書けない、書けない、書きたくない。当然だろう。何故ならこれは、俺の書くべきモノでないのだから。こんな愚かしくくだらない、作文未満の紛い物。書けば書くほど恥の上塗りだ。こんなもの、書きたくはない。そうだ、違うのだ。俺が書くべきは、俺が本当に書きたいのは――。

『そうだね、お前の書くものは――』


「私、先生のお役に立ちたくてこの仕事を選んだんです!」

 所作振る舞いに同様、頭の軽さを感じさせる新担当の言葉はやはり調子の良い媚びへつらいに塗れており、その一挙手一投足が癇に障り早くも苛立ちはピークを迎えつつあった。しかも聞くところによればこの女、今年入社したばかりのド新人だというではないか。当然他の作家を担当した経験もなく、常識もなければ能力も足りていない。高良の野郎、何が優秀だ。厄介払いでもするつもりか。だったら他でやれ。押し付けるな、俺に。

「先生、なにか手伝えることはありませんか?」

 聞くな、触れるな、自分で考えて自分でどうにかしろ。お前なんかに構っていられるほど俺は暇じゃないんだ。そうだ、俺は書かなければならない。書きたくもないものを書かなければならない。書きたくもないものをどうやって書くか考えなければならない。暇などないのだ。無限に時間を費やしたとて、進捗など毫に等しく皆無なのだから。ただの一文字とて、思い浮かびはしないのだから。故に俺に、暇などない。無駄な時間はない。ただしそれは、無為といって相違はあるまい。俗欲塗れな愚人の無為に。それでも書かなければならない。俺は、書かねばならない。

『悲しむことじゃないさ。それはお前の――』


「それに触るな!」

 突き飛ばす。女を。引き剥がして、取り返す。『俺の木』。勢い余って、鉢が傾く。内側の土が転がる。塵と埃の堆積したバルコニーに、少量散らばる、土、土。塵と埃と土とが斑に、無機なコンクリートの青を覆う。心の中で舌打ちしつつ、『俺の木』を抱えて部屋へと入る。

「雨が」

 女がつぶやいた。

「雨が降り始めたから、取り込もうと思って」

 言われて、空を見る。女の言う通り空には重く黒い雲がぐろぐろと蠢き、飴玉のような水滴をばちばちと眼下の地上へと打ち付け始めていた。予報では、もう一、二時間後のはずだったが。確かめる。軽く湿気を帯びてはいるものの、『俺の木』に濡れた様子はない。葉だけではなく幹も、根にも異常はなさそうだった。とはいえこいつは繊細だ。明日はバルコニーに出さないほうがいいかもしれない。

 バルコニーから、笑い声が聞こえた。

「あ、ごめんなさい」

 言いながらしかし、その声には喜色が漂い。

「『これはぼくの木。ぼくの木なんだ』」

 強く雨に打たれながらも、露と介さず悦ばしげに。

「『太陽を見上げた狼』の、風謡いのフラギみたいだなぁなんて思っちゃって……えへへ」

 俺の書いたものを例と挙げて、如何にも楽しそうに。笑う。笑う、顔。見えてはいない。見なくとも判る。しかし……しかし、僅かに視線を上げればそこに、想像ではない確かな表情が実在している。認識できる。僅かに視線を上げれば。上げてさえしまえば。

 俺は――。

『だからね――』

「先生?」

『お前はお前を――』

 ――ダメだ。

「先生、どうしたんですか? 先生?」

 どこにある。どこにしまった。家の中をひっくり返す。棚の中を、机の後ろを、時計の裏を、床の下を。ない、ない、どこにもない。使い切ってしまったのだろうか。使い切ってしまったのだ。以前に。前回、前の本の時に使い切ったのだ。次は頼らぬと、もう必要ないと、意識の外へと葬ったのだ。でも――ダメだ。“アレ”がないと。“アレ”を手に入れないと、このままでは俺は、俺は――。

「先生!」

 肩に、熱。人の手。動悸が止まる。瞬間、冷静になる。「先生」。女の声。不安を帯びた。懐の携帯。既に我が手の先に触れたそれ。バカか、俺は。なにをしている。なにをしようとした。判るだろう、この程度のこと。いまここで使うのは、我が破滅を招くことくらい。そしてそれは即ち、我が成すべきの瓦解を……。そうだ。今ここで、真っ先にすべきは――顔を合わせぬまま、告げる。

「帰れ」

「先生、でも――」

「帰れ」

 痛みを伴う乾いた呼吸。やがて、肩に触れていた熱が離れていった。女が、離れていった。ぎぃぎぃと、フローリングの硬い床が軋む音。こすれる音。右往左往する人の気配。不必要な所作を感じさせるそれは、しかして遂に、宅の入り口にして出口でもある場所へと到達する。かたこんと、下ろした鍵が上げられる。

「何かあったら、いつでも連絡ください。何時でも私、出ますから。絶対に、出ますから」

 扉は、中々開けられなかった。俺は返事をしない。壁を越えて突き刺さる視線。それが、切れた。遠慮がちにきぃと開かれた扉から、外気と風雨の喧騒が滑り込む。それも、一瞬。訪れるは、再び静寂。

 腰を上げた。上げられた鍵を、元の姿へ下ろす。下ろす。目玉の表で、のぞき窓に触れる。誰も居ない。隣人も、女も。見える限りは。そして俺は、のぞき穴に顔を接触させた格好のままずりずりと身を崩し、扉を背にして座り込んだ。座り込んで、取り出した。懐の、携帯。掛ける先は、履歴の上から三番目。

 相手を呼び出す無機質なコール。そのけたたましくかつ刺々しい音に頭の中を撹拌されながら俺は、天井を見上げる。天井から吊り下げられたそれを。首をくくったその人を。俺を見下ろすその人を。砕けた頭部を。無間の洞を。その奥にて仄見える、青白く腐敗した太陽の――その、残滓を。

 先生、先生、ぼくは、先生――。

『――人々が、お前の小説を待っているのだから』

 ……そうだ。ぼくは、書くんだ。

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