三匹

 まだ小学校にも上がっていない時分。当時はまだ存命だった父が、酔っ払った千鳥足で買って帰ってきたスーパーファミコンと、巷で話題になっていた『ブレイブクエスト3』。ゲームそのものはもちろん、『ブレクエ』の愛称で親しまれるこの国民的RPGシリーズに触れるのもこの時が始めてで、画面内のキャラクターを上へと下へと自在に動かせる自由に、子供心にも大変な感動を覚えたことをいまでも覚えている。

 たちまち夢中になってプレイし始めたぼくは一日一時間という母が勝手に取り決めた制限時間ではすぐにも物足りなさを感じるようになり、どうにかしてもっと長く、もっと先まで遊べないかと幼い脳みそを最大速度で回転させた。知恵熱が出そうなくらいに考えて、実際に熱を出して倒れ、熱が出ている間は禁止とゲームを取り上げられるなど苦い思いもしたものの、その甲斐あってひとつぼくは、姑息な手段を思いつくに至る。

 当時暮らしていたぼくの家の斜向かいには、ぼくと同い年の女の子が住んでいた。桃の香りの女の子。まだ男子だとか女子だとか意識する自我も持ち合わせていなかったぼくはなにかといえば彼女と一緒で、お歌を歌ったり、おままごとをしたり、桃色毛布にくるまって一緒にお昼寝したりもした。

「やっぱり女の子はかわいいわね」と女児向けの洋服を眺めるくせのあった母は、この斜向かいの彼女に大変甘かった。彼女が頼めば相貌を崩して母は、たいていなんでも受け入れた。だからぼくは、彼女を誘ったのだ。「一緒に『ブレクエ』、やろう」。

 そうして勇者<ソウジ>は、光の巫女<なごみ>と旅に出たのだ。

 ぼくと同じくなごみもまた、ゲームに触れるのは始めてで、だからぼくらはセオリーなんかまったく判らず行き当たりばったりにダンジョンへ潜ったり、そこいらのザコ敵にやられて「情けない」と王様に嘆かれたりした。悔しかった。悔しかったから、本気で楽しんでいた。ああでもないこうでもないと言い合って、二人で協力してゲームを進めた。たくさん戦って、強くなってリベンジした。広くて複雑なダンジョンも、ノートに書き写して踏破した。一人なら挫折していたであろう謎解きも、彼女がいたから乗り越えられた。彼女と二人で、乗り越えてった。乗り越えていく度にぼくたちも、ゲームの中の『ソウジ』と『なごみ』も、その絆を深めていった。

 そしてぼくらの、双子が生まれた。

 魔王を倒すその旅は決して平坦なものでなく。立ちふさがるモンスターは進むに連れて凶暴になっていったし、どうしても手の届かない悲劇に悲しい思いもさせられた。地と太陽の神官が課した試練には、本当に本当に悩まされた。それに――それに『なごみ』とも、離れ離れになってしまった。

 魔王を倒し、奪われたものを取り戻す。息子と娘、『なごみ』の面影を残す二人を連れて、『ソウジ』は最後の戦いに挑み、『なごみ』の力を借りて彼らは――ついに世界に光を取り戻した。そして凱旋を果たしたぼくたちは――『ソウジ』と『なごみ』は海辺の丘、約束のその場所で再会を果たす。中断された婚礼の儀を今度こそ、最後までやり遂げるために。永遠の愛を誓うために。

「そーくん」

 光差す世界のウェディング。世界中の人々に二人の神官、それに愛する息子と娘に見守られた幸せいっぱいのエンディングを眺めているとなーちゃんが、コントローラーを持つぼくの手をぎゅっと握った。握って、香って、窓から差し込む光を浴びて――。

「家族で世界、救っちゃったね」

 歯抜けの口で、にかっと笑った。

 その瞬間、ぼくは気づいてしまった。気づいてしまったんだ。『ソウジ』はすっかり、『なごみ』に参ってしまってるって。

 だからといって、何かが劇的に変わってしまった訳でもない。これまで通りぼくたちは一緒に遊んだし、よく怒られたり、たまに泣いたりもした。彼女がぼくの側にいるのは朝田が昇るのと同じくらい当然の当たり前で、その法則の正しさを証明するようにぼくたちは小学校も中学校も、それに高校も同じ学校へと進学した。男子として、女子として、取り巻く環境や付き合う友人に差異が生じはしたものの、それでもぼくたちは一緒にいた。当たり前にそうしてきた。

「私ね、大学で福祉について学びたいの」

 なーちゃんは、やさしい人だった。ボーイスカウトとかボランティアとか、目に見える活動だけでなく日常のほんの些細な善行とか、とにかく彼女は人の役に立つことが好きで、何よりも誰かの面倒を見ている時のなーちゃんはいつも以上に活き活きと輝いていた。気が強くて恥ずかしがり屋だから誤解も受けやすいけれど、でも本当の彼女は弱者に寄り添い決して見捨てない、びっくりするくらいにやさしい人。なーちゃんは、そういう女性だった。

 だから彼女の進路を聞かされた時、ぼくに驚きはなかった。福祉の勉強が具体的にどのようなものかは判らなくとも、少なくとも彼女にはぴったりだと思ったから。未来の彼女を思い描き、心から応援したい。そうも思った。……けれど、そうした肯定的な気持ちとは裏腹に、彼女の決断に強く動揺する自分もいた。

 当たり前が、終わってしまう。

 なーちゃんが福祉を学びたいと自身の道を選んだように、当時のぼくも彼女同様、どうしても学びたいと願う分野を見つけていた。それは子供の時分――それこそ歯抜けのなーちゃんと遊んでいたような頃から漠然と抱いていた夢。その夢を、自分なりに具現化した願いと進路だった。そしてこの願いを叶えようとした場合、ぼくとなーちゃんは避けようもなく離れ離れになってしまう。いつも隣にいた当たり前が、いなくなってしまう。

 どうしたらいいか判らないまま、時間だけが過ぎていった。幸いにも集中が途切れて勉強に身が入らなくなる――なんてことはなく、むしろ悩みをかき消すように勉学へ没頭したおかげで、ぼくの成績はみるみると上がっていった。まず間違いなく合格できると、担任にも太鼓判を押された。なーちゃんの方も順調みたいだった。複雑な気持ちだった。複雑な気持ちのまま本番を迎え、それで――それでふたりとも、本命に合格した。離れることが、決まった。

 だからぼくは、卒業旅行を企画した。

 行き先を決め、仲の良い友人を誘い、なーちゃんのグループも誘って、日程を合わせて“旅”に出た。遊んで、はしゃいで、羽目を外して――なーちゃんを誘って、二人で抜け出して。向かった先は、水平線の眩い風光明媚な海辺の丘。初めて来たはずなのに見覚えのある、理想と想像が膨らませたぼくにとっての原風景。

 旅行先を調べていて、ここを見つけた時は震えた。同時に、ここしかないと思えた。ここを置いて、他にないと。

「あの約束の丘で、ぼくと結婚式をあげてくれませんか」

 前置き抜きに、告白した。ムード作りだとか、駆け引きだとか、そんな悠長なことをしている余裕なんてなかったから。だからただ、ぶつけた。当たり前にかまけて伝えてこなかった好きの感情を、そのまま、まっすぐ、彼女に向かって告白した。結婚を前提にお付き合いしてください。覚悟を持って、そう言った。

 どちらかといえば切れ長に伸びた彼女の瞳が、まんまるに見開かれていた。次いで彼女は「え」とか「う」とか言葉にならない吃音を鳴らして、今度は顔を両手で覆ってしまった。ぼくは何も言わなかった。拳をぎゅっと握りしめたまま、彼女の返事をただただ待った。

「あの、ね、私……その、夢が、あってね」

 はーふーはーふーと深い深呼吸を何度も繰り返してから、彼女はようやく手を下ろした。その頬はいつもと比べてわずかに赤らみ、視線はぼくの方へ向けられたり、と思ったら一瞬で非ぬ方向へ移動したりと忙しなく、その忙しなさはもぞもぞと重ね合わされている彼女の両手も同様で。

「男の子と、女の子と……できれば双子がいいけど、でも、それは授かりものだし、絶対じゃないんだけど……」

 普段の気丈な彼女からは想像もつかないくらい、つっかえつっかえ彼女は話して。

「でも、でもあのね……式をするならね、子どもたちもいて、祝ってもらってね、あの、あの……よ、よ、四人で……」

 いよいよ赤らんだ顔は心配になってしまうくらいに真っ赤っ赤で、だけども彼女は逃げずに誠実に向き合ってくれて、そんな彼女が、小さな頃からずっと一緒だったなーちゃんのことがぼくは――。

「もう、わかるでしょ、バカ!!」

 エンディングを迎えたあの日と変わらず、愛おしく。

「……ばか」

 抱きしめていた。力一杯、抱きしめていた。それ以外に、何をすることもできなかった。

 そうしてぼくたちは現実に、二人だけの『丘』を得た。


 精巣がんを患った、夏。

 いいやいいやと気になる講義を片っ端から受講したら、想定の三倍くらいの多忙につつき回されるようになった大学生活。充実感とくたくたの落差に目まぐるしい日々を送りながらもぼくは、なーちゃんとの通話だけは毎日欠かさず行っていた。彼女も忙しない日々を送っているようで、話題といえば講義の内容とか課題への愚痴とかどうしても色気のないものになりがちだったけども、ぼくはそれで構わなかった。彼女の声を、なーちゃんの存在を感じられれば、ぼくはそれで満足だった。

 会えない日々が寂しくないといえばうそになる。けれどこうして言葉を交わし、互いにつながり合っていることを信じられれば、存外平気でいられるものだとぼくは知った。なによりも、ぼくらには“約束”がある。『丘』がある。だから、何も心配していなかった。彼女とぼくとの間に心配など、なにひとつもありはしなかった。問題は、別の地点からやってきた。

 二回生に上がって試験も終り、長い長い夏期休暇を目前に控えた初夏のその日。精巣がんを患っていると、告げられた。早期に手術しなければと説明する医師が見せてきたレントゲンには、まるで虫に食い荒らされたかのように影だらけとなったそれが写っていた。先延ばしにすればするほど危険になると脅された。虫食いの影が、増殖する虫が、まだまともな部分まで食い散らかしていく姿を想像した。手術すれば助かるのかと訊いた。絶対ではないと言われた。今回助かっても、また同じように発症する可能性は高いと医師は言っていた。

「別れよう」と、送っていた。

 その日のうちに、なごみは飛んできた。ひっぱたかれた。

「絶対離れないから……誰が見捨てても、私はソウジを見捨てないから!」

 さんざんに怒られて、さんざんに泣かれた。ぼくも泣いた。泣いて二人で、抱き合った。桃の香りがした。


 手術は成功した。包み隠さずなんでも説明するあの医師の腕が良かったのか、それともぼくの免疫力の成さしめる技か、とにかくありがたいことにぼくはまだ、生きている。いまのところは再発の気配もない。がんを患っていただなんて誰も気づかないくらい、一般的な普通に溶け込んだ生活を、ぼくは送っている。多くの同輩が望まぬ結果に嘆く中で、ぼくは非常に幸運なのだと思う。けれど――けれどぼくにはもう、生殖機能はない。それを成す機能を、取り除いてしまったから。ぼくの身体はもう、つむげない。つむげないのだ。

 男の子と、女の子。なーちゃんは、いま見ぬ双児の愛児を望んでいた。

 子どもらに見守られた結婚式を、彼女は夢見ていた。

 ぼくといる限り、彼女は夢を叶えられない。

 そして彼女は、やさしい彼女は、ぼくを決して見捨てない。

 やさしい彼女は、見捨てない。

 奪ったのだ、ぼくは、彼女の夢を。

 喰らったのだ、虫のように、あのレントゲンの。

 だから。

 だからこそぼくは、そうしなければならない。

 ぼくは彼女を、幸せにしなければならない。

 なーちゃんを、幸せにしなければならない。

 奪ってしまったそれ以上に、幸せにしなければならない。

 幸せに。


 そうしていまぼくは、ゲームを作っている。

 あの『ブレクエ』の最新作を、制作している。

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