前半

照出てるいで麗奈、二五歳です! レナって呼んでください!」

 ぐいっと視界に潜り込んできた衣服から目を逸らし、舌打ちをする。編集長の高良が連れてきた新しい担当の、そのきんきんと耳障りな声に苛立ちが募る。レナ? レナと呼べだって? 何様のつもりだ、馴れ馴れしい。誰が呼んでなどやるものか。目の前の女から目を背けたまま、俺はそう、固く誓った。絶対、呼ばねぇ。

「……嘉多広かたひろ先生?」

「高良」

「はいはい先生、なんでございましょう?」

 軽薄で無遠慮な、気色の悪い猫なで声。こいつの声を聞くと、いつでも吐き気がする。

「いらないと、言った」

「えぇえぇ、それはもちろん存じ上げておりますとも。しかし余計な雑事を取り払い、先生のために執筆環境を整えるのも私共の仕事でございまして。ましてや最近先生は、些か筆の進みが鈍っているとお聞きしましたから。……いえいえもちろん、先生の原稿を頂けるなら私共、いつまででもお待ちする心積もりでございますが」

「判ってる」

 判っているとも。お前らが俺のことを、金を生む鶏程度にしか思っちゃいないことくらい。

「えぇえぇもちろん、先生のことは信じておりますとも。ですのでこの照出は私共のほんの気持ち、家政婦にでも荷物持ち代わりにでも好きなようにお使い頂ければ。なに、こう見えて照出は優秀な編集ですよ。なにより若くてエネルギッシュですしね」

 手を揉みながら、高良が肩を寄せてくる。思わず身体が引く。しかしそれを追跡するように、高良は自らの頭を俺の耳元へ接近させてきた。

「それにほら、先生だって女の子の方がやる気でますでしょ」

 ささやくように耳の奥へと流し込まれた卑俗な文言。視界が隅に捉えしにやけた口の端。……下劣。余りにも。本当に気持ちが悪い。所作の全てが耐え難い。勢い身体をよじり切って、背中で拒絶を明示する。乾いた笑いが背中を打った。ああそうさ、面倒だとでもなんとでも思っていればいい。それで丁度、お互い様だ。

「ほら照出くん、ぼうっとしてないで君ももっとアピールしなさい」

 偉そうな声での命令。はんっ、今度は部下への転嫁か。

「はい! ……編集長、アピールって何をすればいいんでしょう?」

「そんなこと、予め考えておきなさいよ!」

 オカマ野郎がきいきいと、傲岸不遜に喚き出す。どこまでも醜い。初めて出会ったあの時から、まるで変わっちゃいない。俺が作家となったばかりの、あの頃から。

 高良に連れてこられた女は入室時の威勢はどこへやら、はいはいはいと社会人らしいその場しのぎの返事を繰り返すことを強要されている。不憫と言えば不憫だ。こんな保身と出世欲がそのまま這い回っているような男の部下になってしまったのだから。これ以上の不幸もそうありはしない。けれどこれも、結局の所はポーズだろう。哀れを誘って居たたまれなくさせるためのポーズ。知っているんだ、お前の手口は。同情など、するものか。……同情は、しないが。

「……『煙火の断頭』」

「え?」

 どうせ断っても、埒が明かない。折れるのはいつも通り、俺の方だ。だったら――。

「『煙火の断頭』は、読んだか」

 少しでも知っておいた方が、懸命だ。

「あ……は、はい! 『煙火の断頭』! 読みました!」

「どう感じた」

 これから側をうろつくネズミが、どの程度のものなのか。

「私には、そのぅ……」

 どの程度の、害獣なのか。

「ちょぉっと、むつかしくって。えへへ……」

 笑い声。誤魔化すような、情けのない。見なくても目に浮かぶ。不誠実に歪んだ、その顔。唾棄すべき小人の処世術。だが、構いやしない。初めから、期待などしていなかったのだから。

 判った、勝手にしろ。背中を向けたまま、俺はそう、言おうとした。言おうとしたのだ。しかし言葉は、直前に掻き消された。

「――でも!」

 鋭い、“でも”。

「『太陽を見上げた狼』は、大好きです!」

 “でも”に続いた、言葉。

「何度も……何十回も読み返して、今でも読み返してしまうくらい、大好きなんです」

「……へぇ」

 理解を示す返答をしておきながら、俺の心象は先程よりも波立っていた。

 あ……、と、声が漏れた。気配を、感じた。見上げる。目の前にあるもの。『俺の木』。『俺の木』から、垂れ下がっているもの。吊るされているもの――“その人”と、視線を、交わす。


『おまえはわるくないよ』


「せ、先生! どうされました!」

 慌てふためいた高良の声。立ち上がっていた。立ち上がって、見上げていた。そこにはなにもない。何も見えない上空。視線を下ろす。腰の高さ程度しかない、『俺の木』。自重によってやや左へ曲がっているそれ。吊るされているものなど当然ない。そこにはもう、誰もいない。誰も。誰も。

 先生。

 背後で高良が、部下を叱りつけていた。部下の言葉が俺のへそを曲げさせたとでも思ったのか、他者を責めることでノミの心臓を鎮めようとしているのか、はたまたその両方か。どうでもよかった。高良のことなど、どうでもいい。考慮すべきは、唯一つ。裁定は下された。照出麗奈――この女は、信用に値しない。

 こいつもやはり、“編集”だ。

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