第2章30話 ただ、辛いだけで

 薄暗くどこまでも続く回廊で、テルを待っていたのは真っ白な小動物だった。

 キツネっぽさとリスっぽさのあるその小動物は、まるで「ついてこい」と言わんばかりの素振りをみせた。


 分かれ道があれば、こちらの様子を窺うようにしてテルを先導していく。テルも大人しく後をついていった。


 しばらく歩いていると、この地下が迷路のように複雑に入り組んでいるのがわかってきた。

 ほんとうにテルを案内してくれているのならとてもありがたい話だが、だんだんと迷路で惑わせて最後には襲い掛かってくるタイプの魔獣なのではという不安が湧きあがる。手にナイフを忍ばせて警戒をしていたところ、先ほどの広間よりも遙かに広い空間に出た。


 どういう構造なのだろうか、地下だというのに日の光を取り込むその空間は、正面の壁に色のついたガラスが張り巡らされている。


 どうして地下にこんなに大きな空間があるのか不思議に思い、周りを見回してみると、すぐにそこが宗教的な場所であるような気がした。

 中央に崩れた大理石のような白い大きな像の残骸があり、脇の壁には朽ちた木が放棄されている。見たところ椅子の残骸のようだ。


 村や街の教会とは随分と装いが違うなと感じつつ、走っていく小動物に目をやると一直線に中央の像に向かっている。


 そしてテルは気づいた。


 崩壊した白い像の足元には、もっと眩い純白を持つ少女が地面に直接座っていた。




ーー・--・--




 もう何も見たくないし、なにも聞きたくない。誰に訴えても仕方のないそんな感情を内側に仕舞い込むように膝を抱えていると、足元で心地の良い感触がして僅かに視線を上げた。


 そこにあったのは見慣れた友人の顔だ。


「ああ、イヴ。ここにいたんだね」


 名を呼ばれた小動物は、優し気な鳴き声をあげ、もう一度ニアの足に顔をこすりつけた。

 白く柔らかい体毛が肌を撫でて少しくすぐったい。


 ニアにとって最も付き合いの長いイヴは、ニアに撫でられると「キュっ、キュー」と鳴き声をあげた。

 言葉はなくとも、不思議とニアには何を訴えているのかがなんとなくわかる。



 彼女はいま、客人を連れてきたと言ったのだ。



 思い当たる顔があって、視線を上げると、テルの真剣な顔がこちらに向けられている。


 もしかしたら、来てしまうんじゃないか。そんな予感があった。しかし、馬鹿なことを期待しているような自分が嫌で、そのたびにかぶりを振ってその考えを追い出していた。


 なによりもテルが来てしまえば、ニアの目的の邪魔になる。

 しかし、実際にテルはニアの前に現れた。


「どうして……」


 泣きそうな声で抑えきれないように言ったニアは、すぐにその表情を振り払い、冷たく柔らかさのない無表情をテルに向けた。


「どうして、ここにきたの?」


「君を迎えに来た」


 訊くまでのない質問に、答えるまでもない答え。

 

 みっともないほどの、意地の張り合いを予感したニアは、どうしてかリベリオと出会うまでのことが脳裏に流れていた。



 思い出というには、あまりに穢れている。ただただ悲しく苦しいだけの記憶。


 リベリオとの生活は悲痛の記憶が地続きにあるとは思えないほど平穏なものだったと、切り離して存在しないものにしようとした過去。


 そして、どれだけ遠ざけようと、ニアのことを自由にしてくれない本当の出来事を。




※ ※ ※




 生まれたときのことは鮮明に覚えている。

 正確には「生まれたときのこと」ではなく、「初めて意識を手にしたときのこと」の記憶だ。


 今よりも四年前のこと。

 冷たくて硬い寝台に乗せられた裸の体。

 そのときは、常識どころか、言葉さえも知らなかった。

 

 その後、服を着させられ、自分が過ごすことになる部屋に連れられてからは、味のしない食事をしては、眠って、なにもせずにただ呼吸をするだけの日々が続いた。


 それから、短くない時間が流れた。

 ニアは外に出ることもなく、時間という概念も一日という単位も知らなかったので、どれくらい経過していたのか詳細はわからない。


 生まれてから、一番最初に見た顔の男が部屋の扉を開け、ニアを外に連れ出した。そのときなにかを喋っていたが、やはりわからない。


 ニアは初めて目を覚ました寝台に連れられると、身体の強度を試す実験を何日も受け続けた。

 端的に言えば、拷問だ。


 そのとき、自分の気持ちという概念をまだ知らなかったので、苦痛に晒される時間も、そういうもの・・・・・・であると納得していた。

 生きたまま腹を裂かれるという言葉が、限りない苦痛の比喩であることを知るのはこの時よりかなりあとの話だ。


 不満も違和感も持つ余地さえない時間が数か月間ほど続いたとき、シルミアと名乗る女に文字の読み書きと、言葉の話し方を習うようになった。


 その頃まで、ニアに話しかける人間は誰一人としていなかった。

 ニアを拷問するノーラントも、部屋の出入りを監視する別の誰かも、一言も言葉を発しなかった。しかし、ニアは意外とすんなり言語というものを理解した。

 

 シルミアは親身にニアの面倒を見たわけではなく、最低限の文字の読み方を教えるとあとは辞書と簡単な読み物だけを渡して、自主的に勉強させた。

 勉強をすればお菓子を与えられ、そうでなければ鞭で打たれる。そのルールだけがあったため、ニアは始め一度鞭で打たれて以来、読みの勉強をするようになった。


 別に鞭打ちが怖いわけではない。毎日行っている強度実験ごうもんのほうが、遙かに苦痛であるため、なんとも思わなかった。かといってお菓子が欲しかったわけでもなかった。ニアは生まれつき味覚が鈍いため、ご褒美としてていを成してはいなかったのだ。

 

 ただ、それ以外にやることがなかったニアは、淡々と勉強をこなした。


 読みは出来ても話すのとは別なので、それぞれ習得するまで二週間ほどかかった。文字を書くことは必要とされたことがないので、いまでも苦手だ。


 本を読んでいると、喜びや楽しいという言葉をよく目にした。


 指を差し、教師役のシルミアの目をじっと見つめると「意味が知りたいの?」と訊き返される。頷くとため息をつかれた。


「あなたとは関係のないものよ」


 それ以上の説明はなく、また、そういうものかと納得したニアはそれ以上、何かを尋ねることもなかった。

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