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「王鯨アドナ!」
煌めく夜の星海を割り、黄水晶の王鯨アドナが空を舞った。皮膚と一体化した水晶が海と空の星光をきらきらと反射させ、島のように巨大な鯨が一個の宝石のように光り輝いている。その光景に彼ははしゃぐ気持ちを抑えられず、舟から落ちんばかりに身を乗り出してそれを見上げた。一瞬を永遠に切り取ったかのようなその幻想。しかしそれは当然の帰結として時の重力に従い、鯨は元いた海の住処へと潜りもどった。その煽りを食らって生じた波に、彼の乗る小さく簡素な小舟が激しく軋む。縁から離れた彼は胸に抱えるそれを、強く強く抱きしめた。潰れてしまわんとばかりの力で、目一杯に。
揺れが収まった。抱えたものの無事を確かめ、彼は再び海へ寄る。身を乗り出し、暗い海面に漂い流れる星屑の群れへと手を伸ばす。
「うふふ、パチパチする。パチパチ!」
弾けるようなこそばゆいような刺激が、ちりちりと彼の手を通過する。ぎぃこぎぃこと櫂を漕ぐ渡し守のその一定に保たれた速度によって、何をしなくとも不可思議で心地の良い感触が無限に衝突し続ける。楽しい。楽しいな、とってもとっても楽しいな。
「あのね渡し守さん。ボクね、いろんなところを旅したよ」
深く深くローブを被った渡し守。深海のように光の届かないその裡には、どのような面貌が秘されているのか伺えない。けれども彼はまるで気にする様子なく、機械のように櫂を漕ぎ続ける渡し守に話しかける。
「星の飛沫の流れしアッシャーにも行ったよ。幾何対黄金のイェツィラにも行った。果てなき東のクリフォトも旅したんだ」
海に沈めた手指を折って、旅したそれらの場所を数える。アッシャー、イェツェラ、クリフォト。アッシャー、イェツィラ、クリフォト。ボクが旅した三つの秘境。ボクらが旅した夢の頂。
「でもね、願いは叶わなかったんだ。願いはね、ぜんぜん叶わなかったの」
折った指を広げて跳ねて、水と星とを空に撒く。きらきら輝く幽かな光が、宙に留まり置いてけぼりに。舟はますます先へと進み、海を割って走りゆく。
「だけど、ここなら叶うよね。ここなら絶対叶うよね。だってここは、使徒王さまが最後に旅した場所だもの!」
舟は走る。変わらず走る。海と空の狭間の裡で、無音の飛沫のひとつとなって。装置のように正確に、渡し守は櫂を漕ぐ。
「渡し守さんは無口だね!」
あははと無邪気に彼は笑う。
「ボクは好きだよ。おしゃべりするの、好き。大好き!」
胸に抱えたそれをぎゅうと抱きしめ。
「だっておしゃべりは、相手がいなきゃできないことだから。相手がいるのって、幸せだから。だからボクは、おしゃべりが好き! だから、だからね、ボクは願いを叶えないといけないの」
自分の頭に等しいそれを、ぎゅうぎゅう強く抱きしめて。
「ボクの友達はね、病気なんだ。ずっと前からずっと病気で、ずっとずっと苦しんでるの」
首から上を切断された、生首の友達を抱きしめて。
「だからボクが、願いを叶えて助けてあげるの!」
目をつむった生首を、両手に掲げて。
「この――『西の果てのセフィロト』で!!」
海が引き、そこに隠されていたものが顕となる。人、国、太陽と王冠。王冠から伸びる影。おぼろにゆらめく焔の剣と、二体一対の緑の怪。幽かに灯る三重の輪に、そして、そして、それから――彼方に聳える、一本の大樹。瞬間重なり映ったそれは、けれども直後に無限に退がり、いまや映るは煉瓦の家並みと、寄り合い重なる屋根の連なり。
舟が、止まった。
「渡し守さんありがとう! 行ってくるね!」
生首の友達を大事に抱え、彼はぴょんっと舟から降りる。果てへと連なる入り口の門、始まりのマルクトを前に、軽やかに足を弾ませて。これから始まる大冒険に、期待で胸を弾ませて。
「ここには何もない」
声が、聞こえた。背後から。振り向く。そこには舟と、渡し守。渡し守の深く被ったローブの奥の、その暗闇の奥で何かが、何かが蠢く気配を感じる。
「ゆめ、忘れるな。お前をここへ連れてきたのは――」
あ、と、声が漏れた。星の海が深く沈み、その反動を利用するかのように空へと舞った鯨の王。島の如き威容のアドナが、皮膚と一体化した黄水晶に天と海の光をきらきら反射させ、そして――。
アドナが。喰われた。
島のように巨大なアドナを、まるで、まるで大陸のように巨大な何かが――長く、長く、長い、全容などとてもつかむこと敵わない何かが、海から飛び出した何かが、アドナをその牙に捕らえた。大気を震わせ、アドナが絶叫する。抵抗する。しかしその力の差は見た目通りに明らかで、アドナの身体は血にまみれて、二つに裂けられ、かろうじてつながっていた頭部は胴から完全に離れて、落ちて。
首が。
「私だ」
血の雨が降る。赤いつららの無数の雨滴が、海に漂う星を割く。理越えて空へと上がり、天の星をも砕きゆく。血と腑と星の混合する中空の赤い霧。霞みがかったその奥で、長きものがうねっていた。アドナを裂いた長きものが、霧の奥からこちらを見ていた。鈍く輝く緑の瞳がこちらを見つめ、そのままくわりと、目尻を歪め――。
「ミカ」
声。胸の裡から。抱えたもの。目を開いている、それ。――友達。
「……おはよう、ベル!」
ベルがきょろりと瞳を動かす。意図を汲み、視線の向きを変えてあげる。ベルの瞳がきょろりきょろろと、忙しく辺りを見回して。つられて彼――ミカも真似をして、辺りにきょろきょろ視線を飛ばし。
「着いたのか」
「うん!」
霧はすでに、晴れていた。長いものも、舟も、渡し守も、いつの間にか消えていた。いまは凪いだ、星の海。ボクらが目指した、夢の頂。そのはずの場所。だいじょうぶ。心のなかで、呪文を唱える。
その時だった。門の向こうから、声が聞こえてきたのは。
「ねえベル、いまのって」
「どうやら悲鳴のようだ」
「大変だ、助けに行かなきゃ!」
待て、ミカ。抑揚なく止めるベルの言葉も聞かず、ミカは勢い駆け出した。そして彼らは門をくぐり、ついには足を踏み入れる。『西の果てのセフィロト』へ、彼らは足を踏み入れる。
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