桜、葉桜

第1話

時代という、目に見えない、それでいて大きな、流れ

人はいつもそれに翻弄され、巻き込まれる

それは、抗い難く、御し難い

だが、その流れに、うまく乗ることができたものは

次の時代の主役になることが出来る

うまくは乗れなくても、何らかの方法を以って、押し流されずにいたものは

辛うじて次の時代を生きる権利を得る

それは、恰もノアの箱舟のようだ

誰がその箱舟に乗るものを選んでいるのか

その権利を決めるのは誰なのか

その権利を決めるのは、何なのか


それは、誰も、知らない。


 その、大きな時代の奔流の中、後に平安と呼ばれる時代がゆっくりと終わりに近づいている時節。正に、何ものかによる選別により、箱舟に乗るものと、滅びゆくものが分けられようとしていた。

 それは、いつの時代も無慈悲に行われる。誰の、どんな都合も通用しはしない。だからこそ、公平であると言えるのかもしれない。

 あくまでも、大きな視点をもってすれば、ではあるのだが。


そんな中で一瞬の煌きを放った、小さな恋の欠片。


 桜舞う濡れ縁に、一組の男女が座している。

 他に人は無く、冴え冴えとした月と、盛りを過ぎた桜だけが、彼らを見ていた。

 男の方は今を時めく源氏の若武者、源九郎義経。女の方は、都で名高い白拍子、静御前。美男美女が花明かりの下に並ぶ姿は、絵物語の一枚の様であった。

 だが、その主役である若者、九郎は、浮かない表情を見せていた。散りゆく桜を見つめる目が、月明かりに揺れ、僅かに濡れている。

 九郎は小さく息を吐いた。その息と共に、心の欠片が零れ落ちる。

「……怖いな」

そう呟いて、九郎は静の手を握った。

「まあ」

静はそう言って九郎の手をそっと包み込んだ。

 九郎の手が、冷たいことに気付く。大気の温度だけではない。何かが、九郎の手を、心を冷たくしているのだ。それが、何であるのかは、分からない。

 静の白く細い指が、やわやわと九郎の手を包み込んだ。歴戦の武者、というには、少しばかり細い気もするが、確かにそこには、武骨な武士の香りがあった。それまで静の手に触れた、都の貴族たちとは違う。

 驕る平家を打ち倒し、法皇の覚えもめでたく、将来を約束されたような、源九郎義経。都でも九郎の噂で持ち切りだ。正に時の人と言える。

 その九郎が、怖い、という。

 それも、そのようなことを吐露するにはあまりに弱い、女である自分を相手に。

 普通、男であれば、自分の力を誇示したがるものだ。権力であったり、腕力であったりするが、力ということには変わりはない。そうすることで、見初めた女性を自分のものにしようとする。そういう生き物だと思っていた。

 だが、義経は最初からそうではなかった。己の手柄を誇るでもなく、何を欲しがるでもなく、ただ、与えられるものを素直に受け取り、感謝し、九郎を慕う皆の間で笑っている。

 そして、今、怖い、とすら、口にする。男が、武士が口にすることを避けるようなことを、さらりと。

 一度戦に出れば、奇想天外で豪胆な策を用い、何度も源氏を勝利に導いた。しかし、その心根は、素直で、真っ直ぐで、時に子供のようにすら見える。この不思議な男に、静は心惹かれていた。

「何を恐れることがありましょう」

静がそう言っても、九郎は首を横に振るばかりであった。

「怖いのだ。あれほど権勢を誇った平家も滅びるときは一瞬だ。静、この世に確かなものは何もないようだ。昨日在ったものが、今日にはなくなる。そのようなことが起こるのだ。容易く、突然に。法皇様から認められたとて、その寵も明日には消えてなくなるやもしれぬ。あれほど、私との再会を喜んでくれた兄上も、このごろは会ってもくれぬ。何故だ。何が変わってしまったのだ」

九郎はそう言ってはらはらと泣いた。

 泣き顔はまるで幼子のようだと静は思った。そして、そういうところは、どこか公家のようであるとも思えた。 殊更に武士は泣くまい。このように、誰かの前で、女子の前で、弱みを見せるようなことなど。

 だが、それが九郎なのだ。九郎は、元々武士として育ったのではないと言っていた。それが、九郎の素直さの元になっているのかもしれないと、静は思った。そのことが、九郎にとって良いことなのかどうかは、分らないけれど。それでも、静は九郎のその素直さも好ましいと思った。

「九郎様」

静はそっと九郎の胸に寄り添った。

「世に生きる多くの民草は、ずっとそれを感じて生きておりまする。この世は儚く、夢幻のようなもの。今日手にあるものが明日には誰かに奪われる。そのようなことは、常の事にござりますれば」

「常か」

「はい」

静は微笑んだ。九郎はその静の微笑みが心に刺さった。静が、失うことが常、ということを口にすることが、どうにも哀しかった。

「静もか」

「え?」

九郎は静を強く抱きしめた。

「そなたも、幻なのだろうか。今手を離したら、桜の花になって、散ってしまうのだろうか」

「桜の?」

九郎の言葉に、静は怪訝な声で言った。

「そうだ。あの時。あの宴でそなたを見たとき、息が止まった」

そういって九郎は庭の桜をじっとみやった。桜はもう、はらはらと花びらを散らしている。枝には緑の葉が顔をのぞかせ、新たな時を迎えようとしていた。

 時が変わろうとしているのだ。

「桜の精が舞っているのかと思った。桜に寄りし蝶が、人の姿をして現れたのかとも」

九郎は目を閉じ、その光景を思い浮かべる。

 白拍子姿の静が、扇を閃かせて舞っている。九郎はそれを、盃を持ったまま凝視していた。

 動かなかったのではない。動けなかったのだ。

 少しでも動いてしまったら、この美しい蝶が、驚いて逃げてしまうと思った。

「桜は、時が過ぎれば散りまする。蝶も、冬が来れば死にましょう」

「静」

「されど、私はここにおりまする。幸か不幸か、わたくしは人にございますれば」

そういって静は体を起こし、微笑んだ。

「静」

「はい」

じっと見つめあう瞳が、揺れる。

 時代という風がどうにも抗い難く、すべてを変えていく。それでも、変わらぬものがあると、信じさせてほしい。永遠にとは願わずとも、今この命の尽きるまではと。

人という刹那の夢が、終わるまではと。

 終わりがあるからこそ、夢は美しい。その夢には価値がある。命を懸けるだけの、価値のある夢を、人は現に見ている。

 だが、たとえ美しくなくとも、価値がなくとも、長く、その夢を見て居たいと思うのもまた、人なのだ。

 愛しいものがあればこそ、その夢を命かけて美しく飾りたいとも思い、美しくなくとも、長く夢の中に在りたいとも思う。

 愛しい。

 そう思わせてくれる何かが、誰かがあることが、そのまま、その夢の美しさになる。その夢の、価値になる。その想いこそが華にとなり、夢を彩り、輝かせる。

 自分にとっての華は何か。戦で立てた功か。法王より賜いし位か。今、失いかけている、血の絆か。それとも

「静」

「……はい」

九郎は、同じ言葉を繰り返した。静はそれに、ゆっくりと答えた。九郎の言葉を飲み込み、その後に答えるように。同じ言葉を繰り返す、その意味を、静は訪ねなかった。僅かばかりの疑問は、心のうちに秘めた。

 九郎はそっと、静の手に触れた。その、か弱そうに見える白い手を、優しく、優しく撫でる。体温が伝わる。懸命に生きようとしている、人間の命の熱。もう、それだけで、胸の内の不安は、穏やかに凪いでいくようだった。

 静は、きっと自分よりももっと大変な想いをしている。九郎はそう思った。だからこそ、無くすことを常と言うのだろう。さらさらと砂が掌から零れ落ちるように、現にあるものの全てが不確かで、いつ失われてもおかしくない。そういう世界に彼女はいたのだ。そして今尚、それは変わらないのかもしれない。

 しかし、彼女はそれでも生きて来た。世の中の不条理を感じながら、それでも懸命に生きて来たのだ。彼女の微笑みが、今、自分に向けられている視線の一つ一つ、その吐息の一つ一つが、彼女が懸命に生きて来た証になっている。

 美しい、と、改めて思った。初めて見た時よりも、更に、更に強い気持ちで。心の底から揺さぶられるような気持ちで。だが、言葉には出来なかった。言葉にしてしまったら、あまりにも普通で、あまりにも拙い形にしかできそうになかったからだ。

 言葉にする代わり、九郎は、自分の膝に迷い込んだ桜の花を摘み、そっと、静に差し出した。

 静はそれを、優しく受け取った。

 そうして、二人は穏やかに微笑みあった。

 いずれ、大きな流れに翻弄されるのだとしても、今、この時を確かなものにしたい。

 そう、願いながら。

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桜、葉桜 @reimitsuki

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