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 ばか! こら! ばか! こら! ばか! こらぁ!

「王は人なり、神ならず!」

 本気で斬りかかってきやがった。こいつら本気で、殺すつもりで!

「人には法を、法の罰を!」

 なんなんだよ、なんで追いかけてくるんだよ!

「国捨て民捨て逃げたる王に、王たる資格はもはやなし!」

 オレが何したってんだよ、てめえらなんか知らねえよ!

「頭を下げさせその首落とし、頭上の冠取り戻せ!」

 オレには、オレには果たさなけりゃいけないことが――。

「我らが頭上へ取り戻せ! 人民が頂へ取り戻せ!」

 成し遂げなけりゃならない“願い”があるってのに……!

「独冠王の名の下に! 独冠王の名の下に!!」

 ばか! こら! ばか! こら! ばか! こらぁ!

 煉瓦造りの迷路が如き街並みを、ただ闇雲に彼女は走る。逃げる宛などありはしない。いまはとにかくあの集団から、狂気の文言を繰り返す声から逃げる他になかった。

 眼鏡のおっさんは逃げられただろうか。走っているうちにはぐれてしまった。禄に話もしちゃいないが、無事でいてくれるといいが。そのように考える自分を自分で否定する。ばかか。人の心配してる場合じゃねーだろ。唇を噛み、さらに足に力を込める。走って、走って、道の判らぬままに走り抜け――そうして然るべき結果として、彼女は行き止まりへと追い詰められた。

 なんで、道が、ねぇんだよ。ばか、こら、ばか、こら。心の中で悪態を吐いても、家が分かれて道になることなど当然なく。無意味に足踏みをしている間にも、狂気の声はその大きさを増し。どうしたら、どうしたらいい。唇を噛み、あたりを見回す。そこで、目についた。荷車の上に積まれた、藁の山。ここなら。声が近づく。もうすぐそこまで迫っている。考えている暇はなかった。飛び込むようにして彼女は、藁の中へと潜っていった。

 息を殺し、耳を済ませる。複数の大人の男ども。狂気に駆られた声。暴力的に響き渡る不揃いな足音。あの数に、数も力も圧倒的な大人たちにもし見つかってしまったなら。抑えた息が、意識に反して荒ぶりだす。

 もし見つかったなら。もし、もしも。……その時は、こいつで。懐に忍ばせた一振りの獲物。肉を裂き、生命を奪う刃の煌めき。もしもあいつらが、これ以上オレに危害を加えようとするのなら。オレの“願い”を邪魔するのなら。……やる、やってやる。オレはやれる。オレはやられたりしない。やられるくらいなら、やられてしまうくらいなら、オレは、オレは――。

 鼓動が鼓膜を圧迫し、彼我の距離を幻惑する。まだまだ敵は遠くのようにも、すでに取り囲まれているようにも感じられる。判らない。先に斬りつけてやるべきだろうか。それともこのまま、やりすごせるのか。やる、やってやる。だけど、やりすごせるのなら。下手に手を出し、居場所を明かさない方がいいのではないか。でも、だけど、どっちが――。

 息が荒い。足音が近づく、遠ざかる。声が遠のく、接近する。その不協和音の伸縮が、どれだけの間繰り返されただろうか。確かにそれは錯覚ではなく、周囲から音が消え去っていた。足元も、声も、気配もない。……助かった? 頼りのナイフ。そいつを握るその手をゆるり緩ませ、細く長く息を吐く。それと同時に、強い怒りが沸いてくるのも感じた。

 なんなんだよあいつら、よってたかって追いかけ回しやがって。オレがなにしたってんだよ。今度会ったらただじゃおかねえからな。怒りのままの乱暴さで、藁の山を内側から蹴る。手応えのない感触に苛々は益々つのり、じたばたと暴れるようにして彼女はそのまま足を振り回した。

「ひっ――!」

 足を、つかまれた。

 なんで、バレた。どうして、行ったはずじゃ。頭の中に、無数の疑問が同時に浮かぶ。そうだ、やらなきゃ、ナイフ、ナイフ、やるんだ、守るんだ、自分を。自分で、自分を守らなきゃ、守らないと、だって、守らなければ、自分で、しなきゃ、だって。だって、だって、だって――。けれど、動かない。腕が、手が、固まって、動けない。

「あ、や!」

 藁の中へと暴力的に、大人の腕が入ってきた。手首をつかまれる。あ、ナイフ。ナイフ、振らなきゃ、ナイフ。しかし骨が軋みそうな力でつかまれた手首は、僅かにすら上下させることも叶わず。

「やだ、やめろ、やだ!!」

 オレはそのまま、藁の山から引きずり出された。無遠慮に伸ばされた大人たちの手が、次々に彼女の身体を拘束していく。抵抗し、罵倒し、呪いの言葉を吐きかけても、それらの声を耳にすらしていないかのように大人たちは繰り返す。

「王を殺せ! 冠を取り戻せ! 王を殺せ! 人民に取り戻せ!」

 地面に伏せられ、組み敷かれ、指の一本すらまともに動かせない中で彼女は、狂気に取り憑かれた人々の顔をそこで初めて直視した。怒りに猛る合言葉を重ねし彼ら。彼らは――笑っていた。

 怖い。

 がりがりと、何かを引きずる音が聞こえる。それは徐々に、徐々にこちらへ近づいてくる。伏せられた状態のまま、横目でそれを視界に捉えた。それは、剣であった。分厚く、重く、先端が丸みを帯びた、異様な剣。異様な剣を引きずる、だれか。なぜだか靄がかかったようにおぼろげで、輪郭すら定かでないその、男。

「独冠王の名の下に! 独冠王の名の下に!!」

 男が、オレの頭上で、剣を、掲げた。いやだ。だって、オレは。オレには果たさなきゃいけないことが。成し遂げなきゃいけないことが。“願い”が。“願い”が、あるんだ。あるんだよ。だから、いやだ。いやだ。こんな、ところで、斬られて、なんか――。

「やめて!!」

 声が、聞こえた。大人のそれではない。少年の、まだ甲高な響きが残る声。

「みんなの気持ちは判るよ。そうだよね、みんな、信じたかっただけなんだよね」

 少年が言葉を続ける。静まり返った大人の囲みを、軽やかな足音がこつこつ渡る。

「きっとこれでうまくいくって、信じたかったんだよね。みんなみんな、うまくいくって。みんなみんな、楽しくなるはずだって。でもみんな、その子は王様じゃないよ。王様じゃない子の首を切っても、次の王様を探すだけになっちゃうよ。そしたらまた、次の王様を探すことになっちゃうよ。きっとそうやって、ずっとが続くよ。だから、やめよう? みんな、やめよう?」

 こつんと、足音が最後の響きを打ち鳴らした。視界の端で、それを捉える。大人の胸ほどしかない小柄な少年が、オレと剣の男との間に立っていた。

「それでもみんなが、みんながどうしても納得できないっていうなら――」

 そして少年が、頭を垂れた。頭を覆う、無骨なその被り物と共に。こんな状況だというのにオレは、少年の柔らかな声色にはとても似つかわしくない被り物から目を離せないでいた。だってこれは、まるで――。

「ボクの首で、どうかお願い許してください」

 ……鉄仮面?

「あっははははははは!!」

 とうとつな笑い声が、辺り一帯に響き渡った。上か、下か、右か、左か、多重に反響してどこから発生しているのか判らない、癇に障る哄笑が。

「いやあいやあ、いいお芝居だった。感動的ですらあった。なあタヴ?」

「そうだなテト。あくびをかみ殺すのに苦労する、退屈で最低なお芝居だったナ!」

 ついで、手を打ち鳴らす音が響く。波のように広がる拍手の音。それは、二、三の小さな重なりではなかった。どうしたことか彼女を追いかけ拘束していた男たちがその場に立ち尽くし、誰も彼も感情のないうつろな顔で、機械的に手を鳴らしていたのだ。強く、強く、我が手を打ち砕かんばかりに。

 いや実際に、何人かは指の先をあらぬ方向に折り曲げ、明らかに関節を外していたが、それでも彼らは微塵の躊躇も感じさせずに、己が両手を打ち付け続ける。幸いにも拘束を解かれたオレはその場に立ち上がるも、この異様な光景を前にそれ以上の何もできずにいた。ただ、視線を。唯一頭上へ、向けること以外には。

「それじゃはいはい、ごくろーさん」

「演者のみなさま、おつかれでした~」

 屋根の上に、二人。夜闇に紛れた二匹の何かが腕を交差し、どちらがどちらか判らぬその手で、パチンと親の指を鳴らした。直後、異変が起こる。大人たちが、大人の群れが、ぐずぐずと身体を崩し始めたのだ。顔が、身体が、黒い泥のようになって、地面に広がっていく。広がって、バラバラだったそれらがつながり、一個の何かへと変じていく。足元に、気色の悪い感覚が広がる。だがそれも、僅かな間。泥と化した大人だった何か染み込むように、石畳の地面の下へと吸い込まれていってしまったのだから。

「地面を見たって、大事なものは見つからないゼ?」

「空を見たって、どうせつかめやしないけどナ」

 両の耳から同時、異なる言葉が飛び込んでくる。身体が硬直した。声の正体から離れようとして、足がもつれる。尻餅をつく。尻もちをついて、視点が下がったことで、そこにいる者の姿が視界に入る。そこにいたのは白塗りの面に、頬まで伸びた赤い紅。涙を模した三角マークと、二股に分かれたジェスターハット。見まごうことなき道化師が、そこには二人、立っていた。見まごうことなき道化師二人が、顔を近づけくすくす笑い、こちらを見下し立っていた。耳がじっと、熱くなる。

「な、なんなんだよてめえら、いまのはてめえらの仕業かよ!」

「そうだが?」

「ちがうが?」

「な――ど、どっちだよ!」

「だからそうだと言ってるが?」

「だからちがうと言ってるが?」

「バ――」

 頭よりも身体が先に動いていた。懐に隠し持った獲物を、人を傷つけるためのナイフを取り出す。取り出したナイフを両手に握り、ふざけたピエロに突きつける。

「ばかにすんな! 人をからかってそんなに楽しいかよこら!」

「うわお刃物だこわいこわ~い!」

「ぷるぷるふるえてか~わいいっ」

「答えろよ!」

 それでもピエロはにやにや笑い、まったく同時に話し出す。

「そりゃあもちろん、たのしいサ」

「いやはやまったく、つまらない」

「はてさてホントはどっちかナ?」

「ホントにホントがあるのかナ?」

「この――」

 ばかにしやがって、ばかにしやがって、ばかにしやがって! 一気に頭に血が上る。ただの脅しだと思っていやがるんだ。オレが、本気で、刺すつもりがないとでも思っていやがるんだ。……確かにそんなつもり、毛頭ない。怒っていても、一線を越えない冷静さがそこにはあった。けれどもそうした冷静さとは別に、人をからかって喜ぶこいつらの顔を歪めてやりたいのもまた、事実。抑えきれない怒りに突き動かされていたのも、また事実。

 だからオレは、とにかくこいつらを脅してやろうと、その顔を歪めてやろうとただその一心で、こいつらにナイフを突き立ててやるふりをした。あくまでも、ふりのつもりだった。いくらなんでも顔の前まで突き立てられれば、こいつらだって慌てるはずだと思って。そう思って、振りかぶって、突き出したのだ。

 向こうから飛び込んでくるなんて、考えてもいなかった。

「あっははは! やりやがった、やりやがったナこいつ!」

 刺さったナイフは、白く塗られたのどの真ん中。ナイフと穴のその隙間からごぽごぽと、止めどもない血が流れ出ていく。それを目にして道化の一人が、手を叩いて笑い出す。

「ち、ちが、オレは、こんな――」

「いいや! 言い訳なんて意味はない!」

 爛々と開いた瞳が、狂ったように射すくめる。

「誰を騙し、誰を納得させようと、自分自身は欺けない。欺けないのサ、己を見つめる裡なる目からは」

「だ、だっていまのは、こいつから……」

「ならなぜそんなに慌ててる? 判ってるからだろ、自分でサ。それだってのに、自分で自分を騙そうとして。まったくまったく、どうしてこうもいじらしいのか。なあ――」

 道化がオレを射すくめる。その間にも血溜まりはどくどく広がって、オレはもうどこを見て、何を考えればいいのか判らなくて。でも、その直後。

「そう思うよな、タヴもサ」

 刺された道化が、不自然な速度で上半身を起こした。そして、こちらを見て、のどもとに刺さったナイフを――押し込んだ。血が、吹き出す。その中心でナイフがずぶずぶと、道化の首に呑み込まれていく。すぐにも刃は見えなくなり、それに留まらずグリップまでもが完全に、道化の中へと呑まれていった。

 刺された道化の片割れがこちらを見つめ、笑っていた。突き出した指の三本をつまむような形に変えて、そのまま相方の口の中へと突っ込んでいく。赤が広がっていく。一面に血染めの赤が撒き散らされる。その中で道化が、道化の口からそれを取り出した。呑み込んだナイフを口から取り出し、道化たちは笑い出した。けたけたと気が狂ったかのように、煉瓦の家並みを揺らして笑う。

「な、なにが……」

 口の中が、乾いていた。現実感のない出来事の連続に、身体が拒否反応を起こしかけていた。それでも、それでも彼女はなんとか気勢を振り絞り、折れないために、叫ぶ。

「なにがおかしいんだよ……!」

「なにがおかしい? なにがおかしいって?」

「そんなことも判らないのか? 本当に判らない?」

 赤にまみれたナイフが宙に、くるくるくると舞い上がる。鋭い速度で回転し、重みに従い落下する。それはかつんと音を立て、本来の持ち主である彼女の足元に突き刺さった。それに彼女は、小さく悲鳴を上げた。よくみればそこには血だけでなく、肉片までもが付着していたから。

「だってなタヴ、人は誰しも残酷な見世物に惹かれるものだろう?」

「そうともテト。誰しもみんな、ばかばかしい喜劇に飢えているのサ!」

「あっははははははは!!」

「あっははははははは!!」

「ねっ!」

 道化師たちの、笑いが途絶えた。

「きみたちも願いを叶えに来たの?」

 二人の道化その側に、少年がいた。暴徒と彼女の間に割って入った、鉄仮面のあの少年。明るく無邪気な様子で彼は、道化師たちの前でぴょこんと跳ねる。

「ボクはね、ボクはね、ミカっていうんだよ。こっちは友達のベル!」

 そういって小さな彼は、胸に抱えたそれを頭上へ掲げる。宝物でも自慢するかのように。しかしその光景には、微笑ましさなど微塵もなく。だって彼が抱えているそれは、どう見たってそれは、人間の、人体の、頭部の、生首で――。

「ね、ボクたちね、願いを叶えに行くの。西の果てのセフィロトの、その果ての先へ行くの。そこで願いを叶えるの! だからね、えっと、えっとね――」

 ミカと名乗った少年は、ベルと呼んだ生首を振り回すようにしながらその場で回転し、えっと、えっとと何度か繰り返したあと、ぴたりと止まって道化に向かい、生首突き出しこう言った。

「一緒に果て先、目指そうよ!」

 あくまで無邪気に、少年はそう言い切った。血まみれの、得体の知れない道化師を前に。それに対して道化師は――明らかに、今までとは異なる態度を向けていた。

「ああそれもいいかもナ。タヴはお前ら気に入ったって」

「まったくごめん被るナ。テトがお前ら気に入らないって」

 吐き捨てるような言い方で、二人の道化師が声を揃える。それから二人はんべりと舌を垂れ下げて、身体を反らし、後方に向けて高く高く跳躍した。

「そういうわけだからよ、縁があったらまた会おうゼ」

「どんなわけがあろうとよ、縁がなくても会ってやるゼ」

 落ち行くさなかの道化師が、声を揃えてそう言った。頭部から地面へと落下した二人はどういう原理か頭を砕くこともなく、まるで水の中へと飛び込んだかのように地面の中へと潜っていった。石畳の表面を、波紋がつたう。何気なく、波紋のつたった場所に触れる。けれど石畳は当たり前に、へこみもしない硬い地面のままだった。

「ねっ!」

「……あ?」

 いつのまにやら目の前に、鉄仮面が接近していた。本当に、何の飾り気もない鉄を溶かして固めただけといった風情の鉄仮面。上部に開いた二つの穴から、きらきらと星のように輝く瞳が垣間見える。光り輝く双眸が、まっすぐこちらを見据えてくる。

「きみはどんな願いを叶えに来たの?」

「……願い?」

 願い。その言葉に、意図せず身体が反応する。そうだ、願い。オレがあの大人たちから逃げ回ったのも、戦おうとしたのも、願いを叶えるためだ。何を差し置いても叶えなければならない、大事な大事な願い。生命に変えても、叶えなければならない願い。オレにはそれが、確かにある。

 ――けれど、なんだ。どういうことだ。

「ボクはね、ボクはね、ミカっていうんだよ。こっちは友達のベル!」

 鉄仮面が一人勝手に話し続ける。すべりこむ声が、思考の循環を阻害する。考えなければならないことが、思い出さなければならないことが重ねた無為に空転して、もやのようにすり抜ける。

「きみはだれ? どこから来たの? 何を叶えたくてここに来たの?」

「ま、待てよ、オレは……」

 オレはだれだ? どこから来た? なんのために?

「お父さんは好き? 友達は好き? おとぎ話ならなにが好き?」

「だから、オレは――」

 オレの家族は? オレの友達は? オレの好きなものは?

 オレの、願いは?

「ミカよ、少女は困惑している。矢継ぎ早に捲したてるお前ではなかったはずだろう」

 聞いた覚えのない声が、すぐ側から発せられた。鉄仮面が、抱えたそれを見下ろしながら「あ、そうでした! ごめんなさーい」と朗らかに応える。その、抱えたものに対して。生首の、それに対して。

 生首の目が、無感動に動いた。

「生首が口を利くのがそんなに珍しいか」

 生首が、当たり前のように口を開く。視線を動かし、オレを見る。言葉を失う。何かを言おうとして、息ばかりが出て何を言っていいのか判らなくなる。鉄仮面が「ベルだよ!」とそれを突き出してくる。それは聞いた。さっきも聞いた。聞きたいのはそういうことじゃない。いや違う、そもそも考えていたのはこいつのことではなかった。なかったはずだ。

「だって首が、首だけでそんなの……おかしいだろ!」

 大人たちに追いかけられて、正体不明の道化師にからかわれて。

「なぜおかしい」

 鉄仮面のガキに絡まれて、そいつの抱える生首がしゃべりだして。

「普通じゃないっていってんだよ! 当たり前だろ!」

 それから、その前には――。

「判断に足るだけの頼りもないというのにか」

 ここに来る、その前には――。

「やはりな。少女よお前――」

 前、は――。

「何も思い出せぬのだろう」

 返事は、できなかった。

「それって……ぜんぶ忘れちゃったってこと?」

「そのとおりだ」

「うれしいことも、しあわせなことも?」

「そのとおりだ」

「好きなことも、友達のことも?」

「そのとおりだ」

「願いも?」

「そのとおりだ」

「大変だ!」

 鉄仮面が、オレの手を握ってきた。ぐいっとよってきたその頭に、鉄仮面に、額と鼻がかつんと触れる。ひんやりとした鉄の感触が、その声の振動が、こちらにまで伝わってくる。きらきらと輝くその目と視線が合う。

「ねっ、きみ、一緒に行こう! きみのこと、果て先まで連れてってあげる! 忘れた全部思い出させてあげる! だからね、安心してね。きみのこと、ボクが――」

 きらきらと星のように輝く、その瞳が。

「助けてあげるから!!」

 かっと、熱が、頭に上った。

 立ち上がっていた。見下ろしていた。突き飛ばしていた。

「たの、たの……頼んでなんかないんだよ、お、お、恩着せがましくしやがって!」

 石畳に刺さったナイフをつかむ。生暖かくぬるっとした感触がてのひらに広がる。前後に振って、引き抜こうとする。左右に揺らして、引き抜こうとする。抜けない。

「お、オレは一人で十分なんだ! さっきだって、オレ一人でどうとでもできたんだ! それをお前が、お前が、お前が余計な真似、余計な真似して……よ、余計な真似したんだろうがこのばか! ばかこら!」

「少女よ」

 なんで抜けない。なんで抜けないんだばか。なんで抜けないんだこら。

「なにゆえ涙を我慢する?」

 息が止まる。

「――してない!」

「手伝うよ!」

 しょうこりもなく鉄仮面が、オレの手をつかもうとする。頭を振って拒絶する。鉄仮面の頭部と衝突する。オレも鉄仮面もひっくり返る。

 ナイフが、抜けた。 

「してない!」

 ナイフを握る。握って、握って、目一杯の力でそれを握りしめて――。

「してない!!」

 一散にオレは、その場から逃げ出した。


 自分にも、理解できなかった。どうしてあれほど正体をなくしてしまったのか。大人たちでもない、道化師でもないあの二人の、いや、あの鉄仮面の言葉にどうしてあれほど激高してしまったのか、オレには理解できなかった。ただ、あの響き。あの響きにだけは、どうしても我慢のできないなにかを感じたのだ。

 助けてあげる。

 判らないことだらけだった。ここがどこなのかも、なぜここにいるのかも、自分が誰なのかも。……自分が、何を願っていたのかも。

 行く宛なんて、もちろんない。だからといってあの二人の下へもどるだなんて、一層ありえない。故にオレは当て所もなく歩き通し、歩いて、歩いて――そのうちに、開けた場所へと辿り着いた。

「ここは……」

 その場所には見覚えがあった。失った記憶の一部――という訳ではない。気が付いた時、最初に立っていた場所。それが、ここだった。あの時はすぐにもあの暴徒たちに追いかけ回されたために周りを見回す余裕もなかったが、いまは一人もここにはいない。――いや、一人いた。広場の中心に一人、何者かが立っていた。

「おっさん!」

 叫び、オレは駆け寄っていく。この世界で初めてであった人物、眼鏡をかけたおっさんに向かって。名乗り合う間もなく逃げる羽目になってしまったためほとんどまともに会話もできてはいないが、関わりのあった者がこうして無事でいてくれたことに喜びと安堵感を覚える。だからオレは、先程までのわだかまりを払拭するように駆け寄っていった。けれどおっさんの様子は、どこかおかしく。

「おっさん……?」

「私は」

 広場に設けられた舞台場。飾り気のないその演壇でおっさんが、虚空を見上げて手を伸ばす。

「私は思い出した。私はただ、誰もが苦しむことなく幸せに暮らせる世界を夢見ていたのだと」

 眼鏡の奥の虚ろな瞳は焦点が合っておらず、その様子にオレはなぜだか不安感を抱く。不安になって、おっさんに呼びかける。けれどおっさんに反応はなく。

「国民すべてが自由に、平等に、平和に生きる共和の世界の実現を、ただそれのみを夢見ていたと」

 虚空を見つめたままおっさんが、後ろ歩きに下がっていく。一歩一歩、虚ろな気配とは裏腹に確かな確かな足取りで。

「君よ、公に尽くし給え」

 後ろ向きに、確かな“そこ”へと向かうように。それが、不安を、助長する。

「民こそを神とし、すべての民が民に仕える。それだけが唯一夢見た国家を実現するものと、貴き善を示しさえすれば誰もが理解し追随してくれるものと、私はそう信じていたのだ。しかし――」

 呼びかけながら、手を伸ばした。だが――。

「どうやら私は、誤っていたらしい」

 おっさんの身体が、燃えた。そして――。

「公是を絶対とし、私欲を捨て去ることを強要した私に、いまさら己が願いを求める資格があるだろうか? ありはしない。そんなことは、それだけはあってはならない。故に――」

 オレの、指先も。

「七日だ」

 指を、引っ込めた。反射的に。すると炎が、指の周りの炎が消え去った。一切の痕跡もなく。

「このセフィロトに留まれるのは創造に掛かった日数に等しく、七日の期限の間のみ。だがそれとても、七日の滞在を担保するものでは決してない」

 オレは、それ以上先へ行けなかった。おっさんは下がり続けた。赤い炎に包まれながら、痛みも熱さも伺わせない無表情で下がり続けた。

「炎の剣は壁と化して、常にその幅を狭めている。願いを抱いて訪れた、惑い人の背中を追って」

 猛る炎が燃え広がる。広がる炎の向こう側に、何かが見える。炭のような、なにか。人の形をした、なにか。うごめくそれが、炎にあぶられゆらめいている。

「君よ。君がもし、死に至る病を克服せんとする先駆の勇士であるならば。先へ進み、先へ進み、先へ先へ願いへ進み――」

 炎に焼かれるおっさんも、炭のひとつに変じていく。うごめくそれらと同化する。そして――。

「過たず、心のままに明日を拓き給え」

 炎が、消え去った。

「なんだよ……」

 指先を見た。火傷の痕もなかった。けれど心は、覚えている。あの、燃える感覚。焼かれた感覚。錯覚などでは決してない。あのまま焼かれ続けていたら、もしかしたらオレも、おっさんのように……?

「わけわかんねーよ……オレにどうしろってんだよ……」

 おっさんは言っていた。七日。このセフィロトとかいう世界に留まれる日数は七日しかないと。しかもそれは、七日の間の安全を保証しているわけではない。あの燃える炎の――壁とでも形容する他にないものが、常にこちらに迫りつつある。こうしているいまも、と。

 ……願いを叶えれば、いいってことなのか。先に進んで、願いを叶えれば。でも、それが、わかんねーんだよ。だってオレは願いはおろか、自分の名だって思い出せちゃいないだ。こんな状態で、いったいオレに、どうしろっていうんだよ……。

 うなだれていた頭を上げた。音が聞こえて。遠く小さく、かすかな音が耳に届いて。

 悲鳴が耳に、響き渡って。

「なんなんだよ……なんなんだよ、次から次にぃ!」

 拳を握り、行き場のない衝動を地面に叩きつける。何度も、何度も、何度も叩きつけて――それで、立ち上がった。立ち上がり、悲鳴の聞こえた方に向かい、地面を踏みつけ走り出した。

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