3
「例えるならそう……阿片。阿片でしょうな」
指の間に挟んだ煙草を突きつけるようにしてキツネは、自論を展開する。
「大衆の頭を蕩けさせ、蕩けて判断力を失った頭に強烈な快楽という餌を次々ぶら下げ依存に導く、実に功名で犯罪的なやり口。昨今では、どこもかしこもこのような方法に溢れかえって……くっくっ、私らの方こそ見習わねばならん時代ですわ」
笑う度に紫煙がくゆり、火の粉がぱちぱち爆ぜ飛び燃ゆる。その前時代的な情景は、この小汚い中華飯店の裡において驚異的な統制感を生み出していた。外界に流れるリアルな時間を、疑いたくなる程に。
「ところで先生、新作、拝読させて頂きましたよ」
溜まった灰が、とんっと皿へと落とされる。
「そうですな、率直に言って――どうやら先生は、時代の為の作家さんになってしまわれたようだ」
燻った焔を抱えた灰が、生命の終わりかの如くにその輝きを失っていく。……ああそうかい。ズケズケと、いう。ふんっ、言われなくても判っている。お前なんかに言われなくても。壁の方へと、顔を向けた。視界の端で、紫煙が揺れる。キツネが笑い出した。押し潰したのどから空気だけを漏らすような、独特な笑い方。
「なぁに、責めやしませんとも。顧客第一、結構なことじゃありませんか。私らも同じです。売れねば食っていけません。食えねば生き残れません。生き残らねば、どうにも次へはつながらず。とくれば明るい未来も全部がパァ!……なぁんてね」
大仰に両手を広げたキツネは、何が楽しいのかやはり再び笑い出す。腹の底の読めないキツネ。高良とはまた異なる意味で、信用できない。……だが。
おまちどぅ……と、気力の感じられない声と共に従業員が、叩きつけるように膳を配した。美意識など感じられない、無造作な盛り付け。見た目はともかく量だけは揃えたといった風情のもの。はっきりいって、食欲をそそられる代物ではない。……が、だからこそ、気取らぬそれらからは理性に反した安堵を抱く。
「ま、食いましょうや。売れなくとも死にゃあしませんが、食わなけりゃあいずれおっ死ぬ。それが世の理ってもんです」
指の間の煙草をもみ消しいただきますと、キツネが一番に手を付けだした。背広の上からでも瞭然な針金のように細く長く不健康な肉体に、でらでらと油に光る料理の群れが吸い込まれていく。見ているだけで胸焼けを起こしそうな情景。しかし当の本人はまるで意に介す様子なく、皿の上の塊を平らげていく。
「ほらトラ、お前も食え。先生が気を使っちまうだろ」
「はい、キツネの兄貴。頂きます」
キツネの隣で彫像のように押し黙っていた男が、静かに合掌する。キツネとは対象的に、明らかにサイズの合っていない背広をぱつぱつに張らせた巨躯のこの男は、レスラーかラガーマンかといったその見た目からは想像のつかないほど行儀良く皿の中の飯に手を出し始めた。そして、しばし、黙々と、食う。黙々と食うキツネとトラ。その様子を、首から下を、俺は見つめる。キツネが箸を止めた。
「……餃子、味、変わったなァ」
それとはっきり判るほど、大きく吐かれるため息。
「“昔ながら”が失われるのは、いつだってさみしいもんだ……」
止めた箸を、キツネが置いた。
「なあトラよ。お前さんもそう思うだろう?」
合わせてトラが、箸を置いた。
「はい、キツネの兄貴。俺もそう思います」
「そうかいそうかい、素直なやつだなお前さんは」
「恐縮です」
キツネが笑う。押し潰したのどから空気だけを漏らすような、独特な笑い方。笑いながら、キツネが新たな煙草を指に挟んだ。隣のトラが火を灯す。皿の上の餃子はそのままに、紫煙がくゆる。時間が停滞していた。この場、この時に置いてだけ。
だが俺は、止まるためにここへ来たのではない。
手を伸ばした。キツネの残した餃子の乗った、その皿へ。つかみ、引き寄せ、流し込むようにそれらを胃の腑へ落とす。油にぬめった包の皮が、のどをずるりと滑っていく。空。空いた皿を、叩きつける。店主の視線が、こちらへ向いた。
「寄越せ。金ならある」
「くっくっ……相変わらず繊細なお人だ」
指で強くテーブルを打つ。くつくつと、呆れるように紫煙が揺れた。キツネが合図を送る。「はい」と、生真面目さを感じさせる硬い声で応じたトラは脇に備えたブリーフケースから、全国展開されている新古書店の安っぽいビニール袋を取り出した。見慣れたその、多くの作家が目の敵にしているデフォルメにデザインされたスマイルマークの刻印。
「私からのおすすめでね」
トラが取っ手を両に開き、中身を顕す。中に入っているのは色あせた文庫本が二冊と、古ぼけたCDケースが、三つ。
「検めますかね?」
紫煙の向こうでキツネが揺れる。俺は答えない。ただ無言で、手を伸ばす。
「くっくっ、ご信用の程、感謝致しますよ」
キツネが笑う。向こう側から。辿り着く先を、見据えるように。判っている。こんなこと、いつまでも続けられるものではないと。この行いが公になれば破滅は免れ得ず、よしんば隠しおおせたとしても肉体的な破滅が待ち受ける。“こんなやつら”に頼ってはいけない。そんなことは、常識として理解している。だが――だが、書くためだ。書くためであれば、なんでもする。書くためであれば、何もかもを捧げる。俺は、書かなければならないんだ。そうだ、だから。
だから――。
「ダメです!!」
……は?
「おやおや、これはかわいらしいお嬢さんだ」
なんだ、どういうことだ?
「お客さんちょっと困るよ、この人たちはね――」
「ああいいんだ、いいんだ親父。このお嬢さんは、どうやら“身内”だ」
慌てた様子の店主を、キツネが追い返す。突然の闖入者は当たり前のようにして、そこに立っている。聞き覚えのある声。それもつい最近。それこそ、そう、つい数時間前まで耳にしていた。
――照出麗奈、なぜここに?
「それでお嬢さん、何がダメだというんだい。私らはほれこの通り、先生に頼まれて本やらなにやらを調達してきただけでさ」
「いますぐ」
らしくない、有無を言わせぬ語調。
「いますぐこのお店から、出ていってください。でなければ私、通報します」
がたりりと、吹き飛ぶように椅子が倒れた。キツネの隣で、影に徹する巨躯が立つ。
「とぉーら、やめぇ」
「しかしキツネの兄貴」
兄貴分に諌められてなお、トラは敵意を剥き出しにしていた。先程までの紳士な様子は露と消え、はちきれそうな背広の裡からその生業に相応しい暴力の気配が放散されている。トラという異名の通り、その姿からは肉食獣の攻撃性が余さず発揮されていた。しかしキツネはまるで変わらず、自分のペースを崩さない。
「言ったろう、何でも力で解決するもんじゃねえって。それにほら、よく見てみ。気丈に振る舞おうとしてその実、おっかなくてしょうがないってこの姿。震え、止まらねえんだろう? 目尻には涙なんか溜めちまって、いじらしいと思わねえか?」
「はあ……」
トラはそれでも納得いかなかったのか、威圧した空気を抑えることなく女にぶつけている。女は女で逃げることなく自らの人差し指を、銃口を突きつけるかのように握りしめた携帯へと構えている。その手、その指先は確かにキツネの言う通り緊張に微震していたものの、その屹立とした佇まいからはか弱さなど微塵も感じられはしない。そこには、確たる意志が存在していた。俺はといえば……俺はといえば未だこの状況に追いつけず、ただ傍観者の如く成り行きを漠と見続けることしかできずにいた。
「なあお嬢さん、ひとつ構わんかね」
照出は答えない。
「くっくっ、嫌われちまったもんだ。まあいいさ、それじゃこいつは小汚いおっさんの寂しい独り言だがね」
あくまでも平生通りに、キツネは煙草を吹かす。
「どうもあんたは、私のことを稼業も含めてご存知のようだ。とくれば、下手な誤魔化しは無意味でしょうな」
安閑と、急くことなく、己のリズムで話を続ける。
「ま、お察しの通りですわ。私らはイケナイ薬の売人で、今日は先生に呼ばれて品物を届けに来たってわけです。ですんで、通報されたらそりゃ、ちっとばかし具合も悪い。だがね――」
キツネが俺と照出へ、ゆるりと交互に首を振った。
「見たとこあんた、先生の新しい担当でしょう。判りますともそれくらい。あんたのことは知らずとも、先生とは“長い”ですからな。可能性をひとつひとつ潰していけば、それくらいは容易に察せるってもんです。で、それでですがねお嬢さん――」
長い、吐息。むわりと湿度の高い店内に、灰の煙が細く伸びる。それは吹き出された場所から離れれば離れるほど急速に拡散し、勢いを失って形状も失い、やがては色も失い店内の湿気が一部と消えていった。それは、実際以上に長い、長い“溜め”に感じられた。そしてキツネが、言葉をつなぐ。
「あんたは公共の正義と企業人としての責務、どちらを選ぶおつもりで?」
「私は……」
張り詰めた、声。
「私はあなたたちを、許しません……!」
「……ああそうか、思い出しましたわ」
キツネが、笑う。くっくっくっと独特な、押し潰したのどから空気だけを漏らすような笑い方で。口の端を釣り上げキツネが、屹立する照出を見上げた。
「以前にお会いした時は、喪服姿でしたな」
照出の指が、携帯に触れた。「事件ですか、事故ですか、なにがありましたか」。携帯から、応答者の声が響く。本当に、通報した。トラが飛びかかりかけた。キツネがそれを留めた。電話の向こうから、呼びかけが続く。「どうしました、もしもし、どうしました」。照出の胸が、上下していた。呼吸が乱れているのだ。照出は立ち尽くして、固まっていた。その様子を俺は、僅かに、僅かに視線を上げて、見る。のどもとを、首を、顎を越えて、口元。
照出が、唇を震わせた。真一文字に結ばれていた口が、開いた。
「……すみません、間違えました」
静寂。キツネが煙草を吸う。じっじっじっと、先端で火の粉が爆ぜる。その火が未だ消滅し切る前に、灰皿の上で焦げた葉が散った。
「ま、このまま商売という空気でもありませんし、今日の所は退散しますよ。信用第一が私らのモットーですからな」
さてトラよ、帰るかね。そう言ってキツネは、のそりと椅子から立ち上がる。……待て、おい。お前、本当に帰るつもりか。俺はまだ、ブツを受け取っていないんだぞ。アレがないと、俺は――おい、キツネ、おい。
「それでは先生、機会があればまた。小説、次は楽しみにしてますよ」
念ずる声は力にならず、夜闇の商売人であるキツネとトラは、売品である薬を携え消えていった。彼らの領分である、乾いた夜へと。
「この餃子、おいしいですね。ね、先生」
異物だ。
「毎日だとカロリー気にしちゃいますけど、たまにはこういうのもいいですよね」
こいつは、異物だ。
「先生、いらないんですか? 私、全部食べちゃいますよ?」
この店には余りにもそぐわない、異物だ。
「本当に、いらないんですか? 餃子、おいしいですよ?」
俺の、生息域においても。
「先生やせっぽちだし、ちょっとはお肉、つけた方がいいと思いますよ?」
異物。
「尾けたのか」
「ほら、先生顔は悪くないんだし、もっと健康的になれば、その……そう、そうですそうです! モテモテですよ、モテモテ!」
「尾けたのか」
「モテモテ、ですよ、えへへ……」
「尾けたのか」
「……えと、はい。尾行、しました」
「なんで」
「……」
「なんで」
「……先生が」
「……」
「その、変な気を起こしたんじゃないかと、思って……」
「首でもくくると思ったか」
「……」
「そう、思ったのか」
「先生。もう、あの人達とは会わないでください」
「……」
「先生」
「お前らが……」
「先生?」
「お前らが、求めるからだろ」
「私、たちが?」
「下劣な駄文だ」
「下劣な……え?」
「下劣な駄文だ」
「先生、その、何をおっしゃっているのか……」
「俺が書いてお前らが売りさばく、下劣な駄文だ」
「……その、もしかして、先生の小説のこと、言ってるんですか」
「あんなくだらないもの、素面で書けるかよ」
「くだらないって……そんな、先生の小説は素晴らしいです!」
「そうだろうな、そうだろう。お前らにとっては、そうなんだろう。品性の欠片もない小説未満でも、売れさえすればそれでいい。それがお前らなのだから」
「そんなこと――」
「だから通報しなかったんだろ」
「違います! 私は――」
「金づるを失ったら困るもんな。知っている、それくらい。知っているんだ、俺は。よく知っている。だからもう、邪魔をするな。書いてやる、書いてやるから。だから、そうだ、俺には――」
「先生、聞いてください、先生――」
「俺には――」
そうだ、俺には――。
「クスリが――」
「先生!!」
心臓に、衝撃を受けた。
「私、決めました」
両肩をつかまれていた。
「私が、してみせます」
強く、痛むほどに、つかまれていた。
「クスリなんかに頼らなくても書けるように、私がしてみせます!」
顔を、上げそうになった。いま、目の前にいる女の、その顔を見るために。確かめるために。すんでのところで、踏みとどまった。背けた顔のその先で、店の親父がこちらを見ていた。俺の視線に気づいて親父は、厨房の奥へと逃げるようにひっこんだ。
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