『太陽を見上げた狼』。売れるものを書け。最後通告的に課せられた命題に従いあれを書き上げてから、取り巻く環境のすべてが一変した。原稿を受け取ることすら億劫がっていた高良は掌を返して俺の機嫌を取り始め、これまで見向きもしなかった者たちがこぞって俺を褒めそやすようになった。にやけた面で俺を囲み、そしてやつらは口々にこう言うのだ。「前よりずっとよくなったね」。

 認めるわけにはいかなかった。こんな金稼ぎのための紛い物も、こんな紛い物を持ち上げるこいつらのことも、認めるわけにはいかなかった。敵視して、心の中で強く、強く、強く強く強く蔑み嘲った。物を知らぬ人以下の畜群めと、他でもない、俺自身にそう言い聞かせた。

 頭が砕けた。人々の。かつて目にした最も目にしたくない光景が、世の中に溢れた。人を人として認識できなくなった。肉眼での認識不全は元より、動画でも、写真でも、果てはある程度の精巧さを備えた人物画でさえもその頭部は歪に砕け、無間に開いた黒穴に意識を吸い込まれた。人を、見れなくなった。

 そして――先生が、現れた。

「……判ってるんだよ、ぼく。言うほどみんな、愚かなんかじゃないってことくらい」

 判っている。この先生が、ぼくの生み出したただの幻覚だってことくらい。

「それでもぼくには、愚かで凶悪な敵が必要だった。実像以上の怪悪に仕立て上げてでも、みんなを憎む必要があった」

 それくらい判っていて、それでもぼくは意識せざるを得ない。だってそれは、確かにそこにいるのだから。そういう実感があるのだから。

「凶悪で太刀打ちできない怪悪たちに、書きたくもないものを書かされている。そういう体にしておかないと、だめだったんだ。そういう“ストーリー”が必要だったんだ。だって――」

 だからぼくは問いかけてしまう。どうして、どうして。そのように、問いかけてしまう。

「ぼくまでもがぼくの小説を選んでしまったら、誰が先生を証明するの?」

 先生はどうして、ぼくを責めてくれなかったの?

「そんなことしたら今度こそ、今度こそ本当に、太陽<あなた>に止めを差してしまう。ぼくを救ってくれた光を、“物知らぬ子どもの幼き憧れ<錯覚>”に貶めてしまう。それこそぼくには、耐えられない……」

 そんなになってどうして、それでもぼくに微笑むの?

「ねえ先生、疲れたんだ。ぼく、とても、疲れちゃったよ」

 もう、限界だった。幻覚も、人も、書くことも、生きることも。全部投げ捨てて、逃げ出したかった。

「もう、眠りたい……」

 眠って、ずっと眠って、このままずっと、一生、心地良い、夢の中で――。

 沈まぬ太陽を拝む、あの懐かしき夢を――――。


 ……眠りを妨げる異音。無機質に繰り返される、それ。携帯の、着信音。まどろみかけていた頭をがんがんと、強く打ち付けてくる。無性に、腹が立った。それは、俺の所有物から流れるメロディではなかった。部屋の片隅に、女物のバッグが放置されていた。照出のものだ。音は、あの中から響き渡っていた。

 立ち上がる。ふらつく。ふらつきながら、近寄る。近寄る毎に音は大きく、やかましくなる。血が、沸騰しそうになる。つかむ。逆さにして、振り回す。裡にしまわれていたものがばらばらと、乱雑に散らばる。ハンカチ、化粧品、絆創膏、飴の包み、他にも様々な小物がばらばらと、ばさばさと散らばる。そしてがつんと一際固い音を立てて、規則的な振動を繰り返す携帯がその姿を現す。

 殴打するこの音を止めなければならない。その一心で俺は、犯人に向かって手を伸ばした――が、その手が止まった。ばらまかれた照出の私物の、そのひとつに意識を奪われて。それは、一冊の文庫本。見覚えのある、その表紙。事ある毎に、照出が事ある毎に名を挙げていた、一編の小説。

『太陽を見上げた狼』。

 手が伸びていた。自然と。自然とそれを、つかんでいた。つかんで、そのすこしひしゃげてしまっている表紙を見つめた。開いた。ページをめくっていった。どのページにも、痕が残っていた。皺として、指紋として、読んだ者の感情がそこに残っていた。

 顔が、浮かんだ。

「……先生」

 微笑むそれが。

「あいつ、言ってたんだよ……」

『そうだね。お前の書くものは、ぼくのものとは異なる可能性に満ちているよ』

 怒ったそれが。

「ぼくの本を読んであいつ、『私に宛てた本だと思った』って、そう言ったんだ」

『悲しむことじゃないさ。それはお前の宝なんだから。ぼくでは届かない人へと届けられる、お前だけが持つ個性なんだから。だからね――』

 喜ぶそれが。

「そんなふうに考えたこと、ぼくにはなかった。ずっと目を逸してきたから。見ないように、してきたから。だから――」

『お前がお前の木を愛するように、お前はお前を愛してあげなくっちゃいけないよ』

 泣いたそれが。

「あんなふうに泣いてくれるなんて、考えたことも、なかったんだよ……」

『お前にしか癒してあげられない人々が、お前の小説を待っているんだから――』

 感動する、それが。

「ねえ先生……」

 読者<愛してくれる人>の、存在が。

「ぼくはぼくの小説を書いて、いいのかな」

『おまえはわるくないよ――――』

 顔を上げた。先生の姿は、もう、どこにもなかった。

 空は晴れ、外にはすでに、太陽が昇っていた。

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