一三匹

 一ヶ月間はうめき続けた。ただれた皮膚は呼吸も汗も機能せず、ただ横になって生きることが苦痛を伴う重労働と化していた。まともに眠ることができず、睡眠と覚醒はその境界を曖昧とし、現実か非現実か判らないそこで幾度も幾度も悪夢を見た。何を見たのかは覚えていない。ただ、見たことだけは覚えている。失われた皮膚の感覚が、駆けずるなにかを覚えている。内と外から駆けずるなにかを。まるで現実で起こったことだと訴えるかのように。ノイローゼであると診断された。薬を飲むと、多少は楽になった。

 この苦しい時期を経て、ひとつき。この頃には自力での歩行も可能となっていた。痛みに支配されていた思考が退屈を持て余し、穴だらけの記憶の瑕疵を埋めようと躍起になっていた。『ブレクエ』を作っていたのは間違いない。どうして放火紛いの凶行に走ったのか、思考は結局役立たずに終わった。医師も同僚もなーちゃんも、過重労働によるノイローゼだと断じた。納得しきれなかった。何かが納得を阻んだ。けれどその何かの正体を、ぼくはつかめずにいた。つかむことを、拒んでいるようにさえ感じた。

 そうして二ヶ月。退院の許しを得てぼくは、なーちゃんと一緒にぼくたちの家へと帰った。


「ねえソウジ。聞いてくれる?」

 何をしたらいいのか判らなかった。自分の家。なーちゃんの家。ぼくたちの家。この家でぼくは、これまでどうして暮らしてきたのだろう。家とはただ眠るための場所で、なーちゃんが待っていてくれる場所で、住むという行為がぼくにはよく判らなかった。何かをしていなければ落ち着かなかった。けれど何をすればいいのか判らなかった。なーちゃんに聞いてみた。抱きしめられた。桃の香りに包まれて、ひとつ思いついた。

「私、ソウジが好きよ」

 押し入れの奥から、年代物となった黄ばんだスーパーファミコンを引っ張り出す。ディスク型が主流となった現代のゲームに比べ厚みのあるパッケージから、説明書の下に封じられた内容物を抜く。灰色のボディにゲームの内容を示すテープが貼られたそれを、スーパーファミコンに差し入れる。電源を入れる。

「やさしくて、責任感が強くて、時々甘えん坊になっちゃうとこもかわいくて……愛おしくて。そんなソウジが好き。ずっと前から、ずっと好き。……でも、“だから”好きってわけじゃないの」

 シリーズ恒例のオープニング曲が流れ、暗転し、セーブデータを選ぶ画面が表示される。データはすべて消えていた。選択肢のない『はじめから』を選択する。名前の入力を促される。入力する。勇者の名前が決まる。ゲームが始まる。ぼくの分身が、映される。

「気を使ってくれるから好きなわけじゃないの。ゲームを作ってるから好きなわけじゃないの。好きって言ってくれるから好きってわけじゃないの。何かを与えてくれるから好きなんだって……そういうことじゃ、決してないの。ソウジ、私はね」

 なーちゃんがいた。隣にはなーちゃんがいた。ぼくにも、ゲームの中のぼくにも、その隣にはいつもなーちゃんがいた。イベントも、ダンジョンの構図も、どんなボスモンスターが待ち構えているのかも全部知りながら、何も知らないかのようにああでもない、こうでもないと進めていった。隣のなーちゃんとゲームを進めた。なーちゃんがいない時は一人でレベルを上げた。延々と上げた。時々セーブが消えた。『はじめから』また、なーちゃんと進んだ。

「貴方が好きだから、貴方が好きなの」

 好きな人と、進んだ。

「好きだから、幸せなの」

 幸せだった時のように、幸せに。

「……ねえなーちゃん」

「……なに?」

「結婚してくれる?」

「……ばか。だめだって、言ったじゃない」

「ん」

 彼女を見つめる。ゲームの中のぼくが、彼女を見つめるように。魔王を倒すよりも特別な、人生最大の告白をするために。ゲームの中の彼女がぼくを見つめるように、彼女もまた、ぼくを見つめる。言葉を待つ。ずっと、ずぅっと、待たせた言葉を。


「あの約束の丘で、ぼくと結婚式をあげてくれませんか」


「私、お買い物に行ってくるわね!」

 頬を赤らめた彼女が、転げそうになりながら家を出て。一人になって、思いふける。こんなにも当たり前で簡単なことを、ぼくはどうして躊躇っていたのだろう。ぼくは一体、何を気負っていたのだろう。

『ブレクエ』の象徴が刻印された、焦げたジッポライター。それを手に取り、火を灯す。小さな炎の、小さなゆらめき。暗闇を照らす焔のきらめき。光。けれど、そんなものに頼る必要はないのだと気づく。夏は過ぎさり秋香り、冬の風は木枯らしに。分厚い大気に遮られ、差し込む陽光は強くない。ああけれど、これで充分あたたかい。

 なんだかすこぶる暖かかった。桃色毛布にくるまって、彼女と一緒に寝た時くらいに。暖かくて、眠たくて、安らぎとはこういうことかと、ずいぶん久しぶりに思い出せた気がした。蓋を閉じて、ジッポを置く。光はもうある、熱もある。だからいまは、必要ない。これからのぼくには、必要ない――。


 振動音で、目が覚めた。携帯が光っている。メッセージ。土家からだ。開く。添付された画像。見たことのない――いや、よく見知った、誰よりもよく見知っていたはずの、その絵。よく見知ったその絵が、昔に比べてスリムとなったケースにパッケージされて、まるでそう、まるで既に販売されているかのようにパッケージされて、パッケージされて――。

 テレビの画面が消えていた。電源を入れ直した。オープニングが流れ、暗転する。セーブデータは消えていた。『はじめから』が表れた。ジッポを握りしめていた。

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