ベランダのあの人

低速ランナー

第1話「煤けたあの人」

別に紛争地帯だの貧困地域だのに目を向けなくたって、俺より不幸な人間は幾らでもいる。


仕事帰りに寄ったコンビニで買ったカツサンドの封を開けながら、ふとそんな事を思う。引っ張り出したカツサンドはまだ冷気を保っていた。


「だから何なんだよ……」


ため息と共に、レジ袋の底に残っていた煙草と缶コーヒーを取り出した。毎日21時に帰宅して冷えた飯を食って、動画サイトをぼーっと眺めて風呂に入って、後は寝るだけ。


世界から見ればマシでも、俺の世界では俺は充分に不幸だ。何の為に生きてるのか、死ぬまでにあとどれくらい同じ問いを繰り返さなければならないのか、考えるだけでウンザリする。


食い飽きたソースの残り香も缶コーヒーで流し込めば後は不快な苦みが口内を支配して、なかった事になる。ゴミを捨てるのも面倒になってテーブルへ放置したまま煙草とライターを持ってベランダへ出た。


体中を熱気に抱擁されると、備え付けの骨董品みたいなクーラーですら存在している意味はあるんだと思い知らされるようだった。


手すりへもたれ掛かるようにして景色を眺めながら煙草の蓋を開き、ふと視線を右へ向けると──その人は居た。


夜の闇に溶けてしまいそうなスーツ、そしてその隙間から覗く白いカッターシャツの輝き。


不快な温度を抱えた夜風を気持ちよさそうに浴びて揺れる黒い髪。そして対照的に白く透き通った肌は火災現場から出てきたみたいに所々煤けている。




そんな、そんな見た目の女が。


手すりに腰かけて呑気に夜景を見下ろしていた。


「…………………………ぁ」


普段から、仕事に必要な最低限の会話しか行ってこなかった喉が突然の事で上手く開かない。こんな時間に大声を出したら近所迷惑だし声が出なくて良かった、とか。


無意味な思考が一瞬脳を駆ける間に、その女はこちらへ視線を寄こす。


「あっついね」


また揺れた髪の隙間から見えた、やたらと複雑でアイデンティティを主張するような造形のピアスが首の動きに合わせてちゃり、と音を立てた。


女は急に出てきた俺に驚いた風でもなく、人の家に侵入している所を見つかった事で焦っているようにも見えない。


「そ…………すね」


会話が出来る相手であることを確認した途端、現実的、あるいは非現実的な恐怖が背筋を上る。


泥棒?幽霊?もしかしたら殺人鬼とか。放火魔かも。


「今日はもう最悪でさ。アイツ、あっちこっち燃やすからお陰で煤だらけ。あー、早くシャワー浴びたい」


混乱の真っただ中に居る俺を無視して、女は喫煙所で同僚と会話するみたいな調子で話しかけてくる。


「ね、煙草くれない?ほら、燃やされちゃって」


女は普段そこに煙草を入れているのか、スーツのポケットがあったであろう辺りをパタパタとして示す。


視線をやると、ちょうどその辺りが焼け焦げたみたいに大きな穴をあけていた。カッターシャツごと焦げたのか素肌が覗いたような気がして慌てて視線を逸らす。


「あー……結構強いけど大丈夫っすか」


混乱と高揚感の入り混じった震え声と共に10mgの致死薬を差し出すと、女は嬉しそうに受け取って指先で叩いて火を付ける 、、、、、、、、


熱気と煙を肺いっぱいに吸い込んで、気持ちよさそうに吐き出す女を見て俺も煙草を咥えると、女は小首を傾げて指先をゆらゆらとさせた。


もう、どうでも良かった。この人の正体だとか、指先で火を付けたとか、明日の仕事とか、これからの人生とか。ただ、小さな高揚感だけが俺を支配している。


俺は頷いて少しだけ女の方へ寄って煙草の先端を向ける。小さく叩かれたそれを落としてしまわないように唇に力を込めると、ソレはすぐに熱を持って紫煙を漂わせる。


「あっついね」


女はまた、繰り返す。


「そっすね」


今度は詰まらずに答える事が出来た。


灰を零しそうになった女に携帯灰皿を差し出して、自分はまた大きく肺を膨らませる。


暫くの間、俺たちはただそうして夜景を眺めていた。


──海、見えるんだな。ここ


新鮮な発見に柄にもなく口端を緩めていると、女が煙草の火を指先でつまんで消した。


「じゃ、そろそろ帰るね」


女はそう言ってベランダの手すりの上へ立つ。


「……はい」


何か、何か言わないといけない気がしたが上手く頭が回らない。いつもより深く吸ったせいかぼーっとしていて、首元に滲んだ汗の不快な感覚だけが鮮明に俺を刺激していた。


「またね」


小さく笑って、女は当たり前のようにそこから飛び降りて見えなくなった。


俺はただそれを見送るだけで、何も言えなかったけど。


その短い一言で、別に何か言う必要もなかった気になった。




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