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その役職上の責務を放棄し、己が助かるため教え子三〇余名を見殺しにして逃げ出した教師。「お前たちを一人にしないためだろ!」。針のむしろとなった環境に耐えきれず、都合のいいことを叫びながらその家族すら捨て去り逃げ出していった男。逃げて、逃げて、逃げて逃げて逃げ続けることしかできなかった哀れな存在。それが、ぼくの父親だった。
父が逃げ、町に残された母とぼくは父が被るはずであった憎悪を一身に受け、誰に頼ることもできない生活を送っていた。そうした生活の中で、母は事あるごとに謝っていた。頭を下げない日はなかった。町内会で、近所で、保護者の中で、いつも肩身狭く頭を下げていた。そして、ぼくにも。
母はぼくを抱きしめ、謝った。「ごめんね、ごめんね、あんな男の息子に産んでしまってごめんね。お母さんの子にしてしまってごめんね」。母は謝った。何度も何度も、ぼくが泥をぶつけられて帰ってきた時、給食費を盗んだ犯人に仕立て上げられた時、つぶてに頭を割られた時、何度も何度も、母はぼくに謝った。ごめんねごめんね。産んでごめんね、産んでしまってごめんね。
母はあれで、慰めているつもりだったのだろうか。そうかもしれない。あの人は学のない、悲劇に酔いしれることを恍惚の生き甲斐とするだけの女だったから。頭を働かせ、手に職をつけ、町から出ていくという手段をついぞ取らず、おそらくはそんなこと一度として考えなかったような人だから。母は逃げなかった。しかしその停滞は、けして強さから出ているものではない。子供ながらに感じ取っていた。母はただ、考えることを放棄しているだけだったのだ。
父も母も嫌いで、恐ろしかった。嫌いで恐ろしいこの両者が自分の起源であるという事実にもまた、恐怖心を抱いた。産まれたことを謝られるような存在。それがぼくなのだという苦痛が、何をしていても、どこにいてもつきまとった。
生まれなければよかったのだ。そう思うまでに、時間は掛からなかった。死んでしまえばいいのだ。そう思うまでに、時間は掛からなかった。いつも思っていた。どうすれば死ねるのだろう。頭を強く打てば死ねるのだろうか。学校の屋上から飛び降りれば死ねるのだろうか。包丁で首を挿せば死ねるのだろうか。トラックの前に飛び出せば死ねるのだろうか。いつも、いつも、死ぬことを考えていた。
ぼくはぼくが、嫌いだった。だからぼくはいつだって、ぼくを消し去ってしまいたがっていた。
『そうかい、ぼくの本を読んでくれたんだね』
先生と出会ったのは、そうして死ぬ方法ばかりを考えていた時のことだった。剥げた看板を掲げた古書店。その古書店の中に積まれた、簡素な造りの安っぽい本。それは明らかに手作りで、市販されているものではないと一目で判った。ぼくはそれを、何の気無しに持ち帰った。何かを期待していたわけじゃない。ただ無料だったから、持っていっていいと言われたから、そのまま持って帰っただけ……ただそれだけのことに過ぎなかった。だから本腰を入れて読むつもりもなかったし、ただぱらぱらとめくってそれでおしまい、死ぬことと死ぬことを考える間のちょっとした息継ぎ程度に消費する、それだけのつもりでぼくは、その安っぽい本をめくった。
泣いていた。訳も判らず、泣いていた。物語をきちんと読み解けた訳ではない。難解な語句、まだ習っていない漢字も多用された文章は決して読みやすいものではなく、おそらくは全体の五割も理解できていなかったのではないかと思う。それでもぼくは、魅了された。そこに内在する“なにか”を感じ取り、狭く閉じた世界が大きく広げられたのを感じた。そして、ただただそして――赦せる気が、したのだ。
ぼくは直感した。これはぼくの為に書かれた本だと。真剣にそう感じ、そう信じた。だから、会いたいと思った。これを書いた人に、その人に会わなければならないと思った。何が何でもそうしなければならないと思った。こんなに強い衝動、生まれて初めてのことだった。
当時すでにもうろくしていた古書店の店主から何とか詳細を聞き出してぼくは、一目散にその人に会いに行った。多大な期待と、一抹の不安を抱えながら。どんな人だろう。受け入れてくれるだろうか。他にも書いているのだろうか。嫌われたりしないか。きっと素敵な人に違いない。きっと素敵な人に違いない。そうに、違いない。
そしてぼくは出会った。その人に。先生に。ぼくの――太陽に。
『そうだね、お前の書くものは――』
先生は、高校生だった。高校生だったけれど、けれどぼくの知るどんな大人よりも大人で、頭が良くて、やさしくて、輝いていた。先生は様々なことを教えてくれた。学ぶこと、遊ぶこと、生きること、愛すること。どれもむつかしくて、けれどどれも大切で。その大切なことを、先生は自分自身で体現していて。
片時も離れたくなかった。いつでも側に居たかった。目の眩む眩き光を浴びて、その光の一部になりたかった。光に溶けてしまいたかった。先生のようになりたかった。先生のような人になりたいと、強く願った。先生の真似をした。海外のむつかしい映画を観た。小学校では教えてもらえない学問の本を読んだ。思索の論理と、自分自身で答えを探りだす哲学を覚えた。
先生に倣って自分の木を見つけた。病気に罹り、廃棄される寸前だったその木の赤児。そいつのささやきが、ぼくには聞こえた気がした。それが誇らしくもあった。先生に近づけた気がしたから。先生は言ってくれた。『お前はその子を、愛してあげなくっちゃいけないよ』。その時の感情を、文章に書き表した。書くという行為を知った。小説を、書き始めた。
すべては先生の模倣から始めたことだった。先生がぼくの標だった。先生はぼくの父だった。父であり、母ですらあった。先生はぼくのすべてだった。太陽だった。ぼくという穴蔵に潜む虫けらを羽化へと導いてくれる、天上にて燦然と輝く太陽そのものだった。
ああ。
太陽だった。
太陽だったのだ。
確かに先生は、太陽だったのだ。
太陽を沈めたのは、ぼくだ。
『おまえはわるくないよ』
呂律の回らない声で、先生は言う。
『おまえはわるくないよ』
砕けた頭を揺らして、先生は言う。
『おまえはわるくないよ』
穴の奥で欠けたそれをぬめらせ、先生は言う。
『おまえはわるくないよ』
いつものように微笑んで、先生は言う。
『おまえはわるくないよ』『おまえはわるくないよ』『おまえはわるくないよ』。
そして微笑んだままに先生は、首をくくった。
悪いのは、ぼくだ。なにもかも、ぼくのせいだ。
先生から言語を、聡明さを、未来を奪ったのは、ぼくだ。
輝かしい太陽を無間の洞へと沈めたのは、ぼくなんだ。
償わなければならなかった。ぼくの人生を賭けて、償い続けなければならなかった。
――いや、それとて言い訳かもしれない。ぼくはただ、耐えられなかったのだ。先生が、あの太陽が、世に出る前に失墜してしまったなどという事実に。ぼくだけの太陽で終わってしまったなどという事実に。ぼくはただ、耐えられなかったのだ。
世に知らしめなければならない。先生の素晴らしさを、先生の偉大さを、先生の輝きを世に知らしめなければならない。この世に生きる万民を、先生という無二なる光輝で照らさなければならない。これより続く人類史に、先生という絶対の痕跡を刻みつけなければならない。そうでなければ、耐えられない。しかし、先生は、喪われてしまった。
だから、ぼくが、やるのだ。先生の模倣者であるぼくが、先生が書くはずだったものを、歴史に刻むはずだったものを、この世界にそのままの姿で残すのだ。誰よりも先生を尊び、誰よりも先生を愛し、誰よりも先生を理解しているぼくが――俺が、やるのだ。やらなければならないのだ。
俺にしか、できないんだ。
書いて、書いて、書いて。
書いて、書いて、書いて、書いて。
書いて、書いて、書いて、書いて、書いて、書いて。
誰もが喜悦に耽るような先生の小説を、太陽を、俺が、書いて、書いて――――
古臭いんだよね、あんたの書くモン
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