グッドバイ・セレナーデ
都会の片隅にある小さなバー。
薄暗い店内、どこか遠くから聞こえてくるようなピアノの調べ。
白いシャツの上に黒いベストと黒い蝶ネクタイを締めた、白髪をオールバックにして白まゆ毛が異様に長いバーテンダーが、全身カタカタ震えながらシェイカーを雑巾で拭いている。
その前にあるカウンター席では、男と女がグラスを傾けていた。
スーツ姿がその人生に染み付いたような40半ばの男は、スコッチをコーラで割った代物を茶碗で飲みながら、隣の女の方を見ないよう独り言のように口を開いた。
「君が、そうしたいのなら……私から何も言う事はない」
何かに疲れたような、けだるい表情を見せる女は、やはり男の方を見る事無くドライマティーニ梅酒割りをストローで喉に流し込んだ。
「……引き止めないのね」
「私にはその資格はない。そうだろう?」
はじめて女は男の横顔を見た。バーテンダーは棒立ちの状態から突然滑って転んだ。
「じゃあ、私達はここで終わり……ね」
「ああ」
二人の視線がはじめて交錯する。男の目が優しく微笑んだようにみえた。
「君の門出に送りたい歌があるんだ……マスター、マイクを」
男が伸ばした手に、ようやく起き上がったバーテンダーがすりこぎを渡した。
「マスター、例の曲を」
バーテンダーがよぼよぼとプレイヤーへ歩いて行きレコードを替えた。一瞬の静寂の後、店内に佐渡おけさボサノババージョンが鳴り響く。
「シャボン玉飛んだ! 屋根まで飛んだ! 何故だ!」
男はとろんとした目で立ち上がると、流れる音楽に逆らうように持っているすりこぎに向かって声を張り上げた。
「ふふ」
男の様子を見ていた女は、表情に笑いを閃かせると、バーテンダーに向かって口を開いた。
「私も歌いたくなったわ……マイクをちょうらい」
女の言葉にバーテンダーはラベルに「鬼ころし」と書かれた一升瓶を手渡した。
「んぐっ、んぐっ、んぐっ」
女は手渡された一升瓶に口をつけると喉を鳴らして豪快に飲んだ。
「ぷはあー」
女は据わった目で息を吐き出すと口の周りの酒を手で拭う。
「うるあー、一番サード義美いきまーす」
女は椅子から立ち上がり一升瓶をバットに見立てて逆さに持った。中身がどぼどぼと床に流れ落ちていく。
「かきーん!」
「しゃぼん玉飛んぶぐおっ!」
女のフルスイングが男の臀部にクリーンヒット。男の意識は場外に飛んでいった。
「きゃはははは。マスター、マイクおかわりー」
そこまで言うと、女はゆっくりと崩れ落ちるように床に横たわる。その側では昏倒した男が大の字になっている。女は何かが途中で壊れているようないびきをかきはじめた。
その様子を静かに眺めていたバーテンダーは、大リーグ養成ギブスを何個もつけたような動作で引出しからマイクを取り出し、細かく振動しながら口元へマイクを近づける。バーテンダーがうちあげられた鯉のように口を開いた瞬間、ヒューズが切れて店内は闇に包まれた。
都会の片隅にある小さなバー。
闇に包まれた店内からは、南無阿弥陀仏という囁きが止む事無く聞こえつづけたという。
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