「ごめんなさい先生。今日だけはその、どうしても外せない用事があって」


「ですので私は小説を書く時に必ず――」

 俺は、何を話しているのか。

「本日この賞を頂けたことは、偏にそれらの努力が結実したものと――」

 こいつらは、何を聞いているのか。

「大変ありがたく光栄なことで――」

 中身のない、無味乾燥な言葉の羅列。

「支えてくださっているみなさま、何よりも読者の方々に――」

 それでよいと、顔なき者の仮面の羅列。

「感謝を――――」

 壊れてしまえ、何もかも。

 授賞式。書いた本が、何かの賞に引っかかった。それを祝うとの名目で、作家は壇上のパンダにされる。カメラを向けられ、称賛を浴びせられ、儀式の一部に貶められる。そこに歓びなど、欠片もない。あるのは諦観と、憎悪と、強烈な侮蔑。愚鈍な大衆。価値の判らぬ畜生どもへの。

 こいつらの基準は真贋にない。流行りを作す詐欺師の手口に、脳を溶かして呑まれる畜群。どいつもこいつも畜生だ。人以下の、人間未満の、人が人足る尊厳を放棄したケモノどもだ。例えばいま、俺がこいつらを罵ったとして。それでもおそらくこいつらは、喝采上げて称えるだろう。左右の隣に呼応して、違和の不信に目をつむる。乱れず、溢れず、統に制ずる。示し合わせずとも均一に、場へと従う家畜の群れ。唾棄すべき、顔のない人間ども。嫌いだ。俺は、お前らが、大嫌いだ。

 ……苛立ちが収まらなかった。会場へ着く前から、家を出る以前から今日は、神経が昂ぶっていた。要因は、多岐に渡る。この世はとかく無遠慮で品なく、癇に障るもので溢れているから。世界は複雑系なのだ。故にただ一つの要因を特定することなどできはせず、それをさも悟り覚したかのように断定し喧伝するのは、それは自らの足りなさを言いふらす愚行と変わりない。愚か者の所業だ。俺はそんな愚は犯さない。だが、だが――だが、それでもこれだけは、いえる。

 照出麗奈は、関係ない。

 照出麗奈が会場へ付いてこなかったことと、この苛立ちとの間には微塵の相関関係も、ない。

「ごめんなさい先生。今日だけはその、どうしても外せない用事があって」

 外せない用事、三日の連休。理由を探れば、どうやら叔父がなんだという話。事故や不幸の類でもないそうだ。急な要素など、どこにもない。つまるところ、口実なのだ。逃げるための口実。俺から。かつて理想の存在であり、而して実像に触れたことでその認識を改めてしまった、嘉多広という作家から。驚くことではない。そんな経験は、これまでにも何度も出くわしてきた。

 結局奴らは、口だけなのだ。多少冷ややかに対応されたくらいで嫌気が差し、容易く言葉を撤回する。当然だ。何故なら奴らは、“編集”なのだから。始めから期待などしていない。期待など、始めから。故に、相関性など絶無なのである。この苛立ちと、照出麗奈の二項において。あいつがどこで何をしていようと、俺の知ったことではない。断じて。

 スピーチを終える。畜群が一斉に、ばちばちと蹄をかき鳴らす。轟々と圧を伴い壇上へとぶつけられるその波、熱。仮面の群れ、畜生の群れ。

 ああ、うるさい。


「ようよう、ずいぶんご活躍みたいじゃんか、なあ嘉多広ちゃんよ」

 思慮浅きマスコミの中身無き質問攻めに辟易し逃げ込んだ先の厠で俺は、面倒な男に絡まれた。男は引き寄せるようにして肩を組み、旧来の親友かのように馴れ馴れしく顔を寄せてくる。

「俺も鼻が高いってもんよ、目にかけた後輩がこんなに有名になってよ」

「……どうも」

 男の名はロゴ・エペソ。本名ではない、ペンネームだ。俺よりも数年前にこの世界へと入り、確かに男の言う通り、一時は世話にもなっていた。……いや、正確に言うなら面倒見の良い先輩というロゴの自己アピールのポーズに、無理やり付き合わされていた。

「ところでよ嘉多広ちゃんよ、聞いたぜ」

 ぐいっと、強引に肩を引き寄せられる。酒くさい息が鼻腔を突く。

「キツネのやつ、振ったんだってな」

 まるで潜める様子のない、平然とした声。キツネの、“向こう側”の人間の名を口にしているというのに。人気のない厠とはいえ、不用心に過ぎる。

「俺もよ、紹介人として顔が立たない訳よ、あんま勝手されると。な、判る?」

「買うも買わないも自由って約束です」

「建前だよんなもん」

 ごつごつとした筋肉質の腕は俺の肩から首を圧迫し、それはもはや苦痛の域に達していた。しかし逃げ出そうにも、その拘束はきつく固い。適当な理由をつけてどうにかこの場から退散しなければ――そう思った矢先、ロゴが懐から何かを取り出し、それを――それを、俺の眼前へと、晒した。

「ほらよ、後払いで構わねぇから」

 耳元でロゴがささやく。それは、間違いなかった。間違いなく、二週間前に俺が手に入れそびれた、物を書くための特効薬。のどの奥が、鳴った。照出と出会ってから――いや、そのもうずっと以前から俺は、書けていない。書くことだけが自己の存在を許容する、その唯一の方法であるというのに。書かなければ、ならないというのに。

 そうだ。実に単純明快な論理だ。使わなければ、書けない。そして、使えば、書ける。これを、使えば。

「遠慮すんなよ。俺とお前の仲だろ?」

 ロゴがそれを、左右に振った。透明のビニールに閉じ込められた内容の粉末が、誘うように波を打つ。躊躇う理由などなかった。ここには誰も居ない。法の犬である警察も、都合で掌を返す大衆も、それに……自分勝手な理屈で商談をご破産にしてしまった女も。受け取らぬ道理はなかった。書くためならば。そうだ、これが自然だ。当たり前であり、この二週間が異常だったのだ。平常へと、もどるだけだ。だから、受け取れ。そうだ、そのまま、わずかにてのひらを開き、指の先に触れたそれを、そう、つかめば、つかんでしまえば――。


『先生!』


「……へぇ」

 気づけば、突き飛ばしていた。ロゴを。訳も、判らぬまま。

「さすがは売れっ子様だ。こんな落ち目とは関わりたくねぇってか」

 突き飛ばされたロゴは壁を背にして座り込んだ姿勢のまま、俺を見上げていた。下方から向けられる視線。目を背ける。

「……酔っ払いは、嫌いです」

「酔ってちゃわりぃかよ、こんなクソみてぇな世界で」

 壁を背にしたロゴがずりずりと、更に身体をすべらせる。厠の床の上で、しかしそうした穢れへの忌避感などまるで気にせぬ様子で、ロゴは自らを横たわらせていく。

「ああそうさ、俺はお前らが嫌いだよ。公明正大を装ってその実、痛みに鈍感なだけの無自覚で無責任な消費者共が」

「……書かないくせに」

「てめぇだって“てめぇの小説”捨てたじゃねぇか」

 俺は、返事をしなかった。ロゴが笑い出した。高らかに、勝ち誇るように。笑われたまま、俺は踵を返す。一言も、返すことなく。

「せいぜい大衆に媚び売って、必死に時代に追いすがってな。でなけりゃすぐに、“昔はすごかった人”にされちまうんだからな!」

 ロゴの言葉を背中に受けて、そうして俺は外へ出た。一枚の扉板で隔てられた厠の外は虚栄に彩られた異世界で、そこもまた俺にとって呼吸のしづらい、俺以外の誰かの居場所なのだと感じられた。

「ああ先生、そんな所におられたんですか!」

 行く宛がなく壁に持たれて呼吸を整えていた俺の下に、オカマ野郎の高良が小走りで駆け寄ってきた。反射的に舌を打つ。しかしそれが聞こえていないのか、それともその程度気にもとめていないのか、高良は例の猫なで声で許しもしていないのに話しかけてくる。

「よかった先生、見つかって。紹介したい方がおりましてね。付き合って頂けますね?」

 すでに付き合うことが決定している物言いだった。こうした一方的な都合の良さが、この男への悪感情を増幅する。わざとらしくひとつ、ため息を吐いた。やはり気にする様子などなかった。もたれた壁から、背を離す。

「嘉多広先生、もしかしてロゴと一緒にいたのですか」

 紹介相手とやらの下へ向かう途中、出し抜けに高良が問いかけてきた。俺は肯定も、否定もしない。

「先生、付き合う相手は選びなさい。彼はいけません。一時はもてはやされもしましたが、今はもうどこの出版社でも門前払いされるばかりで。それに――」

 高良は一人で話を続ける。そしてその話がなにやら佳境に入ったのか、俺の耳元に口を近づけ、こそっと辺りを伺いながら小さな声で話を続けた。

「噂ではよからぬ連中と付き合いがあるとかって。なんにせよおしまいですね、ああなってしまっては。惨めなもんです」

 何が楽しいのか、話を結ぶと同時に高良は、いやらしい笑い声を立てる。何が楽しいというのか、こいつは。それに、惨めだと? ロゴがもはや、どこからも相手にされていないことは知っている。ロゴの書くものが、商品未満の烙印を押されてしまっていることも。それは確かに惨めなのかもしれない。こいつら、編集者にとっては。だがしかし、少なくともロゴは自分の小説を書いていた。何を言われようと最後まで、自分の書くものを貫いたのだ。……本当に惨めなのは、どっちだ。

「先生、こちらテレビアイデリーで役員をなさっている――」

 紹介された男が何事か話しだし、高良がそれに受け答え、二人でなにやら談笑して。興味などなかった。その会話にも、テレビ局の役員うんだらという役職にも。とにかく嫌気が差していた。何に対してと断定するのも億劫な程に。そのためこの質問も、取り立てて深い意味を付与したものではなかった。ただ男の、仕立ての良い背広の片側が濡れているのに気づいたから、話を振られたついでに尋ねてみただけだったのだ。

「ええ、急に降られてしまいましてね。大変な大雨ですよ」

 雨――という言葉に脳髄が刺激され、瞬間的に意識が覚醒した。先生と叫ぶ高良の声を無視して走り出し、会場の外へと出る。役員の男が言っていた通り外は酷い大雨で、おまけに横殴りの強い風まで吹いていた。最悪な光景だった。

『俺の木』。家へとしまった記憶が、ない。

 道路まで駆け出す。水しぶき跳ねる路上を滑走するタクシーを、折良く発見。目の前へ飛び出す。夜闇を照らす強烈なライトに目がくらむ。重量物を無理やり止めるけたたましいブレーキ音が路上に響く雨音をかき消し、後輪を僅かに浮かせた車両が接触事故を起こすその直前で停止する。

「ちょっと、他所でやってくださいよそういうのは!」

 窓を開けて、運転手が苦情を叫ぶ。その声に応えず俺は扉を開き、後部座席へ潜り込む。そうして口早に住所を告げると後はただ、無言の圧力で発進を急かす。車内では運転手がぶつぶつと不満をつぶやいていたが、車は程なくして雨中の路面を滑り出した。

 いまから急いだところで、到底間に合いはしないだろう。『俺の木』は、繊細な木だ。水をやりすぎても、やらなすぎても、陽に当てすぎても、当てなすぎても、根腐れを起こして枯れてしまう。それは種の持つ繊細さではなく、『俺の木』が持つ固有の虚弱性だ。そしてその虚弱性こそが、『俺の木』が『俺の木』である所以なのだ。代わりは他に、ありえないのだ。

 苛立っていた。酷く苛立っていた。『俺の木』をしまい忘れた理由を探して、そのひとつひとつに怒りをぶつけていた。なぜ、今日に限って雨が降るのか。授賞式の日取りを今日に決めたのか。そもそもなぜ賞を与えようなどと考えたのか。選者はいったい誰なのか。なぜあんなものが売れたのか。大衆はなぜ愚かなのか。それから、それから――。

 あいつはなぜ、休みを取ったのか。そして――。

 俺は、なぜ――。

『それが、お前の木なんだね――』

 声が、聞こえた。すぐ側から。懐かしく、やさしいその声が。

『そうかい、それなら――』

 その人は、俺の隣に座っていた。隣に座って、語りかけていた。

『お前はその子を、愛してあげなくっちゃいけないよ――』

 俺とその人との間に挟まって座る、その少年に。幼き時代の、その――。

『うん! ぼく、絶対に大事にする!』

 太陽を、見上げ――――。


「ちょっとお客さん、勘弁してくださいよ!」

 運転手の声で、正気にもどる。どうやら俺は、えずいていた、らしい。隣を見る。そこには誰もいなかった。残ってなど、いはしなかった。何の、痕跡も。


 異変にはすぐに気がついた。車を降り、雨降る空を見上げ、四階に位置する自宅のバルコニーを見上げる。見慣れぬ光景が、そこには存在した。エレベーターを待つことも煩わしく、階段を駆け上がる。取り落としそうになる鍵をなんとか玄関口へと突き刺し、部屋へと入る。明かりをつける。部屋の明かりに照らされ、バルコニーの状況が顕となる。

 照出が、そこにいた。

 ……なんで?

 鍵を解き、窓を開く。雨粒と共にばたばたと、風に煽られる分厚いビニールの翻る音が部屋の中へと侵入した。両手を上げて照出が、ビニールの覆いをそこに形成していた。

「おかえりなさい、先生!」

 ビニールの覆いの内側、風雨から守られたその空間には『俺の木』が、今朝見た時と同じようにやや左曲がりの姿勢でそこに鎮座していた。目に見える水滴もなく、風に枝を折られた形跡もない。

「先生、よじ登っただなんて思ってますか? まさか、そんなことしませんよ! お隣さんに頼んで、隣のバルコニーからこっちに入らせてもらったんです」

 いつも通りの脳天気な声で、ずいぶんとおかしなことを照出は言い放った。隣家のバルコニーを見る。このマンションのバルコニーは地続き型ではなく、ひとつひとつが各部屋から出っ張った形で築かれている。つまり、隙間が存在する。広い隙間ではないとはいえ、成人女性が滑り落ちる程度の幅は確かにある。ここは、四階だ。落ちればひとたまりもない。だというのに照出は、それを実行した。

 いつか取り返しのつかない目に遭うぞ。喉元まで迫り上がった言葉を、声に乗せる直前で嚥下する。それは余計なお世話というものだろう。一他人に過ぎない俺が不用意に干渉するようなことでは、ない。だから俺はその代わり、俺の都合を、口にした。

「そっち」

『俺の木』の鉢の、片一方をつかみながら。

「そっち、持て」

「え、でも――」

「いいから」

 顔を背けて、再び言う。

「いいから」

「……はい!」

 生気に輝くその返事。その声に合わせ、手に力を込める。さしたる重量もない『俺の木』を、二人で俺達は運び入れる。部屋の中の定位置へとそっと下ろし、今一度確かめる。問題は、どこにも見当たらなかった。

「休みじゃ、なかったのか」

 服も髪もぐしゃぐしゃに濡らした照出にタオルを渡し、質問する。そうだ、休みのはずじゃなかったのか。外せない用事とやらで叔父の下へ向かったと、そう聞いていたから、俺は――。

「えーと……はい、そのつもりだったんですけど」

 ありがとうございますと言ってタオルを受け取った照出はしかし、それを使うのもそこそこに、言葉を探り出す方に意識を割いている様子で。

「向こうに行く途中に、雲行きの怪しいのに気づいたんです。そしたら先生が大事にしてる木のこと思い出して」

 口を挟まず、照出の言葉に耳を傾ける。

「先生のことだから大丈夫だとは思ったんですけど、でも、どうしても気にかかっちゃって……」

 その言葉から、照出という女の本性を探る。

「えへへ、ユーターンして正解でした!」

 言って、照出は笑った。濡れた全身はそのままに、そんな些事など気にもせずに。とても、とても、喜ばしげに。

 ああ、そうか。

 俺は理解した。照出麗奈。こいつはただの――バカなのだ。

「あのぅ……もしかして、怒ってますか? 勝手なことして……」

「……ひとつだけ」

「はい?」

 それならば――。

「ひとつだけ、言うことを聞いてやる」

「ほんとですか!?」

 それならば、もう少しだけ――。

「ただし五秒だ。五秒で決めろ。はい五、四、三――」

「え、えぇ!? どうしよどうしよ……ていうかカウント早い! 早いです!」

「二、一――」

「えぇっと、えと、えと……あ!」

 こいつのわがままに――。

「映画! 先生の実写映画、一緒に観に行きましょう!」

 付き合ってやっても、いいのかもしれない。

 いつかこいつが諦める、もうしばらくの間だけ。

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