一〇匹

 髪を切った。会社の洗面所で切った。自分で切った。誰かに任せる訳にはいかなかった。つたり渡ってくるかもしれない危険性を思うと、任せられなかった。髪を切った。ほとんど坊主になるまで切った。髪の中に潜まれると厄介だと思った。だから切った。不安材料がひとつ減った。

 体毛を剃った。もれなく剃った。虫の足、足の側面に生えた棘に似ている気がしたから剃った。あれらの足のように駆け回るのが見えたから剃った。不安材料がひとつ減った。

 ジッポライターは捨てた。ひとつだけ残し、後は全部捨てた。並べた影に潜まれる気がしたから捨てた。ボディの内側で繁殖している気がしたから捨てた。必要なのはひとつだけだと気づいたから他は捨てた。そのひとつだけが光と感じたから他は捨てた。不安材料がひとつ減った。

「な、なあソウジ。お前もどうだい、一緒に飲もうぜ」

 日山がタピオカを飲んでいた。ずるずると啜って飲み込んでいた。あれ以来はまっちゃってと頭を掻いていた。タピオカを飲んで、タピオカを差し出してきた。差し出されたそれを見つめた。黒い虫がうぞうぞと泳いでいた。細い足を壁面に立て、こちらに来ようともがいていた。じたばたじたばたもがいていた。ぼくは答えなかった。何も答えなかった。応える余力がぼくにはなかった。気づけば日山は去っていた。

 食事には気をつけなければならなかった。包装された惣菜パンでも、割ればそこに混入していた。即席ラーメンもお湯を注げば、底の方から浮き上がった。缶詰だろうと同じだった。やつらはいつでも狙っていた。潜り込む機を狙っていた。内に潜って食い荒らす日を、やつらはいつでも狙っていた。喰われるわけにはいかなかった。喰われてしまえば、作れない。ぼくらのゲームを、作れない。『ブレクエ』を、作れない。

 透明なものが好ましかった。ゼリーのように中身の透けた、観察可能な栄養食品。混入はしていた。混入はしていたが、食べる前に気がつけた。食べる前に気がつけたから、不安材料がひとつ減った。濁った飲料もすべてやめ、結局は無色透明な水に落ち着いた。ペットボトルのフィルムを剥がして、無害な水だけに口をつけた。不安材料がひとつ減った。

 時折夜中に火をつけた。ジッポをこすって火をつけた。点けたその火で彼女を描き、自分の気持ちを確かめた。不安はもう、どこにもなかった。後は仕事をして、仕事をして、仕事をする。それだけだった。

 そうして期日の三日前。

 我らが『ブレクエ』開発チームは、この一ヶ月のデータを喪失した。


「ねえ……どうしてくれるのさ、ねえ。聞こえてるよね? ぼくの声、聞こえてるよね? ほら、ねえ、黙ってちゃ判らないじゃないか、ねえ、ねえ……答えろよ朝田!」

 厚い眼鏡のその奥で、涙を湛えた朝田が唇を噛む。唇を噛んでいたら、声は出せない。だからぼくは、また詰める。どうしてくれるのだと、詰問する。朝田はやはり、答えない。

 発端は、朝田が自作したとかいうソフトだ。作業の効率が格段に上がるとか自慢して、社内中のパソコンに導入したそれ。物の見事にウイルスだった。自作というのも真っ赤な嘘で、真実はネットの怪しげなサイトでダウンロードしたということだった。時限爆弾のように潜伏し続けたウイルスは、最悪のタイミングで同時多発的に爆発し、復元可能な期日以降の――即ち一ヶ月前以降のデータのすべてを喰い尽くした。この一ヶ月のデータは、もれなくすべてが喰われてしまった。

 さあこれで、どうして期限に納められる。

「もういいだろ、言い合ってたってデータがもどるわけじゃねえしよ。リョータだって反省してるって。な、そうだよなリョータ?」

 日山。日山が朝田の肩を持つ。へらへら笑って、なかったことにしようとする。朝田は何もしゃべらない。肩を組んだ日山に押され、謝罪の形に腰を折る。「申し訳ありませんでしたァ!」と腰を折って、日山だけが謝罪する。日山が頭を上げた。この場はこれで収めてくれと、ウインクで語っていた。

「よーし、そうとなったらコイちゃん三徹かましちゃうぞー? 七二時間戦っちゃうぞー? 七二時間戦えますか? はいみなさんご一緒に! ビジネスマ~ン、ビジネスマ~ン!」

「……私は悪くない」

 日山の歌う妙な歌が、止まった。

「お、おい朝田」

「私は悪くない……悪いのは私じゃない。悪いのは……悪いのは春日井氏、あんたです!」

 朝田の指が、ぼくを指した。

「誰も言わないならぼくがいいます。あんたのやり方にはね、みんなが迷惑してるんですよ! 二ヶ月を一ヶ月にだなんて、そんなの間に合うはずないじゃありませんか!」

 涙がこぼれるその目には、憎悪の色が滲んでいた。

「やめろって、おい、なあ朝田」

「それを少しでも、ちょっとでも間に合うようにしようとしたんですよ。役に立ちたかったんですよ。判ってますよ、私なんかいてもいなくても同じような下っ端だってことくらい。だからこそ少しでも役に立とうとしたんですよ。それがそんなに悪いことですか」

 黒く、滲んでいた。

「頼むからよぉ、もう、なんで……」

「みんな苦しんでたんです。苦しんでたんですよ。あんたに合わせて、不眠不休で。それをなんですか、あんただけが苦労を背負っているみたいな顔して!」

 ああそうか、だからか。

「なんで楽しくできねぇんだよぉ……」

「あんたはなんにも見ちゃいない。自分のことばかりで、チームのことなんか考えちゃいない。あんたに上に立つ資格なんかない。あんたに、あんたなんかに――」

 虫だから、邪魔をするのか。じゃあ――。

「あんたなんかに『ブレクエ』を作る資格はない!!」

 駆除、しないと。


「あ、ああ! 目が、目が!!」

 準備していたんだ。虫が出たら、殺すって。強力な殺虫剤を準備しておいたんだ。殺してやる。一本全部使い切って、動かなくなるまで苦しませてやる。動かなくなっても苦しませてやる。苦しませて、苦しませて、殺してやる。もがいている。虫がもがいている。仰向けになってめちゃくちゃに、膨らんだ腹部を顕にして、手足を振ってもがいてる。ふふふ。苦しんでる。ふふ。死んじゃえ。死んじゃえ。ふふ。ふ。ふ。

「おいバカやめろ!」

 突き飛ばされた。殺虫剤が手から離れた。転がった。手を伸ばした。拾われた。日山が拾った。日山が首を振っていた。真剣な顔でぼくと――ぼくの背後を交互に見た。そこに人が転がっていた。朝田が転がっていた。虫はいなかった。もがいていたのは、虫じゃなかった。

 ぼくは、何を。

「……日山、みんなに伝えて」

 見下ろす日山に向かってぼくは、かすれた声で言伝を送る。何事かと集まるみんなのざわめきが、ぼくのかすれた声をかき消す前に。

「今日はみんな、帰ってくれって。帰って、休んでって」

「……お前はどうすんだよ」

 ぼくは答えなかった。何も答えなかった。応える余力がぼくにはなかった。

 気づけば日山は去っていた。

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