7
「先生、しっかりして先生! 先生、先生!!」
呼吸が、苦しかった。苦しくて、酸素を求めて、空気を送り込む経路を作ろうとして首を掻きむしっていた。苦しみはまるで和らぎなどせず、少しでも酸素のある場所を求めて転がった。ごつごつと付近のものにぶつかったが、不思議と痛みはなかった。ただただ酸素が足りなかった。呼吸ができなかった。苦しかった。
身体を押さえられた。暴れた。酸素が欲しかった。酸素。奪うつもりかと思った。独り占めするのかと。俺に渡さないつもりかと。認められなかった。奪うつもりなら、それは敵だといえた。俺から酸素を奪う、敵だと言えた。暴れた。敵を引き剥がして、酸素を得るために暴れた。暴れるほど気道は狭く、呼吸は苦しくなっていった。敵が、ひときわ強く俺を、拘束した。
「先生……」
声が聞こえた。遠い場所から。懐かしい、ずいぶんと懐かしい声が。呼吸が聞こえた。鼓動を感じた。それに合わせて、肺を動かした。少しずつ、少しずつ、酸素が胸の奥へと入っていった。
月が出ていた。差し込んだ月明かり。『俺の木』が、その影を部屋の奥へと伸ばしていた。俺に抱きついている者の影が、部屋の奥へと伸びていた。すんすんと鼻を鳴らしてそいつは、俺の影に覆い被さっていた。誰だ。知っている。よく知っている。俺はこいつを知っていて、それで、何かを言うつもりだった。言いたかった。でも、なんだったっけ。俺はこいつに、何を言おうとしていたんだっけ。
……ああそうだ、そうだった。
「……おめでとう」
祝うんだった、そうだった。
「おめでとう、おめでとう、照出麗奈さん、ご結婚おめでとう、おめでとう」
結婚おめでとう、おめでとう。目出度いことだ。だから祝うのだ。そうだったはず。そうするつもりだったはず。……そうだったろうか?
「先生、私……」
「おめでとう、おめでとう」
「先生」
ぎゅうと身体を密着させて照出が、耳元で俺を呼んだ。脳が揺れた。ぼやけた視界に輪郭が、急速に伴っていく。
「私これから、言い訳いいます。みっともないけど、でも、誤解されたままなのはいやだから、言い訳、いいます」
こいつ、こんなにやわらかかったんだな。そんなことを思いながら俺は、照出の話を聞く。
「お父さん、借金、残してたんです。すっごい、たくさん。私じゃどうしようもないくらいの借金、たくさん」
照出と出会ってからこれまでのことを、思い出しながら。
「叔父が――おじさんが、肩代わりしてくれたんです。おじさん、工場の社長さんで、私のためならそれくらいなんてことないって、当たり前みたいにお金、返してくれて」
あだ名で呼んでくださいなどと、ずいぶん軽薄なやつだと苛立った。
「それからも、面倒見てくれて。私が大学を卒業できたのも、いまの生活を送れているのも、おじさんのおかげなんです。でも……」
キツネとの取引を邪魔された時は腹が立つ以上に呆気に取られて、「書かせてみせる」なんて宣言もずいぶんと傲慢で。
「おじさんの工場、潰れそうなんです。大きな会社に仕事取られちゃって、銀行からもお金、借りられなくなって。手を出しちゃいけないとこにも、手を出して。ふくよかだったお腹もどんどん、どんどんへこんでいっちゃって。ぜんぜん、笑わなく、なっちゃって……」
けれど、あんなふうにぶつかってきたやつは、初めてで。
「だけどね先生、助け舟が現れたんです。おじさんの大得意の取引先の社長さんが、縁談を持ってきて。なんでも社長さんの息子さんが、私のことを気に入ってくれたみたいで。私がその……婚約を受けるなら、なんとかするって」
学生の遊びみたいな行楽は、正直きつかった。自然との触れ合いだのレジャーだのは、肌に合わなかった。
「私、それでも悪くないって思いました。相手の人のことはよく判らないけど、でもそれでおじさんに受けた恩を返せるなら、それでもいいって。でも、でも……私その人に、言われたんです」
だが、一生懸命だった。
「仕事を辞めて、家庭に入ることが条件だって」
一生懸命なのは、感じていた。
「……私、辞めたくなんかありません。まだまだ先生と一緒に仕事、してたいです。私が先生の本を読んで救われたみたいに、苦しんで、自分だけじゃどうしようもなくなっちゃった人が立ち上がるそのお手伝いを、私だって、したい」
だから、期待していた。今だから素直に思えるが、俺はこいつに、期待していた。
「がんばって、理解してもらおうとしたんです。話し合って、長い時間、説得してみて。でも、認めてもらえなくて。時間はどんどん過ぎていって……」
こいつならもしかしたら、俺を理解してくれるのではないかと。
「これ以上引き伸ばしたら叔父は……ほんとに、もう……」
助けて、くれるんじゃないかと。
「何度も電話、掛けようとしたんです。でも、いざとなると怖くて、震えて……」
そしてこいつは、俺の期待に応えてくれた。
「掛けてしまったらもう、後戻りできなくなってしまう気がして……」
その姿を。
「先生は、私の心を救ってくれた。だけどおじさんは、私の生活を守ってくれた」
顔を。
「ふたりとも、大切なんです。ふたりとも大事で、ふたりとも恩人で、ふたりともに幸せになってほしくて……」
見せて、くれた。
「見捨てることなんて、私にはできなくて……だから――」
だから――。
「先生、書いてくれませんか」
必要なんだ。
「私がいなくなっても、書いてくれませんか」
俺にはお前が必要なんだ。
「私、最初は意地になってたんです。先生にも……ううん、先生にこそ、先生の書いたものを否定して欲しくなくて」
一人じゃ書けないんだ。
「だって先生がそれを――『太陽を見上げた狼』を否定しちゃったら、それに救われた私、なんだったのってなっちゃうじゃないですか。私の信じたもの、うそだったんじゃないかって、思っちゃうじゃないですか。だから私、意地になってたんです。私が愛したもの、先生もほんとは愛して書いたはずだって、その気持ちを証明してやろうって、そう、意気込んでたんです。だけど――」
自分と向き合いたくないんだ。
「だけどそんな気持ち、この半年できれいさっぱりなくなりました。だって私、見てましたから。短い間だけど私、見てましたから。先生の書いてる姿、見てましたから」
自分が本当は何を望んでいるかなんて、知りたくないんだ。
「書き続ける“必要”なんて、ほんとはなかったはずですよね。もういやだって投げ出しても、構わなかったはず。それなのにおクスリにまで頼って、あんなに苦しみながらも書き続けていたのはどうして? 筆を折ろうとしなかったのはどうして?」
だから頼む照出、だからどうか――。
「ねえ先生、私知ってます。ほんとは私なんかいなくても、何に頼ったりなんかしなくても、先生は書ける人だって。先生の心に支えてる楔<過去>さえ解ければ、先生は誰に頼まれなくったって自由に書いてしまえる人だって。だって先生は、あなたは――」
俺の気持ちを、俺の信仰を――。
「“あなた”は“あなたの小説”を書きたくて書きたくて仕方のない人なんだって、私、知っていますから」
「お前は」
どうかお前だけは、どうか、どうか――。
「お前は俺が、あんなくだらない紛い物を好き好んで書いてるって、そう、言いたいのか」
「先生」
否定、しないで――――。
「あなたはもう、自分の人生を生きていいんですよ」
首を、絞める。敵の首を。“編集”の首を。赦せるものではない。とても赦せるものではない。この下劣で俗悪な拝金主義の、金というクソにたかる蛆虫共が。堕落して、思考を放棄して、向上を忘れ惰性と流行に流されることしかできない大衆の権化が。お前らみたいなのがのさばるから本物が淘汰される。紛い物が蔓延る。判り易さと中毒性を主張する毒物ばかりが世に溢れていく。
何が古臭いだ。何が一般受けしないだ。何が金にならないだ。なぜ理解しない。どうして理解の努力をしない。そこに価値が、本物があるというのに。お前らさえまともなら、俺はこんなに苦しまなくてすんだ。お前らさえまともなら、俺は先生の小説を書き続けていられた。お前らさえまともなら、太陽は輝き続けていた。お前らさえ、お前らさえ、お前らさえ――。
そうさ、お前らが先生を否定するなら、俺がお前らを否定してやる。消えてしまえ、一匹残らず――。
『そうだね、お前の書くものは――』
「あ」
照出が、咳き込んでいる。首を押さえて、苦しそうに。手が、熱かった。感触が、まだ、てのひらの裡に残っていた。絞める、絞まっていく、感触が。俺は、いったい、何を――。
「レ――」
「それでも」
欠けた所のない顔で、照出が俺を見て、言った。
「……それでも私、あなたが好きです」
理性が、飛んだ。
「お前らなんかより……」
浮かび上がりかけていた想いが、沈んだ。
「キツネの方が、よっぽど――!」
月明かりに伸びた影が、動いた。影はその姿を移動させ、影の主とともに部屋から消えていった。静かな音が、けたたましく響いていた。衣の擦れる音が、床の踏まれる音が、世界中に響き渡っていた。それで、それから……玄関扉が開いて――閉まった。
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