人混みは、嫌いだ。

 いつの頃からか……などと恍ける隙もないほど明確に、ある時期を境として俺はひとつの異常を患った。頭部。人間の。首から上に乗っかったその卵型の球体が、俺には欠けて視えるのだ。より正確にいうなら、左側頭から頭頂部にかけて、それこそ卵が落ちて割れた時のように砕けて視える。砕けたその隙間から、本来見えざるその内側も、視える。そこにあるのは、洞(うろ)。太陽の強い光ですらその底を見通せない、無間に広がる洞。光を呑み込む黒穴。

 それを覗くと俺は、意識ごと己すべてを吸い込まれるような錯覚に陥ってしまう。錯覚と理解しながらも意識の上では確かにそれは、現実に起こる白昼の悪夢に相違ない。疲弊するのだ、精神以上に、肉体が。立っていることすら、困難となる程に。

 故に俺は、人混みが嫌いなのだ。人混みに塗れてしまうと、如何に気をつけていようとふとした瞬間に視線を上げてしまう恐れが存在するから。それは即ち、あの砕穴の洞を目にしてしまう危険を意味していたから。故に俺は、人混みが嫌いなのだ。外へ出るのが、嫌なのだ。

「せーんせー!」

 この二週間は、苦痛の連続だった。何故か。決まっている。照出(てるいで)麗奈のせいだ。キツネを呼び出したあの夜、あの小汚い中華飯店で宣言した照出の言葉。『クスリなんかに頼らなくても書けるように、私がしてみせます!』。どうやらあれは一過性の気紛れではなく、本気の声明であるようだった。少なくとも、本人の中では。照出は、自らの方法で俺をどうにか変容させるつもりでいるらしかった。

「せんせ、次はここ行ってみましょ! ここ!」

 その方法というのが、苦痛でしかなかった。ひとつ、自然公園に行ってトランポリンで跳ね回る。ひとつ、ラケットを持ってシャトルと煌めく汗を飛ばす。ひとつ、霊験あらたかな山嶺瀑布を観光し心身を洗い清める。それから、他にも、エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ――。

「あはは、先生あれ見てくださいあれ! すっごいがおがお言ってる! がおがお!」

 その発想の無節操なことには驚きを禁じ得なかったものの、分析すれば根は同じ、つまるところ健康的で清いものに、どうにか俺を感化させる腹積もりなのだろう。疑問は山のように上った。そもそもこれは、職務怠慢でないのか。旅費に遊興費にと湯水のように金を出して、これを高良は了承しているのか。これがどうやら了承しているらしい。俺の環境を整えるためなら、多少の支出は目をつむるのだと。正気とは思えなかった。何もかも。高良も、照出も、外の世界に溢れる頭部の欠けた者共も。

「先生ほら、見てないで一緒に来てください! すっごい迫力ですよ!」

 それでも俺は拒絶せずに、照出麗奈に付き合った。何故か。決まっている。それは偏に、判らせてやりたかったからだ。お前の行為は、無意味なただの自己満足に過ぎないと。俺は変わらない。このようなママゴトで、俺という個人が変じることは一切ない。畢竟それは、無為に過ぎず。書けない俺は、書けないままに、ただ時間のみを浪費する。となればそれは、社への損失と意味を変ずる。いつまでも待つなどと嘯いた高良であるが、その心根が口ほどに気長でないことを俺は知っている。やつは、何が何でも書かせようとするだろう。例えそれが、法に抵触する方法であろうとも。何故ならやつは――“編集”なのだから。

「先生どうですか? 楽しめてますか? 私? 私は――」

 照出麗奈も、同じだ。大言壮語に啖呵を切ったこの女も、所詮は同じ穴の狢の編集だ。逼迫すれば、仮面を外す。能天気の仮面を取り去り、秘めた本性を顕とする。気づいていないなら、自覚させる。己が如何に醜悪で、利己的な生き物であるかを。お前が如何に――“編集”であるかを。

「……えへへ、とっても!」

 化けの皮を、剥いでやる。

 それが、この馬鹿げた享楽に付き合う俺の、ただ一つの理由だ。

 

「くるしい時は、デパートです!」

 というわけで今日は、市内の総合デパートへと連れてこられていた。平素に比して身体を酷使せぬぶん気の楽な苦行かと思ったが、その予想は余りに短絡であったと改めざるを得ない。なぜ人は、人間は、この世にこれほど存在するのか。間引いても構わないだろう、半分程度。その方が息もしやすく、空もまた晴れ渡るだろうに。

「先生、上から見ていきましょう!」

 俺の気疲れを知ってから知らずか、照出は常に等しく生を振りまき、陰に沈む俺の心魂を辟易させた。この二週間、俺なりに観察して判明したことが、幾つかある。ひとつ、照出麗奈の行動力は、どうやら底なしらしい。俺と同じように各地を飛び回り、俺とは比べるべくもなく物事に熱狂興奮してきたはずのこの女はしかし、疲れの気配のその片鱗すら表しはしなかった。その小柄な体躯のどこからこの無尽蔵なエネルギーが生み出されているのか、不思議でならない。

「あ、なつかしいこのおもちゃ。ちょっと前に、すっごい流行ってましたよね。くるくるくるーって。……え、知らない? 先生、知らないんですか? あはは、おかしー!」

 ひとつ、おもしろくもないことにもやたらと笑う。本当に、脳の一部でバグを起こしているのではないかと思うほどに、笑う。エネルギーの豊富さと併せて、俺にはまったくついていけない。しかし、俺がついていけているか否かなど、照出にとって問題とはならなかった。何故ならば――。

「先生、こっち! こっちです!」

 ひとつ、パーソナルスペースが異様に狭い。服と服が接触するのではというエリアに、微塵の躊躇もなく入り込んでくる。だけでなく、その手はいかなる障害も突き破って、俺の下まで伸ばされた。肩を叩かれ背中を叩かれ、服の端をつかまれてはあちこち縦横に引っ張り回された。正に今も、そのようにして引っ張られている。そして――。

「これ、これ、かわいくないですか? えー、かわいい。すっごいかわいい!」

 ひとつ、何に対してもかわいいと評してはしゃぐ。生き物やぬいぐるみだけでなく小物やバッグ、時には食べ物に至るまで。往々にして、俺にはそのかわいいという刺激が何を鍵として生じた感覚なのか、理解できなかった。

 本日照出の目に止まったのは、凝った形状のサンダルらしかった。伸びた紐がふくらはぎや脛にまで結びつくそのサンダルを見て俺は、一目でローマ人が履くやつみたいだなと感じた。当然かわいいとは思わなかったが、余りにせがみ尋ねてくるのが鬱陶しかった為に一言「あーそうですネ」とだけ返してやった。照出は両手をぱんと打ち合わせて「ですよね!」と、それはそれはうれしそうに声を上げた。

 どこどこまでも軽薄な女だと、俺は思った。


「先生! デパートの王様は地下ですよ!」

 鼻息荒く力説する照出は、上階ではあれだけかわいいおもしろいと叫びまわっていながら何も購入せずにいたくせに、地下に降りた途端人が変わったように目につく菓子を片端から買いあさり始めた。ひとつひとつ小綺麗に包装された菓子共が並び重なり積み積まれ、照出の手の裡でそれらはけばけばしい色調のパターンを形成している。

「もちろん食べるんですよ、先生と私で。お菓子パーティです!」

 胸焼けがした。

「あ、先生。あっちなんでしょう。すっごい行列」

 山のような菓子を抱えながら器用に俺の袖をつかみ、行列の側へと小走りに照出は近寄る。そこで売られているのはどうやら話題のシュークリームだそうで、最後尾には三〇分待ちの札が掲示されていた。列に並んだ女どもの、ぺちゃくちゃと品なく囀り合う様が姦しい。たかがシュークリーム如きに、なにをこんな馬鹿げた真似を。

「『シュークリームなんてどこで買っても同じだろ』……なーんて思ってますね、先生?」

 懐へ飛び込むように、照出が身を詰めてきた。顔は見ない。が、見上げてきているのは、判る。

「ふっふっふ……判りますよそれくらい。もう二週間も一緒ですからね! ふふん!」

 なんで得意げなんだこいつ。腹が立つ。二週間そこらで理解できるくらい俺のことを、底の浅い人間だとでもいうつもりか。

「でもね先生、その認識は甘い、甘すぎます! お菓子はね、名前が同じでも職人ごとに全く別の食べ物になるのです! シュークリームは全部同じだなんて、小説はみんな同じだぁっていうのと同じくらい的外れなことなんですよ!」

 わかりますか! 念を押すように照出が、強い声で付け加える。そうかいそうかい、そうですか。一人勝手に熱を増して、ずいぶんと得意げに語ってくれるじゃないか。同じだなんだとそもそも俺は、一言だって口走っちゃいないんだがな。

「それにね先生、待ってる時間って、そんなに悪いものじゃないんですよ。待ってる時間は、わくわくでいっぱいにする時間なんですから」

 ……わくわく?

「これからに、わくわくしちゃう時間ですから」

 だから、ね、並びましょう! そういって俺の裾をつかんだ照出の、その懐から無機質な電子の音階が鳴り響いた。携帯だ。照出は俺から手を離すとやはり器用に指先をすぼめ、いつか警察につないだのと同じあの携帯をするりとてのひらへと抜き出した。が、スムーズなのはそこまでだった。携帯の表に表示されている画面を見て、照出は固まる。その停止は、凡そ生命力の塊である照出らしからぬ動作と感じられた。

 どうした、でないのか。言葉にはせず、心の中で問いかける。その間もてのひらの裡の携帯は無機質な呼び出しを続け、それは四回、五回、六回と、寸分違わぬ機械的な律動を繰り返す。そしてその反復がついに八回目に達しようとした頃、照出がようやく、動いた。

「……お久しぶりです! はい、麗奈です! どうしました今日は、何かありましたか?」

 電話に出る直前の躊躇いからは想像もつかないほどの明朗快活な声。即ちそれは、普段の照出とミリも違わず。相手の声は聞き取れないがずいぶんと愉快な話に興じているようで、話して笑ってうんうん相槌を打っている。

 そうして俺は、この甘ったるい匂いが充満する空間で一人、ただ待つだけの時間へと陥れられた。……それで、なんだったか。待つ時間は、わくわくでいっぱいにする時間? はっ、どこが。冗談ではない。待つ時間は待つ時間。ただただ退屈で、無為な時間に過ぎないことがこれで証明された。これだから適当な人間の適当な言葉は、信用するに足らぬというのだ。

「あ、私これ知ってる!」

 列に並んだ女の一人が、ひとつ方向を指差し叫んだ。つられて俺も、そちらを見る。女が指差したその先には、天井から吊り下げられたディスプレイが設置されていた。ディスプレイには昼のニュース番組が映し出され、聞き覚えのある名の俳優が明日上映される出演作の宣伝を行っている。そいつはべらべらと作品の見所を語り、謳い、それがまるで決め台詞であるかのように作品のタイトルを連呼した。

 俺の書いた、小説の。


『おまえはわるくないよ』


 ここにはもう、いたくなかった。真下の地面へ視線を落とし、出口に向かって歩きだす。

「あ! あのごめんなさい、いま仕事中だから! また折り返します!」

 後方から、照出の慌てた声が聞こえてきた。俺を呼ぶ声。しかし俺は歩みを止めず、そのままここから出ていった。外では子午上の太陽が、真新しいアスファルトを焦がしていた。

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