四匹

「えぇ、なにこれぇ……」

 ダンボールの山、山、山。間違いなく昨日までは存在していなかったダンボールの山が、社内の至る所に雑然と積み上げられていた。それはもう尋常じゃない量で、なんというか、純粋に、狭い。率直に言って、邪魔でしかない。

 異変はそれだけでなく。どういうわけだかどこにもかしこにも、誰の作業机にも同じ茶色のそれが置かれて。誰も彼もがそいつに口をつけて、すすり飲んで。ずぞぞぞぞと、卵みたいなアレをストロー越しに吸い込んで。タピオカミルクティー。なんだこれ。一夜でブームが再燃したとか?

「おはようございます、春日井氏。昨日はお休めできましたかね?」

 度の強い眼鏡をかけたマッシュヘアーが大仰に、眼鏡をくいっと上げながら顔を覗かせてきた。「まあ、私はあなたと違って疲れなど知りませんから、いつでも代わって差し上げて構いませんがね」。いつもながらの自信に満ち溢れたその態度に、意図せず苦笑が浮かんでしまう。

「あ、ああ、おはよう朝田。あの……これは?」

「社長の仕業ですよ」

 我が意を得たりといったように滔々と、入社二年目の新人が語りだす。自慢と他者卑下が内容の八割を占める彼の言葉を要約するに、ブームの終焉で根こそぎ値下がりしたタピオカミルクティーをうちの社長がトンの重さで買い占めて、朝一番に社内へぼんぼこ置いていったと。しかも当の本人はまだまだ捌ききれないそれを、おすそ分けと称して関連企業に配り回っていると。……なるほど、理解した。なにやってんだあの人。

「まったく、社長にも困ったものですね。道楽三昧で経営というものをまるで理解していない。もっと世の中というものを俯瞰しなければこの時代、生き抜くだけでもやっとというに。まあ、この朝田がいる限り、『セッラ』の躍進は約束されたも同然なのですがね!」

 そのためにも早々に、それなりのポストを用意してもらいたいものですがねとのけぞりながら眼鏡を上げる朝田に、表面だけの追従を送る。まともに話を聞いていたらキリがない。「それよりも箱、プログラマーブースだけ異様に多くない? なんでこんなに積んで――」

「それはぁ~――」

 積まれたダンボールの内側から、口で鳴らしたドラムロールが響き渡ってくる。まさか――などと驚くことは特になく、ドコドコ言い始めた時点でそこにいるのが誰だか判る。

「コイちゃんの、分だからぁ!」

 さもありなん、両手にタピオカミルクティーを握りしめた日山が、どうだと言わんばかりに飛び出してきた。うん、そうだね。日山しか、いないよね。

「やっだこのひと反応薄い。なによなによ、あんたそれでもあたしの上司ぃ? そこはこうさ、あばんぎゃるどぅなノリにノッてさ、『きゃ~! コイちゃんだかっわうぃ~ん☆』って言うところだろぉー! ほら、もっかいチャンス上げるからカム! カムカムカ~ム!」

「なにそのテンション……」

「やだやだやだー! 甘やかしてくんなきゃやだー! 徹夜したコイちゃんをいたわって! ねぎらって! 称えて崇めて甘やかしてくれなきゃやーだー! じゃなきゃぼくちん働かないもんなぜならわたくし今日からラブリーベイビーなのでございます。ん~……おぎゃばぶまんまー!!」

 見苦しく床の上を転げ回りながら器用に両手の飲み物をめちゃくちゃに吸い上げ日山は、「おいちい!」と目をキラキラ輝かせながら箱の中のそれらを次々胃の中へと送り込んでいった。う~ん、ここまで恥ずかしげもなく醜態を晒せる才能、いっそすがすがしい。まったく見習いたくはないけども。呆れて首を振る朝田に、いまだけは心から同調する。

「あ、虫」

 朝田が指を差す。ぼくと日山がそちらを向く。山と積まれたダンボールの隙間から、それの姿が現れた。二本の触覚で空を切る姿。音もなく異様な速度で駆け抜けるその扁平。昨日の電車内で、そして今朝自宅で見たのと同じ、あの、黒い。

「きゃあん! 虫さんやだぁ、ディレクターぶっ殺して!」

 茶色く野太い悲鳴をあげて、日山がぼくに飛びついてくる。背中に隠れて、押して来る。いや、押すな、押すなって。ぼくも苦手なんだよ、ただでさえ今朝も遭遇して気が滅入ったっていうのに。そうこうしている間もそいつはダンボールの架け橋を伝って渡り、その度毎に背中で日山がぎゃーぎゃー叫ぶ。叫ぶ、走る、走ってくる、寄ってくる、迫ってくる、迫ってくる――。

 景気の良い音が、室内に響いた。

「大の大人がみっともないんだけど」

 そこにいたのは、特徴的なマフラー姿。室内だろうと構わず手袋を嵌めている、あの土家。丸めた雑誌の狙いすました一撃が、あれに向けて振り下ろされていた。彼の放った一撃で、さんざんに走り回っていたあれが落ちる。ぴくりとも動かないそれは、どうやら絶命してくれたようだった。日山が「きゃー!」と気色の悪い嬌声を上げ、ぼくから土家に鞍替え飛びつく。

「さすがぼくらのリーダー、頼れるのはいつだってフタっちだけ! それに比べてこのへぼへぼディレクターはよぉ……けっ、使えねぇやろうだぜぺっぺっ!」

「そうでしょうそうでしょう、春日井氏はディレクターに相応しくない! あの『ブレクエ』の……あの! 『ブレクエ』の! 制作の指揮を務めるのはやはりこの私、朝田を置いて他にないと――」

「朝田、これ片付けておいて」

「な、土家氏! しかし私という人財はこのような――」

「いいから」

 丸めた雑誌でそれを拾った土家が、有無を言わさず朝田に告げる。朝田は抵抗を示しつつ、結局はそれを受け取った。「なぜこの朝田がこのような雑務を」とぶつぶつつぶやく朝田だが、なぜか土家に対してだけはあの強気の態度も鳴りを潜める。不思議だ。いつかコツを教えて欲しい。

「ソウジ」

「あ、うん。おはよう、土家」

「『イコデミア』の花香さんから連絡があった。ぼくが答えられることは答えたけど、他にも話、あるみたいだから」

 挨拶も抜きで要件だけを簡潔に。いつもの土家スタイル。こうした態度の方が朝田には“効く”のかなと思いながら、親しんだ彼の調子にぼくも返す。

「ありがと土家、助かるよ」

「そうだそうだ、もっとフタ様に感謝しろ!」

「うるさいんだけど」

「はいコイちゃん黙ります、めちゃめちゃめっちゃ黙る。息止める」

「それと、ソウジ」

「うん、まだ何かあった?」

「ん」

 言って、土家が止まった。何も言わず、無言でぼくを見つめてくる。「なに、なんだか怖いな」と、おどけた調子で先を促す。土家がちらと、隣を確かめた。隣には息を止めて顔面をうっ血させている、土家にしがみついたままの日山。

「疲れ、取れた?」

 ぼそっと、つぶやいた。ああ、そういうことか。彼の言葉に、得心する。言っていいことかどうか、計っていたのね。彼の努力に笑みをこぼしてむきっとぼくは、力こぶを作ってみせる。

「怒られたくはないからね」

「そう」

「それより日山、そのままだと死んじゃうんじゃないかな」

 土家が今度は、ちらりとではなく隣を見る。表情に変化はない――いや、幾分か呆れているようにも見える。

「いつまでも遊んでないで、さっさと仕事にもどって欲しいんだけど。コイフミが遅れるとぼくまで帰れなくなる」

 土家に声をかけられて、日山はようやく息継ぎをする。息継ぎをして、それで今度は乙女のように科を作って、下品に媚びた声で宣った。

「フタちゃぁん……コイちゃんと一緒に、お泊り、するぅん?」

「死んで欲しい」

「うん、同じく」

「全くですね!」

 給湯室から顔を覗かせた朝田まで賛同し、四面楚歌の中で日山は「しどい!」と転がった。転がって、またぞろタピオカミルクティーをむさぼり始める。痩せ型のっぽのこの身体の、一体どこへ入っていくのかと訝しんでしまう量がずるずる吸い込まれていく。

 これはもうしばらくどうしようもないなと土家と目配せをして、赤ん坊にもどった日山を見下ろしたその瞬間、ああそういえばと、ぼくは確かめなければならないことを思い出した。昨夜の電車の、謎の電話。あれの正体を、確かめるんだった。なあ日山、昨日の夜さ、お前電話を――そう言おうとして、けれど言葉が出てこなかった。

 え、と、思った。

 いま、目の前で起きた光景に、思考が阻害された。

 茶色い川のミルクティー。ストローに吸い込まれていく卵のようなつぶつぶ。

 黒い、それ。

 日山、お前いま、タピオカと一緒に……“虫”、飲み込んで――。

「ソウジ」

 我に返る。土家が睨んでいた。「あ、いや」とぼくはごまかし、もう一度力こぶを作ってみせながら、視線は日山に向けたままでいた。視線を、外せなかった。

「日山」

「ばーぶー?」

「……片付けだけは、ちゃんとしてね」

「はいママ!」

 子供らしく元気に手を上げた日山に、「誰がママか」と苦笑いを返す。日山の様子に、変わったところはない。「はいママ!」と答えた時も――それはそれで汚いけども――見えるのはタピオカと液体の残留物ばかりで、“それらしい”ものは見えなかった。

 さすがに気のせい……だよね。

 立て続けに遭遇して、神経質になりすぎているのかもしれない。こんな精神じゃ、仕事にも影響が出てしまう。頬をはたき、よっしゃと気合を入れ直した。

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