七匹

 見られている気がする。誰に? 判らない。

 囁かれている気がする。何に? 判らない。

 狙われている気がする。本当に? 判らない。

 疲れているのだろうか。それはそう、その通り。疲れていない、訳がない。地獄の一ヶ月が始まってから二週間、社内から一歩も外に出ていない。昨日は寝ていない。一昨日も寝ていない。三日前は、少し寝た。た春日井、二時間くらいは。それよりも前は、どうだったか。思い出せない。こんな生活を続けて疲れが抜けるはずなどなく、それは当たり前の帰結として肩・腰・目元に返ってくる。

 それに、責任もある。係る責任に準じた重みも。上にも、下にも、発売を楽しみに待つお客様に対しても。『ブレクエ』という看板。その看板に見合った仕事ができているのかという不安は、いつだってつきまとう。「これでいいのだろうか」は絶えず頭を駆け巡るし、「おもしろいってなんだっけ」の混濁も日常茶飯事。

 そうした疑念と焦りを抑え込みながら目の前のタスクを攻略していくのは常の恒だが、今回はそこに極限の疲れをぶち込んで、肥大化したプレッシャーに参りかけているのかもしれない。不安を気配に、焦りを声に、混濁を視線に誤認しているのかもしれない。おそらくはそうなのだろう。すべては心と疲れのまやかしなのだ。まやかしの正体は、遠目に眺めた枯れ尾花なのだ。この感覚はきっとそれ、ただそれだけのことなのだ。

 けれどそれは、果たして本当にそれだけだろうか?

 判らない。


「ソウえもぉ~ん、ラーメン食べに行こうよぉ~!」

「……一人で行っておいでよコイ太くん」

「やだいやだい! 一人飯なんてそんな寂しいの、ぼく耐えられないやい!」

「……フタ香ちゃんは?」

「『ギトギト嫌いって前も言ったけど』ですって」

「……しょうがないなぁ」

「やったー! ソウえもんだぁ~いすき♡」

「この茶番いつまで続けんの?」


「いまさら君を責めるつもりはないよ。あの子は母親に似て、とても頑固だからね」

 虫喰われ。

「こんなに小さな頃から知っている君のことだ。きっと娘を大切にしてくれると信じている。けれどね――」

 この人もまた、虫に喰われた。

「もう、君しかいないんだ」

 身体の中をめちゃくちゃに、黒い影に喰い荒らされた。

「私がいなくなったら娘はもう、君に頼るしかなくなるんだ」

 もはやもう、手の施しようがないほどに。

「神様は残酷だ。どうしてあの子ばかりをこんな目に遭わせるのか」

 彼の妻と同じように。

「私はただ、あの子に幸せになってほしいだけなのに」

 ぼくの“子ども”と同じように。

「幸せに」

 幸せに。

「だから君、約束を」

 はい。

「あの子のために、生きてくれ」

 はい、お義父さん。

「あの子のために、愛してくれ」

 はい、お義父さん。

「あの子のために、死んでくれ」

 はい、お義父さん。

「……そうか、よかった。これで安心だ。よかった、よかったなぁ」

 ……。

「……ああ、それでも人並みに」

 …………。

「子を持つ幸せを、教えてやりたかったなぁ――」

 ………………はい、おとうさん。


 おやすみなさい、おとうさん。


 油の臭気が濃厚な店内。呪文のようなコールを受けた隣の客が、もやしと油とにんにくをこれでもかと山盛りにした器を受け取り、貪るようにがっついていく。耐えられるだろうか、胃。とりあえず食べられるものを放り込むような生活を続けた胃には、少し重すぎる食事なのではないかといまさらながらに不安を抱く。同じような生活を続けているはずの、隣の日山を見る。彼のテーブルには大盛りを示す食券が置かれ、ついでにチャーシューも上乗せするつもりらしかった。この、痩せの大食いめ。

「そいえば俺さ、作っちゃったんだよ、作ってもらっちゃったんですよついについに!」

「何を?」

「ふふふ……当ててごらぁん?」

「そういうのいいから」

「んぬっふふふ、いまの俺は無敵だからその程度のイケズ、致命傷にしかならないぜ……! はいドラムロールスタート! 俺が作ったのはぁー……」

 どるるるる……と、日山が口でドラムロールを鳴らす。サラリーマン姿の客たちが、白く冷たい視線を投げかけているのが判った。他人の振り、今からでもしようかな。半分本気でそう考えている間に、日山の方が早く「でんっ!」と答えを口にした。

「勇者の剣!」

「……『ブレクエ』の?」

「そう、『ブレクエ』の!」

 椅子に座りながら日山が、剣を掲げるような仕草を取る。見えないはずの切っ先を目視しながらぼくは、理解が追いつかないままにぼそりとこぼす。「マジ?」。

「マジマジマジのマジもんよ! 振るって払って魔王を倒せる、マジで『ブレクエ』の勇者の剣!」

「え、よく飲み込めてないんだけど、本気で作ってもらったってこと? 剣を?」

「いっえーす! ま、さすがに刃はついてないけどさ、でもマジすっげーんだって! 伝統工芸だとかで仕事してるモノホンの鍛冶職人にさ、ダメ元で特注依頼したんよ。そしたらオッケーもらってさぁ!」

 マジ超精巧でさぁ。鍔んところの宝石とか、殆どそのまんまの再現してくれるみたいでよ。上機嫌で話し続ける日山に気圧されながら、どうしても気になったことをぼくは聞く。その拘りはすごいけども、でもお高いんじゃないの?

「諸経費諸々一切合切コミコミで……バシッと一括三〇〇万円なりぃ!」

「さ……!?」

 ぼくが息を呑んだのと同時、店内がにわかにざわめいた。こいつ、なんて言った? 三〇〇万? 剣のおもちゃに?

「届くのはまだ先なんだけどさ、でも私ぁね、いまからもう楽しみで楽しみで……たぎる!」

 へぁとかとぅあとか気の抜ける掛け声を発しながら、日山が素振りの真似をする。それはもう、純真な子供の瞳を輝かせて。……野暮かもしれないな、あれこれ言うの。浮かびかけた常識的な発言を飲み込み、気分を上げて背中を叩く。

「気分良く迎えられるよう、お仕事がんばろうね」

「やんやんお仕事やぁん」

「バグだしたら取り上げんぞ」

「剛田さんいやぁん!」

 ラーメンが出来上がる。山盛りの器にはしゃぐ日山のそれの、おそらくは半分にも満たない器を受け取る。匂いをかぎ、スープを飲む。これならなんとか、食べ切れるだろう。食べて、元気をつけて、再び仕事にもどるのだ。

 日山は剣を、生きる活力とした。ぼくも同じだ。生きる活力を得て、仕事に向かう。エネルギーが枯渇しないようにするのは大事なことだ。食事も、趣味も、愛も。大切なことを、元気に変える。病んでなどいられない。こいつを食って、凝った身体を解したら、ぼくももう一踏ん張りしないとな。気分を改め、麺をつかんだ。引っ張り上げた。

 箸を放った。

 黄金色の麺。麺に絡んだ異物。黒色の。それが、二匹。後尾を重ねて結合し、油の上で水掻くそれら。震える油。震える麺。震える虫、虫。

 それで。

 黒い粒が、浮いてきた。

 黒い粒が、次々と浮いてきた。

 次々と、次々と、次々と、浮いてきた。

 油に、混ざって、混ざり合って、一杯に、一杯に、浮いてきた。

 浮いたそれが、割れた。

 割れた。割れた。

 割れて、割れて、中身が。

 うじゃうじゃと、中身が。

 うじゃうじゃと、うじゃうじゃと、うじゃうじゃと。

 嬰児が、ぼくに。

 一斉に、ぼくに――。


「おいソウジ、どうしたんだよとつぜん飛び出して!」

「……ごめん。油、耐えられなかったみたい」

「油って……だってお前、顔色すごいぞ。病院行ったほうが」

「大丈夫」

「大丈夫って、でもよぉ……」

「なんともない、なんともないから」

 なんともない、なんともない。

 ただの見間違いだ。幻覚だ。妄想だ。暴走だ。疲れた頭が思い描いた、ただの思考の混乱だ。だってそんなの、あるはずない。あるわけないんだ、聞こえるなんて。虫の声が、人の声に、聞こえるだなんて。虫がぼくに、呼びかけるだなんて。ぴいぴい喚く虫の嬰児が、声を揃えて呼びかけるだなんて。

 おとうさん、なんて。

 ただの見間違いだ。幻覚だ。妄想だ。暴走だ。疲れた頭が思い描いた、ただの思考の混乱だ。あるはずない。あるわけないんだ、聞こえるなんて。だから、なんともない。なんともない。ぼくは、なんともない。

 なんともない。

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