OnzE

「なにをされてるんですか!」

 ……怒鳴り声。女の。線の細い。

「あなた……あなた! なんなんですか! 勝手に入って! 勝手に私の場所に!」

 女が女につかみかかる。歪んだ視界。二つの影が混じり合って、境界も曖昧に。その見た目からはそれが何の誰であるのか判別できない。判らない。だが、そう。これは。

「私はこの子を守らなきゃいけないの! なのにどうして、どうして奪おうとするの! 渡さない、この子は誰にも渡さない!」

 マドリエ……そう、この匂いは、マドリエ。リュカという存在に執着し、拘泥し、人生を捧げてきた女。オレを守ることだけを拠り所としてきた女――いや、それはオレだろうか。いまのオレと、連続していたものだろうか。頭がはっきりしない。オレはオレなのか、ボクなのか、あるいはワタシであるのか。それすら未だ、判然としない。

「……マドリエさまと、おっしゃいましたね」

 組み敷かれたもうひとつの小さな影が、ゆっくりと身を動かした。

「あなたはなぜ、その子を守ろうとするのですか?」

 小さかった影が屹立し、その実像を顕とする。

「自分の子を守ろうとして何がおかしいと!」

「彼は本当に、あなたの子ですか?」

 影が巨大化していく。

「あなたのその気持ちは本当に、あなたから生じたものですか?」

 攻めていたはずのマドリエの影がむしろ、呑み込まれていく。

「あなたからは、異なる幾つもの匂いが漂っています」

 暴力的なほどに純粋で圧倒的な匂いに、マドリエの匂いが呑み込まれていく。

「マドリエさま――あなたは本当に、マドリエさまですか?」

 女達が二人、他所を向いた。

 破裂音。馬のいななき。男の悲鳴。野蛮な匂い、血の匂い。幾つもの、幾つもの。

「なに――」

 それは外から訪れた。朽ちた扉を蹴り破り、野蛮な匂いが家の中へと入ってきた。オレと彼女たちのいるこの部屋へと入ってきた。

「や――」

 破裂音。先程のものと、同じ。同時、マドリエが吹き飛んだ。生暖かな鮮血を、砕けた肩から巻き散らかして。

「バカてめぇ、なにしてんだ!」

「うるせえ! 騒がれると面倒だろうが!」

 男たちが罵り合う。その手に携えた無機質な装備――ライフル銃の先端から、熱の靄を上げながら。マドリエがうめき声を上げて、這いずりながら逃げようとする。男の一人が、蹴り上げた。うずくまったマドリエから、更に多量の血が流れ出した。

「おいどうすんだよ、死んだらまずいんじゃねえのか」

「いや、問題ねえ。捕まえんのはこっちの女だ」

 男が女を捕まえる。女が抵抗する。頬を張られた。女の抵抗が止む。人形のように――“モノ”のように、生命らしさが喪われる。何も言わずに引きずられるまま、連れ去られようとする。

 オレはただその光景を、椅子に座って見続けていた。元より身体はまともに動かず、不完全な香水では意識の保持もままならない。間もなくオレ――いやボクか、ワタシか――の時間は停止するだろう。そうすればそこで何が起ころうと、知覚することすらオレにはできない。助けるも何も、ない。

 だがオレは、何も心配などしていなかった。既に嗅ぎ取っていたから。この家を包囲する、武装した集団の匂いを。眼の前の野蛮な男たちなどとは比較にならない暴力性の塊である、その匂いを。それに――それにだって、そうだろう。彼女は“あいつ”と関わった。それは即ち、彼女が必要だから。ここで彼女を喪うことなど、“あいつ”は絶対に許さない。絶対に。

 なあファビアン、そうだろう?

 そうしてオレは、眠りに落ちる。予感を抱いて。

 次に目覚める時こそ正しくオレは、“オレ”に生まれているであろうと――。

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