嘔吐恐怖症 -emetophobia-
私は酒を飲まない。
食べ過ぎるようなこともしない。
健康に気をつかっているのか、と周りから言われるが、そればかりでもない。
この世には嘔吐恐怖症というものがある。
人前で吐き戻してしまう事、またその状況にあることに恐怖を感じる症状の事だ。
私のこれは、それとは少し違う気がする。
根拠はない。
いや、言っても信じてもらえるかどうか。
とにかく自分と同じような人には今まで会った事はないのだ。
私は、以前は飲み歩くのが好きでよく友人や同僚と飲み歩いていた。
休みの前日などは、二日酔いなど気にせず何件もはしごすることもしばしばだった。
酒には強い私だが、10か月ほど前一度だけ、しこたま飲んだ帰りに記憶を失ったことがある。
気が付いたら家の布団で寝ていたし、ケガもなく持ち物もすべて無事だったので気にしてはいなかった。
その日からであった。
私に異変が起こったのは。
記憶をなくすほど飲んだ私は、例にもれず次の日はかなり気分が悪かった。
吐き気をもよおし便所でもどすと、吐いたものの中に血が混じっていた。
慌てて病院へ向かったが体に不調は見られず、飲み過ぎで胃の粘膜がやられたのが原因ではないかとのことであった。
実際、胃は荒れていたので薬を処方してもらったのだが、私はどうも腑に落ちなかった。
何かが、いつもと違うような気がしたのだ。
その後、たびたび吐き気を覚え、そのたびに言いようのない感覚に襲われた。
カエルが異物を吐き出すように、私の内臓が逆転し、全身が裏返しになるような感覚に襲われる。胃から突き上げるような痙攣と、体中の筋肉がひきつるような痛み。それは、言葉では言い表せないほどの苦痛だった。
それから私は吐き戻すことが怖くなってしまった。
飲まない、食べない、緊張しない。
吐きそうになる原因となる行為をひたすらに避け続けた。
そんな状態でなんとか生活を送っていたが、ある時からある光景がフラッシュバックするようになった。
眩い光に包まれた、どこまでも続く白い空間。
私はまるで水面に浮かぶ木の葉のように、無重力状態で漂っている。
頭上には大きな影が覗き、期待、不安、警戒、羨望が混じったようなまなざしで私を見ている。
そんな光景が。
これは、私が記憶を失っていた時間に見た光景だった。
その時の事を徐々に、断片的に思い出しかけているのだ。
あの時他に何があったかは覚えていない。
だが、思い出したくない事だけは覚えている。
吐き気を覚えるたびに、あの光景がフラッシュバックする。
どれだけ気を付けて生活を送っていても、その頻度は増えていった。
記憶を失った日から4か月程経ったころ、私は自分の体重が増えていることに気が付いた。
食べる量が減っているのにどうしてだろうかと思っていた。
これが何を意味するのか、私はある日唐突に知ることとなる。
またしばらく経ったある日、私はどうしても我慢できなくなって自宅のトイレで吐き戻した。
その時、私は見たのだ。
自身の口の中からはみ出した赤黒い触手を。
その直後気を失ってしまい、気が付いたらトイレで倒れていた。
口からは何もでていなかったが、胃の中には何かがいる感覚が強く残った。
それからは、得体の知れない恐怖に襲われて過ごした。
この怪物が世に出てきたらどうなってしまうのだろうか。
これを食い止めるにはどうすればいいのだろうか。
一度、怪物ごと自分を葬ることも考えたが、私が事切れた瞬間に出てくる可能性も考え思いとどまった。
私は怪物を抑え込む最後の
突如降りかかった使命に怯えながら毎日を過ごしていた。
きっとあの夜の事をすべて思い出したとき、怪物の子が私を食い破って産まれ出てくるのだ、と。
しかし、もう時間の問題なのかもしれない。
日々、吐き出したい衝動に耐えられなくなっている。
昨日は大量の血を吐いた。
まるで破水のようだった。
今は全身激しい痛みに襲われている。
私の目の前に見えるのは、あの明るい世界と2つの巨大な影だ。
私の中にいる怪物の両親が、わが子が産まれてくるのを今か今かと待っているのだ。
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