BAR「憩い」
夜の街は眠らないまま暗い空に明かりを灯している。
ぶらぶらと呼び込みを無視して歩いていた和也は、細い路地の先に小さなバーがあるのを見つけた。
たまには新規開拓でもしてみるかな、ふとそんな事を考えた和也は足をその細い路地に向ける。
近くまで来ると、和也の目にも小さなバーの姿がはっきりと見えた。薄暗い中、白っぽい壁に黒く重そうなドア、その上にちかちかと点滅している「BAR憩い」の文字。
知る人ぞ知る秘密の場所のような雰囲気に、和也は期待を込めながらドアを押した。
びくともしない。
今度は引いてみた。
びくともしない。
休みかと思ったが、中からはジャズっぽい音楽が流れている。和也はドアの周囲を注意して観察した。
下の方をよく見ると、レールのような物が見える。試しにドアを横にずらすと、からからと音を立てながらスムーズに開いた。
「引き戸……?」
思わず呟いてしまった和也の目に、店内の様子が入ってきた。
間接照明の薄暗い空間に、黒いカウンターが長く伸び、奥の方にはゆったりと座れそうなソファとテーブルがあった。
カウンターの向こうには、白いシャツの上に黒いベストと黒い蝶ネクタイを締めた、白髪の総髪で白いまゆ毛が目を覆うほどに伸びているバーテンダーが、銀色のシェイカーをもったまま全身で細かく振動していた。
とりあえず和也は、カウンター席を眺める。奥の方に女性が一人グラスを傾けていた。
黒い髪をボブカットにした、憂いのある瞳が退廃的な雰囲気をかもし出す女性。
和也はその女性の隣の席に歩いて近づく。
「隣、いいかな」
「ええ」
女性はけだるげに和也を見上げると、ため息のような返事をした。
和也は余裕を見せようとゆっくりと席に座り、全身カタカタ振動しているバーテンダーに向かって片手を上げる。
「マスター、スクリュードライバーを」
さらに和也は指をスナップさせた。
「こちらの方にも同じ物を」
女性はちらりと和也の方を見たあと、また視線を前方の虚空に戻した。
「ふふ、レディーキラーなんて……どういうつもりなのかしら?」
女性は和也の方を見ずに、艶のある声でささやくように言った。
「俺の気持ですよ」
和也の言葉に、一瞬だけ二人の視線が交差する。
その二人の前に、バーテンダーが熱い番茶が入った湯のみを置く。あと梅干に砂糖がかかったのがでてきた。
「えーと、それじゃ、乾杯」
「ふふ、乾杯」
二つの湯のみが、ガツッと鈍い音を立てた。
どこらへんがスクリュードライバーなのか必死に頭を回転させながら、和也はふーふー吹きながら熱い番茶をすする。
数分の思考の結果、和也は注文がうまく伝わらなかったという可能性に辿り着いた。
今度ははっきりと、分かりやすい注文を心がけよう。和也は片手を上げて指をスナップ。
「マスター! マティーニを!」
全身細かく振動しているバーテンダーが、その仙人のような顔をこちらに向ける。
和也が見守る中、バーテンダーは油の切れたモビルスーツのような動きで、シェイカーの中にドライジンとベルモットとビールを注いだ。
「……え? あの、マス」
「静かに、ね?」
女性が少々混乱している和也の口に人差し指を当てた。
「あ、あの、でも、マティーニはシェイカー使わな」
「ここで生き残るには今までの固定概念を捨てないとダメよ」
「え? 死ぬの?」
二人の会話を他所に、バーテンダーはシェイカーを掴むと、時々どこかに引っかかる餅つきのような動きでシェイクし始める。
なぜか真剣な表情の女性と、呆然としたまま眺める和也が見守る中、バーテンダーの手からシェイカーがスポーンと飛んでいってどこかに落ちた。
「……あの」
「黙って見てて。これからが彼の真骨頂よ」
女性の言葉に和也が視線を元に戻すと、バーテンダーがシェイカーを飛ばす前と寸分変わらぬ動きをしていた。
「……え?」
「これが奥義、エア・シェイクよ……」
「エア・シェイク……」
よく意味が分からないまま、呟いてしまう和也。
カウンターの向こうでは、バーテンダーの妙に機械的な動きが続いていた。そして長く白いまゆ毛の下の目がきらりと輝くと、バーテンダーはぴたりと動きを止めた。
「エア・マティーニの完成よ」
「……それ完成してないんじゃ」
しばらく電池が切れたかのように止まっていたバーテンダーは、くるりと後ろを振り返ると何歩か歩いてしゃがみこんだ。立ち上がったバーテンダーの手には、さっき飛ばしたシェイカーが握られている。
「信じられない」
女性が目を見開いてバーテンダーを見ていた。
「あのー、何が?」
和也の遠慮がちな問いに、女性は頬を紅潮させながら口を開いた。
「シェイカー飛ばした事に気付くなんて……」
「……え?」
状況を理解できない和也にかまう事無く、バーテンダーはシェイカーをあけると中身を紙コップに注ぐ。細かい震えが邪魔してほとんどこぼれたのでビールが代りに紙コップを満たした。
バーテンダーの手が紙コップと白菜の浅漬けが載った皿を和也の方へ差し出す。
「えーと」
和也がおつまみセットを前にいろいろ考えていると、その横で女性が席から立ち上がった。
「ふふふ、今日は滅多に見られないものが見られて楽しかったわ」
見上げる先で、頬をほんのり染めた女性は和也に向かって片目をつぶった。
「それじゃまたね」
そのまま女性はまっすぐ斜めに進み、ソファにぶつかって向こう側に頭から落ちた。
あわてて和也が助けると、鼻血を吹いた女性が笑顔で礼を言った。
「ふふふ、ありがとう」
「あの、酔ってるんですか?」
和也の言葉に女性は遠くを見るような眼をする。
「ふふ、お酒なんて……女が酔うのは雰囲気だけよ。ちゃんとあなたは二人いるし」
「いえ、一人ですが」
「やっぱり面白いわね、あなた」
女性は笑いながら見事な千鳥足で店を後にした。
ため息をついて席に戻った和也は、皿の上の白菜の浅漬けをつまんでぽりぽりと食べる。
浅漬けを食べるうちに、和也は無性にお茶を飲みたくなった。
「あの、すみません。お茶下さい」
バーテンダーは和也の言葉を聞くと、ビールの空き缶を磨いていた手を止めて冷蔵庫に向かった。
和也はのんびりとバーの雰囲気に身をゆだねる。
「意味分からん」
呟いた和也の前にカクテルグラスが音も無く置かれた。
「……?」
和也はグラスとバーテンダーを交互に見た後、グラスに口をつけた。
「……マティーニだ」
しばらくグラスの中のマティーニを眺めた後、和也はまた呟く。
「意味分からん」
ため息をついた和也が、マティーニの中のオリーブを齧ったら小梅だった。
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