八匹

 虫。

 虫。虫。虫。仕事。虫。

 虫。仕事。仕事。虫。虫。虫。仕事。

 虫。虫。仕事。虫。仕事。虫。仕事。仕事。仕事。仕事。

 虫がいる。虫が見える。虫がいる? 見える。虫は見える。部屋の隅に。洗面台に。デスクの隙間に。寝袋の中に。背もたれに。足元に。資料の間に。天井に。給湯器の裏に。便器の底に。画面の上に。照明の前に。暗闇の奥に。暗闇の奥に。見える。虫は、見える。見える。

 だからなんだ。

 花香さんから電話があった。心配されているようだった。どこかの誰かがまた一人、倒れただとかなんとかで。「私も上に掛け合ってみますから」。期限の延期を打診された。なんとかしてみせると、切羽詰まった声で仰っていた。繰り返し心配された。その気持ちはありがたく受け取りしかし、提案は丁重にお断りさせて頂いた。受ける必要がなかった。なぜならいまが、ベストなコンディションなのだから。


「あ」

 資料が不足していた。資料室に向かった。並べられた棚の中に並べられた資料を引き抜き、手の中に並べていく。土家がいた。小さくつぶやいた土家が、ぼくを見ていた。見ているのが感じ取れた。ぼくは何も言わなかった。資料が不足していた。だからそれを集めた。集めて並べた。

 虫がいた。視界の端で、走っていた。気にせず資料を引き抜いていく。感じない。何も感じない。麻痺しているから。怒涛となって押し寄せる時間が、感情を麻痺させてくれているから。

 麻痺するくらいで、ちょうどいいのだ。麻痺しているから、鋭敏なのだ。余裕があると、余計なことまで目に入る。無用な感覚まで呼び覚まされる。まともな意識で、どうしてこの光景に立ち向かえるものか。虫、虫、虫の。虫、虫の。虫が駆け、虫が跳ね、虫が踊り狂うこの世界で、どうしてまともでいられるものか。だから、いいのだ。変に猶予を得てしまうより、感覚を開く時間を得るより、忙殺の集中で麻痺を得るほうが、ずっとずっと有用だ。ずっとずっと、正気でいられる。

 虫がいる。虫が見える。虫がいる? 見える。虫は見える。だからなんだ。見えるからなんだ。見えるだけだ。ただそこに見えるだけだ。駆けているのが、跳ねているのが、踊り狂っているのが見えるだけだ。それだけのことだ。気持ち悪いとか、悍ましいとか、麻痺さえすれば、感じずに済む。感じなければ、これらは無害だ。ただそこにいるだけの、勝手に存在しているだけの、ただそれだけのただの虫だ。ただの虫。そう、ただの虫。虫。虫。虫より、仕事。『ブレクエ』。

 ぼくたちの、『ブレクエ』。

 棚の奥で、蠢く二本の触覚が見えた。その先端で何を感じ取っているのか、静止も知らずに揺れている。揺れろ揺れろ、勝手に揺れろ。ぼくには関係ない。お前らなんて知らない。何を考えているかなんて、何を求めているかなんて、ぼくは知らない。“声”なんて、聞こえない。手を伸ばして、資料をつかんだ。虫が寄ってきた。気にしない。虫の先端が触れた。感じない。虫が乗ってきた。見えない。虫が鳴いた。聞こえない――聞こえない。

 聞きたくない。

「いづっ!?」

 手の甲に、灼熱。なに。痛み。それに音。みちみちと、裂けるような。なに、なんだ、なんだ。痛みが、“昇ってくる”。手の甲、開いた穴、そこから、浮く。皮膚が、ぼこりと、浮いている。血管のように浮かび上がった皮膚下の路が、手首から肘、肘から肩に向かい、現在進行系で開拓されている。抉られている、肉が、何かに、それに。虫に。

 虫に、喰われる。

「うわ、あ、ああっ!!」

 めちゃくちゃに叩いた。肩を、脇を、胸を。痛みが走る場所を、服の上から何度も叩いた。痛みは止まらなかった。痛みは全身を駆け巡って、神経は千切られて、いまそれがどこにいるのかもはや理解できなかった。叩くしかなかった。叩き続ける以外にできることなど何もなかった。めったやたらに叩きまくった。叩いた。叩いた。痛みが止んだ、そのことにも気づかぬまま、自分で自分を叩き続けた。

「春日井!」

 土家がいた。土家に呼ばれて、痛みが止んだことに気がついた。それを潰せたことに気がついた。潰したそれが、皮膚の下に埋まっていると気がついた。気持ち悪い。気持ち悪い、気持ち悪い。ダメだ、これは、ダメだ。耐えられない。掻き出さないと。全部掻き出さないと。全部、全部、掻き出さないと。気持ち悪いものは全部、ぼくの中から排除しないと。

 病を身体から、取り除かないと。

 手の甲の穴。引っ掻く。抉る。手首から肘、肘から肩、肩から脇に胸。胸は、見えない。見えなきゃ、掻き出せない。脱がないと。脱ぐ。脱げない。もどかしい。ボタン。引きちぎる。破る。見える。身体中、それの通った路で盛り上がっているのだ、見える。吐き気がする。掻き出さないと。一刻も早く掻き出さないと。爪を立てる。掻く。皮膚が凹む。いない。落ちない。毟っていく。取れない。見つけられない。ぼくじゃ見つけられない。ぼくじゃ。

「土家……土家、土家、土家!」

 土家をつかんだ。つかみかかった。土家と叫ぶ。ほじくり出してくれ、ひっかきだしてくれ。言葉にならないそれらの希求を、「土家」の叫びに集約する。このままじゃダメなんだ。このまま腐れば、腐ってしまう。皮膚も肉も腐ってしまう。管を破って血に乗られ、“ぼくらの子どもを成せなくなる”。

 おかしくなる。おかしくなってしまう。おかしくなってしまったら、だっておかしくなってしまったらぼくは土家『ブレクエ』が作れなくなる!

 だから、なあ、土家、土家!


「ありえないんだけど。マジで。マジありえない」

 尻もち付いて、頬を抑えた。

 見下す視線。いつにも増して、強く、鋭く。解けかけたマフラー。呼吸と共に、揺れる。荒く、揺れる。伸ばされた手。手の先。分厚く重い、革の手袋。細かに震える、手袋越しにも見える指先。あの指先に、はたかれたぼくの頬。熱い。熱く、痛い。痛い、痛いが――痛むのは、ここだけ。

 身体を見下ろす。引っかき傷だらけの肉体。無造作に充血した、皮膚の表面。じわりと浮かぶ、自傷の痕跡。戦いの証明。……それだけ。残されているのは、それだけ。

 なかった。どこにも、そんなものはなかった。あれがぼくを食い破った痕など――盛り上がった皮膚の痕など、どこにもなかった。食い破った虫も、食い破られたぼくも、そんなもの、すべて、ここにはなかった。そんなことはここで、起こってなどいなかった。

「君は」

 マフラーが揺れる。

「土――」

「君は、消耗品だ」

 震える手が、マフラーをつかむ。

「いくらでも交換の利く消耗品。ぼくでも、コイフミでも、君の代わりなんていくらでもいる。誰でもできる」

 震えたままで、マフラーを巻き直す。

「君がいなくたって、困らない。ぼくも誰も困らない。身体を壊したって、頭をおかしくしたって、知ったことじゃない。そんなの知らない。ぼくたちは知らない。君じゃないといけない人なんて、ここにはいない。誰もいない。いない。……けど」

 中学生にも間違われる童顔が、マフラーに隠れる。

「待ってる人なら、いるんでしょ」

 くぐもった声がマフラー越しに、震えて響く。

「今日のことは誰にも言わない。言わないけど……けど、よく考えて」

 小柄な身体を震わせて、土家はそのまま出ていった。座ったままの格好で、出ていく彼をぼくは見ていた。声をかけることも、立ち上がることも、いまのぼくにはできなかった。力が入らなかった。散乱した資料を目で追い、けれどそれに手を伸ばすこともできなかった。何もできないまま、反芻していた。土家の言葉を、反芻していた。

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