸の裡のいやなところに刺さったままでいる。だからあいつが友達を奪われようと、それでどれだけ悲しむことになろうと、オレには関係のないことだった。

 でも。

 懐に、手を入れていた。そこに秘した獲物に、手を触れていた。固く、まだ生暖かさの残るそれを握りしめていた。手が、震えているのが判った。こんなことをしちゃいけないという思いが、頭の片隅を支配していた。でも。

「……ああっ!!」

 飛び出していた。それを、刃を、ナイフを構えて。“友達”を奪おうとする巨大な影に向かって、飛び出していた。首のない影に向かって、ナイフを振り下ろした。

「消えろ、消えろ、消えろ、消えろぉ!」

 ナイフを振った、ナイフを振った、ナイフを振って、振って、振り回した。手応えはなかった。それこそ影を、そこにないものを斬るかのようで。それでもオレは振り回した。ナイフを振り回した。振って振って、振り回した。泣いてなんかいなかった。オレは泣いてなんかいなかった。

「少女よ」

 落ち着いたその声に、閉じていたまぶたを開く。目の前に、生首の顔があった。

「感謝する。我々だけではどうにもならない場面だった」

 いつの間にか、影の姿は消えていた。影も形も、その痕跡も。オレが、やったのか? オレが、この手で。ナイフを握る、その手が震える。空いた左のその手を重ね、強く強く握りしめる。

「ね!」

 無垢で明るいその声に、妙に身体が強張った。鉄仮面が、空いた二つの空乏の奥から、きらきら輝くその瞳でこちらを覗き見上げていた。

「きみは、だれ?」

「オレは――」

 オレは、オレを知らない。どこから来たのか、なぜここにいるのか。焦がれるほどの願いがなんであったのか、なにもかもが、思い出せない。自分を知らないオレはオレを証明する術を持たず、それ故にオレは、何者でもない。何者にも、なれない。

 だというのに。

「オレは……」

 名前が。

「……リリ、だ」

「リリ?」

 鉄仮面が、オレのこぼしたつぶやきを繰り返す。その響きが、オレの裡へと浸透していく。実感が伴う。“オレがリリである”という事実を、事実として理解する。リリ。そうだ、オレはリリだ。オレは、リリだ!

「オレはリリだ、オレはリリだ! オレはリリだばかこら!!」

「ばかこら!」

「違う、リリ!」

「リリ! リリ!」

「そう、リリ! リリ!」

「ボクはミカ! こっちは友達のベルだよ!」

「それはもう聞いた!」

「それで少女――いやリリよ。お前はこの先どうするつもりだ」

 抑揚のない、落ち着いた声で生首が割り込む。鉄仮面のそれとは間逆な、感情を感じさせない双眸がこちらを直視してくる。

「我々はこのまま先を目指す。お前もそのつもりであるならば、我々には足並みを揃える余地があるのではないかと推測するが」

「……誘ってんのか?」

「そう取ってもらって構わない。どうだろうか、これはお前にとっても悪くない話のはずだ。私とミカは進むべき方角を知っている。それに我々への同行が、お前の失った記憶を取り戻すその切欠になるかもしれんぞ」

 失った、記憶。オレの、名前以外の。願いの。

「オレは……」

「ね、リリ。一緒に行こう?」

 鉄仮面が、オレへと手を差し伸べる。

「でも、オレは……」

 お前たちのこと、あんなに酷く拒絶しておいて――。

「行こう?」

 鉄仮面は、差し出した手を引っ込めようとはしなかった。いつまでも、いつまで経ってもそのままオレの前に、血色の良い柔らかそうな右手を差し出し続けていた。だから、オレは――。オレは、握りしめたナイフをしまった。そして握りしめていたナイフの代わりに、差し出されたその手を握る。

「……いいか、勘違いすんなよ、お前がオレを助けるんじゃない。オレがお前を助けてやるんだ!」

「うんリリ! 一緒に果て先を目指そう!」

「勘違いすんじゃねえぞ! 絶対に勘違いなんかすんじゃねえぞ!」

「うん! たのしみだね!」

 ほんとに判ってんのかよ。そう言いたくなるくらいに無垢で無邪気な鉄仮面の――ミカの態度にため息が漏れる。そうだ、オレがこれを守るんだ。こいつと、この生首ベルを、オレが。オレが助けてやるんだ。そうだ。

“今度こそ、オレが”。

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