気が滅入った。照出の代理で来たというこの風呂田という男といると、とかく気が滅入った。まず、覇気がない。常に茫漠と幽鬼のような態度で、返事をしても「はぁ」だの「へぇ」だのこちらの言葉を理解しているのかいないのか、全般的に気力が感じられない。新作の構想について話しても褒めるでもなく貶すでもなく、お任せしますの一点張り。

「先生は、どうして小説なんか書いてるんですか」

 そのくせ、余計なことだけは聞いてくる。

「私も昔は、書いてたんですよ。アマチュアですが。それなりに読まれて、それなりにちやほやされて。まあ、悪い気はしませんでした」

 聞いてもいないことは話してくる。

「プロになることも、考えなくはありませんでした。それなりに読まれてましたから、それなりに稼いでいけるんじゃないかと思いまして。でも、やめました。なんだか急に、アホらしくなって」

 抑揚も感情もない、不気味な声で。

「私の中には、何もなかったんです。ちやほやされるのも、金を稼ぐのも、別に小説家にならなくとも得られるものです。むしろ小説家なんかより他の職を目指したほうが、そんなものもっとずっと簡単に手に入れられて、おまけに安定も得られる。そう思った時、判ったんですよ。私は別に、書くことが好きな訳じゃないんだと。小説に対する思い入れなんて、何もなかったんです」

 情熱の失せた声で。

「それで結局人生設計諸々失敗して、今はこんなしがないサラリーマンなんぞしてるわけです。で、先生」

 憐れむような声で。

「先生は、どうして小説なんか書いてるんですか」


 数日の辛抱だ。そう言い聞かせ、俺は風呂田を無視した。数日もすれば照出がもどってきて、元の生活にもどるはずだからと。高良のやつがどういうつもりでこの男を送ってきたのか知らないが、俺にこいつは合わない。いや、こいつでなくとも、誰も俺に合いはしないのだ。……照出を、除いては。だから俺は待った。さっさと帰ってこい。いつまでも人を待たせるなと腹を立たせて。

 だが、三日経ち、五日経っても照出はもどってこなかった。流石に不審が募った。俺の預かり知らぬところで、何か異変が起こっているのではないか。風呂田は当てにならない。自分は代理に来ているだけで、他のことは知らぬ存ぜぬと、それしか言わなかった。

 直接電話を掛けようとも思った。何度も思った。だが、結局やめた。電話を掛け、それで何を話せばよいというのか。お前がいなくてさみしいとでも? それともどうして一人にするのだと怒り狂う? バカなそんな、みっともない。そんな真似、できるわけがない。

 それに……それに。切羽詰まって電話をするという行為そのものに、抵抗があった。それは、必要以上に照出を追い詰めてしまうことになるのではと思われて。父との一件を、おそらく生涯抱えていくであろう照出の心傷を、可能な限り刺激してやりたくはなくて。故に俺は、自分から電話を掛けるのは、やめた。そうして更に二日経ち、三日経ち、そして――十日が経過した。


「これはこれは先生。どうですか風呂田とは。うまくやれていますか」

 あいつも変わり者ですが実績はある男でしてね、読書数はうちの中でも随一ですしきっと先生のお役に立つはずですよ。軽薄な声で、べらべらと自分の都合ばかり話す。本当に、勝手な。高良。俺が抱く“編集”像そのものである男。この世で最も唾棄すべき存在。

「照出は」

 だが、そんな男でも部署を預かる群れの長だ。長じてなお使えぬ男では有るものの、それでも部下の動向の把握くらいはできているはずだろう。

「照出は、どうした」

 最低限の期待を込めて、尋ねる。しかし、返ってきたのは沈黙だった。まさか、この程度の期待にも応えられないのか。早くも憤りつつ、それでも俺は高良の返答を待った。すると電話校の向こうから、高良の声が聞こえてきた。聞こえてきたのは、唸り声。

「……もしかして、照出から聞いていないんですか」

 不愉快さを隠さない声で、高良はいった。まるでこの質問をする俺の方こそ非常識であると詰めているかのように。

「あいつならもう、先生の担当にはもどりませんよ」

 心臓が、縮んだのを、感じた。

 どういうことだと問いかける前に、高良が話を続ける。

「もう辞めるんですよ、あいつ。まだ在籍はしてますけど、任せてるのは事後処理だけで」

 のどの奥が張り付く。眼球が乾く。「なぜ」。俺はそう、絞り出すように問いかける。不満を前面に表して、高良はこともなげにそれに答えた。

「結婚ですよ結婚。寿退社ってやつです」

 これだから女は困るんですよ、計算が立たなくて。うちの娘も最近すっかり生意気になりまして――。電話口の向こうで、高良が文句を言い続けていた。しかしそれらの言葉はもう、俺の耳へと入らない。俺は、見上げていた。ここしばらくの間――半年程の間、意識せずにすんでいたものを見つけて。天井から吊り下がっている“その人”を見上げて。

『おまえはわるくないよ』

 俺にはもう、かつて太陽であったそれの声しか聞こえなくなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る