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「楽しみですね、先生!」
受付でスタンプを押印された半券を上下に振り回して照出は、興奮気味に繰り返した。楽しみですね、先生。新作映画のポスターが所狭しと広告されている長く薄暗い廊下を、並んで歩く。その暗闇の片隅で俺は、人影を見つけた。まだまだあどけなさが表に残った、笑顔の少年。その少年が、隣に立つ青年を見上げ、両手を上下に振り回す。
『楽しみだね、先生!』
『お前にはむつかしいかもしれないよ』
『へいちゃらさ!』
充満する生命力を抑えられないといった様子で少年は、暗がりの廊下を走り出す。身に不相応な答えを歳に相応な生意気さで返す、自分を大人と勘違いした未熟なクソガキ。しかし青年は無責任な自由に酔いしれる少年を前にしても、微笑んでその動向を見守る。そう、青年は判っていたのだ。少年の気取った応えが、自身の小説に書かれた一節を真似たものであると。故に青年は微笑んでいた。その無軌道をまるで、愛らしさとでも捉えているかのように。
「先生、この列ですよ!」
平日の館内に、観客は殆どいなかった。広く空席が目立つその場所で、俺と照出は隣り合って座る。スクリーンには洋の東西を問わぬ映画の宣伝が次々と流れ行き、そのひとつひとつに照出は反応を示していた。このシリーズ新しいの出すんですね。あ、私これ知ってます。これ気になります、私観に来たいな。ね、先生はどう思いますか。先生、先生、先生――。
『先生! もう始まるよ!』
天井の照明が落ちる。暗闇の中でその一点に集中できるよう、ワイドサイズのスクリーンが強く光を放つ。壁内に埋め込まれるように設置された幾多のスピーカーから、日常ではまず耳にしない大ボリュームの音楽が流し出される。これは非日常である、特別な時間であると、この場自体が主張する。
幕が開ける。
古い、ロシアの映画だった。ジャンルはサイエンス・フィクション。当時としては画期的な映像表現を駆使した注目作であるらしかったが、まだ幼い俺にとって哲学的な内容を含むその映画は先生の危惧した通りに難解で、同時に退屈でもあった。眠気にも、何度も襲われかけた。それでも俺が眠らずに最後まで見通せたのは、隣に先生がいたから。
判らないこと、むつかしいこと。秘められた意味、感情、科学に哲学に、そして信仰。暗がりの館内で先生は、逐次耳打って解説してくれた。平易な言葉でつむがれるその唄うような言葉たちは魔法のように不明を明へと解き明かし、閉じたまぶたを開き、塞がれた耳からやさしく栓を抜き取ってくれた。見えなかったものが見えていく快感。先生はそれを、俺にもたらしてくれた。先生はいつだって、それを俺にもたらしてくれた。
危惧していた通り、スクリーン上の役者たちの顔が、俺には認識できなかった。砕けた頭蓋に開いた黒穴。見続けていれば気分を害し、引いては昏倒するやもしれない。目を逸らさざるを得なかった。幸いなことに、こいつは俺の小説が原作。話の筋は理解している。音だけでいい。音だけでも、理解はむつかしくない。この話の筋は、実に単純かつありきたりな構成で組まれているのだから。
青空と痛みが伴う未成年の青春群像劇を書いて欲しい。そのような依頼を受けて執筆したのが、この作品だ。当たり前に男女が出会い、当たり前に苦しみ、当たり前に別れの痛みを経て、当たり前に成長する。そんな余りにありふれた、かつて何千何億と産み捨てられてきたくだらない物語の類型が、この作品の主軸だ。「なんで」、「どうして」。無理解と攻撃性に満ちた若者たちが私は傷ついたと訴え叫ぶ。ああだが傷ついたのは俺だけじゃない。お前だって俺を傷つけたじゃないか。刃物となった言葉の応酬。そこに理性はない。理性なき所に解決はなく、自己に依って越えられぬ壁にぶつかった若者は遍く真理を悟った賢者を頼り、その手解きを受けるものと決まっている。……そう、そうだ。過ちに消沈した未熟な主人公に、その死を定められし導き手である青年が、言うのだ――。
『おまえはわるくないよ』
『役に立ちたかったんだ』
知っている。
『ぼくは、役に立ちたかったんだよ』
知っている。
『本当に、それだけだったんだよ』
知っている。言わなくとも、知っている。
資料が足りないと言っていたのだ。新作を書くのに必要な資料が足りないと。物語の中身は知っていた。まだ不確定な構想段階の話を聞くのはお前の人生において比類なき歓びであり、優越を伴う特権であったのだから。お前は知っていた。だからお前は向かったのだ。立ち入りを禁止された子どもたちの遊び場、稼働を停止して久しいその廃工場へ。手にしたばかりのピカピカなカメラを携えて。
初めて足を踏み入れた廃工場は、お前の好奇心を刺激するに充分な場所だった。お前ははしゃいだ。はしゃいで興奮して、どんどんと工場の奥へと入り込んでいった。打ち捨てられたこの工場にはかつてここで使用されていた資材がそのままに残されており、そのくすんだ鉄の塊のどれもこれもがお前には宝物のように見えていた。
次々とカメラに収め、時間を忘れてお前は、この非日常の異世界に没頭した。そしてふと、お前は思ったんだ。写真に収めるだけでなく、持っていってしまえばいいのではないかと。これらの資材の、どれか持ち運べるものを持って帰れば先生は、きっと喜んでくれるに違いない。役に立てるに違いない。お前は、愚かにもそう考えたんだ。
お前には友達がいなかった。そのためお前は、ここのどこなら安全で、何をすると危険なのかも知らなかった。腐食した鉄が思った以上に容易く折れてしまうことなど、お前は知らなかった。夜になっても帰らぬお前を心配した母が、先生にその捜索を手伝ってもらっていたことを、お前は知らなかった。
お前は、何も、知らなかった。
今が容易く崩れ去ってしまうだなんて、そんなことがあるなんて、知らなかった。
『役に立ちたかったんだ』
ああ。
『ぼくは、役に立ちたかったんだよ』
ああ。
『本当に、それだけだったんだよ』
ああ――。
『わかっているよ』
違う――。
『おまえはわるくないよ』
スクリーンが切り変わる。
(やめろ……)
青年がいる。青年が、“彼の木”の前に立っている。
(やめてくれ……)
無数の紙片が、その一枚一枚が、その一行一行が至宝そのものであったそれらが、風に吹き上がって散っていく。
(こんなもの、見せないでくれ……)
凝固した眼球は、それから視線を外すことを赦さなかった。
これより起こることから目を離すなと、肉体が精神を戒めた。
(やめろ、やめてくれ……)
青年が、スクリーンの向こうから俺を見ていた。俺を捉え、認識し、微笑んだ。
(お願いだ……)
頭蓋の砕けたその青年が。無間の洞が。そして、洞の底にて仄見える――。
(助けて、助けてよ――)
青白く腐敗した、太陽の残滓が――――。
(だれかぼくを――――)
首を――――――――。
(だれか――――――――)
右手に、強い、圧迫感。人の手。握られていた。身体が動いた。知らず、辿っていた。手の先。腕の上。首の、更に、その上。人の、頭頂。そこに、視線を、向けていた。
顔、が。
佳境を告げる音楽が、館内に満ちていた。役者たちが声を張り上げ、知った言葉を吐いている。照出はその躍動し、目まぐるしく移り変わる画面に釘付けでいた。俺の手を握りながら、おそらくはその行い自体気づかぬままに。無意識に、ただ無意識に、何かを握りしめることで暴れまわる感情を抑制している。そう、感じられた。スタッフロールが流れ終わり、館内に明かりが照らされるまで照出は、涙を流しながら俺の手を握り続けていた。固く固く、握り続けていた。
「ここ、おいしんですよ。焼きたてのパンが食べ放題で!」
上映終了後、照出おすすめのレストランとやらへ連れ込まれた俺は手慰みにクロワッサンの皮を無限に剥きながら、目の前の食事もそっちのけで映画の感想を口早に語る照出を眺めていた。
「私もう、私もう後半ぜんぜんだめで、ほんとにもういっぱいいっぱいになっちゃって」
「知ってる。まだ手が痛い」
「そ」
フォークを握った手が、空中で固まる。
「それは、そのう……うう、ごめんなさい。つい癖で」
両手でフォークを握りしめ、消沈を表すその“顔”。
「さ、さっきから私ばっかりしゃべってます! 先生はどう思ったんですか。私にだけ話させてないで、先生の感想も聞かせてくださいよう!」
失態を誤魔化し、話題を変える。唇を尖らせ、すねたように当てこする“顔”。
「な、なんですか? そんなじっと人の顔見つめて……え、えと、何か変ですか? やだな、ちゃんとお化粧直したのに……」
気まずそうに目を泳がせ、戸惑いを顕とするその“顔”。
「ぴゃあ! 恥ずかしいですってばもう、なんなんですかー!」
「お前――」
両手で顔を覆い隠し、目の前から隠された“顔”。俺の言葉に呼応し、開かれた中指と人差し指の間から覗く“目”。
「不細工だな」
理解が追いつかず、ぽかんと口の開いた間抜けな“顔”。理解が追いつくとともに紅潮し、釣り上がる“眉”。
「あんまりですよ先生! 乙女の純情もてあそんでこのやろー!」
迫力のない“顔”でわあわあと、私は怒っているぞと精一杯主張するその頭部。砕けてもおらず、黒穴が広がってもいない、その、目まぐるしく移り変わる、人間の、“顔”。
照出の、顔。
「食べないのなら先に帰るぞ……………………レナ」
立ち上がり、会計へと歩を進める。ばたばたとした物音と共に背後から、強い勢いで騒がしい声がぶつけられる。俺は気付かれないように、僅かに、僅かに身体を傾けて、俺を呼ぶその者の顔を確かめた。
「レナって言いました? レナって言いましたよねせんせー!」
とてもうれしそうに笑う、その顔を。
照出麗奈について判明したこと。
ひとつ。不細工という形容には腹を立て、それから……レナと呼ばれると、喜ぶ。
書ける気がした。
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