釣瓶縄井桁を断つ

第一話

 普通だったら既に死んでいる。

 黒髪の青年レクスは、三日三晩何も口にしていない現状を振り返って、ため息を付きそうになった。

 世界中を旅すると決意したものの、あの盆地から出たことのない子供が上手くやっていけるはずもなく。何とか無事に山は越えられたが、およそ人間らしい生活を送っているとは到底言えなかった。



 ずっと地面に埋まっていたせいで身に纏っている服はボロボロ。土汚れに塗れ、また山越えのときに魔物に食べられそうになったため、一部分が欠けている。

 特殊な性質のお陰で荷物は非常に少ない――というか何も持っていないが、これでは人前に出たときに不信感しか抱かれないだろう。



「はぁ……」



 ままならないものだと、彼はため息をついた。



 精霊樹の前で決意してから、三日ぶっ通しで歩き続けている。幸運なことに山を越えてから整備された道が見えたので、そこを進んでいるのだが。

 草木がそこかしこに繁茂し、長い間誰も通っていないかのようなその様子は、レクスの心に暗い影を落とすには十分だった。



 道の先に目的が一切見えないことも拍車をかけている。行き先のない旅とは、初めは良いが段々と辛くなってくるものなのだと学ばされた。

 旅の最初はキラキラした目をしていた彼であったが、現在は淀んだ……言ってしまえば、疲れに疲れたような暗い目をしている。彼を見た人間が、思わずそっと目を逸らしてしまうほどには。



「ん……?」



 そうして「早くどっかに着かないかな」と考え続けていると、敵意に塗れた視線を感じるような気がした。

 勿論戦闘経験などないレクスにとって、それはただの勘によるもの。しかしガサガサと茂みから音がして、更に唸り声まで聞こえてきたとなると、信じるには十分だろう。



 まずいな。



 たらりと、頬を汗が伝う。

 今までの生活で戦うことがなかったから、武器など持っていない。こんな状態で魔物や飢えた獣に襲われなどしたら、たちまち美味しく頂かれてしまうだろう。それで死に至るわけではないが、人間を逸脱した感覚まで持ち合わせているわけではないので、歓迎できない。



 若干腰を落として当たりを警戒するものの、そこらじゅうから音が聞こえるような気がして、効果は薄い。

 キョロキョロと視線を巡らせ、来るのか、来ないのか……! と唾を飲み込んだその時。



「グラアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!」



「ッ!!」



 声を上げて襲いかかってきた一匹の狼。

 意味が薄くとも警戒していたことが奏をなした。レクスは反射的に狼を蹴りつけると、意外なほど軽いその感触に違和感を感じながら、そいつと対面する。



「………………」



 随分とギラついた目だ。金色のそれは怪しい光を宿しており、今は殺意にまみれている。

 そして身体は骨が浮き出るほど痩せており、先程の軽さに納得した。

 元来、一匹狼とは群れでの争いに負けて追放されたものだ。彼らは集団で狩りが出来なくなるために獲物が取れず、やがて餓死する。目の前の狼もその口だろう。飢えに苦しんでいたところ、大した武装をしている訳でもない人間えさがやってきた。だったら、襲って食ってしまおうと――。



「……俺も同じだよ」



 不老不死とは言え、人間だ。ずっと何も口にしないで“健康な状態”を維持できるはずがない。

 現在レクスは極度の脱水症症状にあり、また極度の飢餓状態である。そこら辺に転がっている石がパンに見え、何度噛み付いてみようかと思ったほど。

 精霊の力により生きてはいるが、それだけ。

 半分ほど棺桶に足を突っ込んだ状態の彼は、壊れた危機管理能力のせいか笑みを浮かべた。



「グルルルルルルルルルル……!」



 細い顔を揺らしながら唸る。

 もはや唾液すらも分泌できないほどなのか、その口はカラカラに乾いていた。

 対するはボロボロの衣服を纏った不審者死にかけ。もう傍から見たらどっちもどっちのみすぼらしさではあるが、当人達にとっては生きるか死ぬかの大勝負の最中である。



「俺は……こんなところで止まる訳にはいかないんだよ……!」



「グラアァァァァァ!」



「やんのかこらぁ!」



 ちなみに彼らは戦闘を開始しようとした時点で栄養不足により倒れた。






















「生き返る」



 咀嚼。

 赤い果実をむしゃぶりつくように口へ運び、とにかく咀嚼。喉を鳴らして飲み込めば、今までの苦しみも含めて、この世の何よりも美味しいような気がした。



 結局、あの後負け犬……一人と一匹は呆然と空を見上げていたが、それによって近くに生えていた木に赤い果実がなっているのを発見する。

 栄養失調とは言え不死であるレクスが根性で立ち上がり、何とか木に登ってそれを口にすると、シャクリとした確かな感触が優しく歯に反発し、中から漏れ出すように甘い汁が飛び出してきた。



 それからはもう夢中だ。数え切れないほど実がなっていたことにかこつけて、見る者がドン引きするような勢いで貪る。幸い観測者は負け犬の片割れしか存在しなかったために、彼の尊厳は守られたが。



「ふぅ……よく考えたら、長い間何も食べてなかったんだよな」



 精霊樹が崩れてから、レクスは土に埋まっていた。固いそれを何とか掘り進め、三日ほど前にようやく地上へ飛び出してきたのだ。それはさながら、長い間を地中で過ごす蝉のように。

 久しぶりに浴びた日光と精霊樹の子供を見たおかげで、気持ちが高ぶりその時は気が付いていなかったが。



 何日ぶりか何ヶ月ぶりか、はたまた何年かぶりか。

 地中で時間感覚など壊れていたので、どれほど物を食べていなかったか分からない。



「……お前、これ食べる?」



 少し考えた後に声をかけたのは、未だ道の真ん中あたりで寝転んでいる狼。

 彼の者が果実を食べられるのか……確か狼は肉食であった気がするが、とりあえずは声をかけてみようとレクスは木を降りた。



「………………」



 胡乱げな目で見上げる狼。

 その視線に込められた意思は明白で、“こいつ馬鹿なんじゃないか”であった。

 先程まで死闘を繰り広げていた――実際は始まる前に終わった――というのに、死にかけの自分に施しをしようとするか。果実を差し出しているその手ごと、ぱくりと頂いてしまおうか――?



「…………がう」



「あ、食べた」



 レクスは少し微笑む。

 掌に載せた果実を器用に口で受け取ると、少しずつシャクシャク食んでいく。

 狼なのに肉以外も食べられるんだな、と彼が意外に思っていると、そいつの尻尾が二股に分かれているのが見えた。



「魔物」



 魔力を宿した、通常の生き物とは異なった性質の異形、魔物。

 目の前のこいつが「狼」ではなく「狼によく似た魔物」であると言うならば、確かに果実を食べられると言ってもおかしくはないのかもしれない。違和感は凄いが。



 何個か果実を食べて元気になったのか、まだフラフラとではあるが己の脚でしっかりと立ち上がる狼。

 その目には疑問が宿っているようで、読み解くならば“何故自分を助けたのか”だろうか。



「……………………」



 レクスは天を見上げ、しばし考え込む。

 確かにこの狼は自身と死闘を繰り広げた相手で――なお実際は始まる前に終わった――あり、助けたのならばすかさず反撃を受けていてもおかしくない。

 それなのにも関わらず、彼の者を助けたのは一体何故だろうか。



「…………あぁ、そうか。俺は、目の前で死んでほしくないんだ」



 すとん、と納得。

 自分の力では全てを救うことなど出来ない。しかし、せめて、目の前で何かが死ぬのは……彼女のような存在を生みたくない。

 子供らしいエゴだろうか。人に言えば笑われるかもしれない。しかし、レクスにとっては自分を危険に晒してでも、守りたい想いだった。

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