第2章32話 ただ、私が悪いだけの

 初めてノーラントの命令に背いた。

 

「いや」


 そう答えると、ノーラントは一瞬顔をしかめてすぐに真顔に戻り、部屋から立ち去った。


 そのあと、ノーラントの手下から酷い暴行を受けた。

 いつもの実験のほうがよほど苦痛だったのに、そのときはどうしてか、とても辛かった。

 それでもニアは首を縦に振らなかった。


「もう人を殺したくない」


 痛みに耐えながら、ニアはなんどもそう呟いた。



 翌日ノーラントは何でもないような顔でニアのもとを訪れた。


「もう人は殺したくないのかい?」


「うん」


「どうして?」


「……残酷なことだから」


 ニアがそう答えると、ノーラントは目を細めて笑う。


「そうか、ならもう人は殺さなくてもいい。今日は少し出かけよう」


「どこへ?」


「街にだよ」


 ニアの視界が急に鮮やかに色づいて、暗い心が晴れ渡ったような心持ちがした。


 街。


 物語に何度も出てきたが、ニアが行くことは決してないものだと思っていた。そういうものだと信じ込んだ心は、願望が芽吹くことさえ許さなかった。


 ニアは、これは夢を見ているんじゃないかと何度も疑った。しかし何度目を擦っても頬をつねっても、幻となって消えることはない。


 ニアの足取りはとても軽かった。


 馬車に乗り街へと出かけると、ノーラントはことあるごとにニアに微笑みかけた。

 ニアにとってノーラントは、人を殺させる悪い人という人物像だったが、そのときはそれが大きく揺らいでいた。

 もしかしたら訳があって、本当は優しい人なのかもしれないと、ニアは注意深くノーラントを見ていた。


 見たことがないような綺麗な建物と大通り。

 ニアのなかで想像でしか存在しなかった街は、現実のほうが遙かに美しく壮大だった。

 沢山の人が道を行き交い、笑顔で言葉を交わしている。


 これほど素晴らしいものはないだろう。 

 ニアは本心からそう思って、その瞬間、自分が生まれてきてよかったと心から思っていた。


 ノーラントは、何をすればいいかのかわかっていないニアを見かねて、レストランに入った。

 やはり、ニアには味がよくわからなかったが、芸術品のように美しいその料理を口に運ぶことが、かつてないほど幸せだった。

 その後も、ニアの望むように服を着させられて、お菓子を与えられ、本を買ってもらった。


 夕焼けに染まった空を初めて見たニアは、幸福感に包まれて、家路についた。


「また、私に時間があるときに来よう」


 ノーラントが微笑みかけると、ニアは食らいつくように頷いた。


 醜く血なまぐさい日々が終わり、勉強をして、イヴと遊んで、たまに街に出かける。既にニアはノーラントに心を開き、「先生」と呼び慕うようになっていた。


 ニアにとってノーランドはいい話し相手だった。

 忙しそうなノーラントがニアの為に裂ける時間は多くない。しかし、その短い時間で親身にニアの話を聞いた。

 主には読んだ本の感想を一方的に話すばかりであったが、ニアにとっては充実した時間だった。



 そんな日々がひと月ほど続いていたある日、ノーラントが部屋に顔を出した。また街にでかけるのか、そう期待したニアにノーラントはいつもと変わらない笑顔で口を開いた。


「ニア、今日はまた人を殺しなさい」


 頭が真っ白になった。なぜ今になってそんなことを言うのか、ニアは不思議を通り越して困惑していた。もうしなくてもいいと言っていたではないか。


「どうしても嫌なのかい?」


「絶対にイヤ」


「そうか、なら仕方ない」


 そう言うノーラントの口元には、なぜか薄ら笑いが張り付いていた。



 ニアが運ばれたのは実験室の冷たい寝台だった。


 久々の実験と称して、言うことを聞かないニアに罰を与えるのだとニアはすぐに気づいた。

 暗い顔で硬い手術台に乗る。前と同じだ。少しの時間耐えているだけの時間。もう幾度とされた拷問も、いまさら自分に意味はない。


 そして、拷問が始まった。



「いや、いやああああああああぁぁぁぁぁぁぁっっああああぁぁっっ!!」



 自分でも聞いたことがない自分の声を聞いた。



「いや、お願い。もうやめて、いや、いや、ああああああぁぁぁぁぁぁっっぁああっっ!!」



 くり抜いた自分の眼球をまじまじと見せつけられる。



「いや、ごめんなさい、ごめんなさい。言うことを聞くからっ、もう許してっ!」


 

 引きずりだした内臓を握りつぶし、揉み込むようにしたあと、素手で強引に引き千切る。


 酷く耳障りな絶叫が、夜通し施設に響き渡っていた。




「明日、人を殺しなさい」


「………………………はい」


 ニアにとって苦痛は、ただのそういうもの・・・・・・でいることを許してはくれなかった。


 嬉しいや楽しいを知ったニアは、苦痛の本当の苦しさと痛さを知った。


 色々な世界を見れば見るほど、知れば知るほど、自分に向けられる狂気がおぞましいものであることを教えられる。


 奪われるために与えられたのだと、そのときニアはやっと理解した。


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