7
『星の水母は月へと唄う』。新作のタイトルである。都合十二ヶ月以上も放置し続けていたこの新作。驚くことに、本腰を入れてから一ヶ月と半月程度で書き終えてしまった。発刊の方も手回し良く、売上も好調らしい。高良の奴がにやけづらで銭勘定していると思うと気も滅入るが、それでも以前ほどの嫌気は差さなかった。理由は――あえて、詮索もすまい。ただひとつの事実として、俺は書いた。一切の薬に頼らぬままで。
「お祝いしましょう、お祝い!」
照出は上機嫌だった。こいつがうれしそうにしていると何やら負けた気がしてそこそこに不愉快でもあったが、それに矛盾するような感情も、まあ、少しは、あった。少なくともこいつは、約束を果たしたのだ。薬なんかに頼らずとも書けるようにしてみせると、そう威勢よく切った啖呵を、現に実現してみせたのだ。そのことについては見直してやらないでもなかった。言葉にするつもりは、絶対にないが。
「え、行きたいところがある、ですか?」
どこでお祝いしましょうと既に祝いの会を開く心積もりでいる照出に、俺は告げる。一緒にそこへ行ってほしいと。一切の逡巡なく、照出は俺の言葉を受けた。「先生の方からそう言ってくれたの初めてで、私うれしいです」と、そう言って。
そして俺は今、苦き思い出ばかりが残る我が故郷へと帰郷している。
「へぇ~、先生、ここで育ったんですね?」
さびれうらびれ、人気も活気もないこの町をきょろきょろと見回しながら、照出は俺の後をついてくる。今にも倒壊しそうな木造の小学校。取り潰されて壁を失い、内部が開け広げられたまま放置されている家屋。剥げた看板の古書店は、もはや開くことも適わなそうな錆びたシャッターを降ろしっぱなしにしている。俺という人格の軌跡であり、また汚点でもあるこの町を見回しながら、照出は俺の後をついてくる。
見せたいのは、ここじゃない。
「先生、ここは……?」
照出の質問に答えぬまま、俺はそこへ登り始める。小高く盛り上がった丘。この場所が町で唯一の総合病院から一望できることを、俺は知っている。丘を登る。群生する木々が林立する林へと入っていく。照出はこのような自然に分け入ると想定していなかったのか、些か歩きにくそうに俺の後を追っていた。登るペースを落とす。
外に比べ差し込む光は少ないはずなのに、陰鬱に沈む町よりもむしろ静謐な輝きを感じさせる緑の海。似ているようで確と異なるそれぞれの樹木。時の流れの緩やかな場所。あの時から、何も変わらぬ場所。先生が生きていた、あの頃から。
しかし。
『ささやいてくれたんだ、彼女の方から。ぼくに会いたかったって』
緑の中心で、俺は立ち止まった。行く宛を失って。俺にはそれを、見つけられないから。
『おかしいかな――』
それは『先生の木』であって、俺の木ではないから。
「先生……?」
「昔」
ささやきなど、俺には聞こえないから。
「男が一人、首をくくったんだ」
だから俺は、見つけられずにいた。今も――。
「首を、くくったんだ」
今も、先生の死を見つけられずにいた。
「太陽が……」
先生の死のその先を、見つけられずにいた。見つけることなど叶わぬと、ずっと、ずっと、そう思って生きてきた。
だが――。
場違いな電子音が、清閑にそよぐ枝葉を揺らした。照出が、バッグからそれを取り出した。携帯。密室から掬い出され、それが放つけたたましさは更に巨大なものとなる。人と人とを無為にも有為にも結ぶつけるその文明の利器を、照出は見つめていた。俺は何も言わなかった。何も言わず、照出の“顔”を見つめた。見つめて、照出の行動を、待った。
照出が、振動するそれに触れた。無機質なメロディが、止まった。
「あのね、先生。私の家、父子家庭だったんです」
照出麗奈は、語りだす。とつとつと、己が過去を振り返りながら。
「兄弟もいないからお父さんと二人切りで。でも、さみしいと思ったことはなかったんですよ。お父さん、やさしかったから」
それは、照出麗奈という女の起源。彼女が辿った足跡。
「もちろん、大変な思いをする時もたくさんありましたよ。でもね、くるしい時はデパートなんです。お父さんが、教えてくれたんです。二人で甘いお菓子をいっぱいに分け合えば、つらいことは半分で、うれしい気持ちは二倍になるって。そうして分け合える人がいれば、どんな“くるしい”も乗り越えられるって」
何を愛し、何に頼ってきたか。
「私、お父さん、大好きだったんです。うそじゃないんです。本当に、そう思ってたんです」
何と出会い、何と交わり、何と生きてきたか。
「そのころ私は大学生で、ちょうど浮かれてる真っ只中で、お父さんとも離れて一人暮らしを満喫していたんです。勉強もしてはいたけど、それ以上に遊んで、食べて、お仕事の真似っ子して」
何を抱えているか。
「その日ね、お父さんから電話があったんです。数カ月ぶりだったと思います。でも私、友達との約束を優先したんです。明日掛け直せばいいやって、電話、取らなかったんです」
何を、痛みとしているか。
「お父さん、死んじゃいました。その日の夜に。中毒死だったそうです。違法ドラッグの、薬物中毒」
何を、嫌悪しているか。
「周りは、私のことを慰めてくれました。お父さんを悪く言って、私は悪くないって。でも――」
照出は語った。
「慰められれば慰められるほど私、つらかった。いっそ責めて欲しいって、何度も思った。だって私、お父さんの声を無視したんです。自分は何度も助けてもらっておいて、ぎりぎりで発したお父さんの訴えを、“くるしい”を分かち合う最後のチャンスを、私は無視しちゃったんです。誰がどんなに慰めてくれたって、私がお父さんよりその日限りの遊びを優先したのは絶対の事実なんです」
己について。
「みんなが本気でやさしくしてくれてることは、判るんです。だからなおさら私、嫌だった。みんなの応援に応えて、ありがとう、私はもう元気だよって、そう笑って返したかった。でも、できなかった。やさしくされて、腹がたった。みんなにじゃない。私自身に。それで、わかっちゃったんです。私、自分のこと、嫌いになっちゃったんだぁって」
己の価値観について。
「嫌いで嫌いで、消えちゃえばいいのになぁって、毎日そんなふうに思ってました」
己の価値観の変異について。
「そんな時です。先生の『太陽を見上げた狼』と出会ったのは」
価値観を変じる、その切欠について。
「あのね、先生。できれば笑わないでほしいんですけど……『太陽を見上げた狼』を読んで私ね、感じたんです。これは、私に宛てた本なんだって」
その出会いについて。
「真剣に、そう感じたんです。それで――」
その奇跡について。そして――。
「……なんだか全部、赦せる気がしたんです」
赦しに、ついて。
照出は語った。とつとつと語った。
自らが自らとして形成されるに至った、その足跡について、語った。
彼女は自らの足跡を、自らを形成したその人物に向けて、語った。
語ってくれた。
「先生、これ、受け取ってもらえますか?」
そう言って彼女は、ずっと持ち歩いていた袋を渡してくる。
「こんなものしか思い浮かばなくって、恥ずかしいんですけど……」
開けてと雰囲気で催促する彼女の声に応え、袋の裡に包装されたそれを開く。
「でも、それも私なんです。足りない所まで含めて、私だから」
そこに秘されていたのは、いつかのデパートで見かけたサンダル――あの、ローマ人のサンダルだった。かわいいと聞かれ適当に相槌を打った、あの時の。
「先生、私はここにいますよ」
ローマ人のサンダルを抱えた俺に、彼女が笑う。
「先生に救われて私、ここに生きてます」
笑う彼女を、俺は見つめる。俺の世界で唯一、同胞という意識を思い出させてくれるその顔を。親愛を抱かせる微笑みが気恥ずかしそうに、いたずらっ子のそれへと変わった。
「……プレゼント、びっくりしました?」
……正直に言えば、予測はしていた。もうずっと前から欲しいものについて聞かれていたし、これだけ不自然に大きな袋を持ち歩かれては、意識しないほうが不自然というものだ。中身こそ想定外ではあったが、そういうつもりなのだろうとは、予測していた。だが――。
「……ああ、びっくりした」
「ふふ、やった」
期待に溢れた目が、喜びに変わる。構わないだろう、小さなうそくらい。この顔を見るためならば。林の中に、風が吹き込んだ。草葉が揺れ、自然の音色が一帯に奏でられる。清新な空気に抱えた重みが運ばれる。
照出が、一本の木を見ていた。じっと、不思議そうに。その様子を見つめていた俺の視線に気づいて照出は、少し困ったように口を開いた。
「なんだかあの木、私達にささやきかけてたみたいで。……えへへ、気のせいですね、きっと」
俺は何も言わなかった。そうかもしれないし、そうでないかもしれないと思ったから。どちらであってもよいと、そう思えた。そしてそれから、こんなことを思っていた。いつか……いつか一緒に、並んでやってもいいかもしれない。あの行列のシュークリームを、いつかこいつと、並んでやってもいいかもしれない。待ってる時間とやらを、共有してやっても。そんなことを俺は、風吹く緑の演奏に包まれながら思っていた――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます