恐怖症 -phobia-
ヒノ馨
高所恐怖症 -acrophobia-
恐怖を感じるものは、人によって様々である。
ある人にはなんてこと無いものも、他人にとってはとんでもない恐怖の対象であるのだ。
恐怖症と言われ、一番よく名前が上がるものは何であろう。
高所恐怖症
誰もが真っ先に思い浮かべるのではないだろうか。
かくいう私も、高所恐怖症である。
人は何故、高い場所に行くと恐怖を覚えるのだろうか。
落ちる恐怖、つまり死への恐怖。
高ければ高いほど落ちると死へのリスクが高まる。
死への危機を回避するための、いわば本能としての恐怖であると私は考える。
一般的にはそうなのであろう、と。
私は元々、高い場所が好きであった。
もちろん、落ちたら死ぬという恐怖はあるが、むしろそれをスリルとして楽しんでいたように思う。
ジェットコースターやフリーフォールなどのあらゆる絶叫マシンから、バンジージャンプ、スカイダイビングまで、あらゆる高所アクティビティを趣味としていた。
週末のたびに遊園地やバンジーの名所などに出掛け、高所から落ちるスリルで日々のストレスを発散していた。
それがある時から全くダメになったのだ。
高い所が。
私はある日、穴場の絶景スポットを求めて登山をしていた。
断崖絶壁の岩場。
かなり高い場所から景色が臨める場所と聞き、私は登山が趣味の友人と一緒に意気揚々と向かっていた。
通常の登山ルートからは少し外れる場所だが、上級クライマーや岩場マニアの間では知られているらしく、道中すれ違う登山客もいるほどだった。
3時間ほどかけて山道を登り、ようやく目的の場所に到着した。
天気は快晴。
景色は噂に違わぬ絶景で、苦労して登った甲斐もあったというものだった。
我々は景色を堪能し、少し休憩してから下山する運びとなった。
そろそろ出発しようかとなった時、私の好奇心が首をもたげた。
崖の縁に立ってみたくなったのだ。
友人は、
「落ちないように見張っといてやるよ」
と言いつつ、一歩引いたところで私が満足するのを待っていた。
私は崖のぎりぎりに立ち、下を覗き込んだ。
他の場所でもやるように、地面との距離を確認し、スリルを味わおうとした。
思ったよりも高い場所だった。
崖の下が谷になっていて、より高さを感じる。
谷の底は暗くて見えない。
と、そこに私は何か動くものを見た。
真っ暗な谷の底に、何か…。
もっとよく見ようと目を凝らした瞬間、私は腕をつかまれた。
振り返ると友人が、血相を変えて私の腕を引いていた。
「おい!お前どうした!?」
どうやら私は、崖にむかってもう一歩踏み出しかけていたらしい。
流石に私も肝が冷えた。
友人には、バンジーのやり過ぎじゃないのか、と怒られながらも帰路についた。
あの日以来、私は高い所へ行き下を覗くことができなくなった。
今まで楽しみであったバンジージャンプも、フリーフォールも、恐怖で一切できなくなってしまった。
そればかりではない。
自宅のベランダから下を覗くこともできなくなり、5階にあった私の自宅は、1階の物件に引っ越しせざるを得なくなった。
あれ以来、下を覗くと、無数の白い手が私に向かって手招きしているのだ。
それを見るのがが恐ろしくて、私は高い場所へ行くことができなくなった。
いつ、どんな場所であっても、どれほどの高さであっても、下を覗くと必ず現れる。
私にしか見えない青白い手。
あの崖に原因があるのだろうか、と調べてみても怪談の類は何も出てこない。
情報をくれた知人に聞いてみても、転落事故くらいあるのでは、といった話しか聞くことはできなかった。
何の呪いだろうか。
お祓いに行くべきだろうか。
私はあの手を見るたびに、死の恐怖とはまた違った恐怖を覚える。
死よりも恐ろしい、もっと別の場所に連れて行かれるのではないかと。
そんな気がしてならないのだ。
きっとあの手たちは、獲物が落ちてくるのを待っているのだと私は思っている。
私もずっと呼ばれているから。
日常生活のふとした瞬間、下を覗いてしまった時に、誘いの歌が聞こえてくるのだ。
おいで おいで
こっちにおいで
あなたもいっしょに いざないましょう
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