二匹
「やだやだやだぁ! なーちゃん行っちゃやぁ~だぁ~!」
「ええい、うっとうしい! タピオカ飲んで待ってなさい!」
「あぁん」
愛しの彼女の二つのお手々、それらに押されてすってんころりん、ソファの前へと転がりゆく。合間に彼女はそそくさと、一人で部屋を出ていって。「ちぇ」と誰に聞かせるでもなく拗ねた態度を取ってみせるも、そうした戯れまでもが心地良い。
はぁ……なーちゃん。やっぱりかわいい。綺麗。好き。大好き。超超好き。彼女と出会って二〇数年。この気持ちは衰えるどころかむしろ、時と共によりより積み重なっていくようで。突き飛ばされてもつれなくされても、どんなにされても愛のが勝る。声も、仕草も、お顔も香りもシルエットも、それに――それに何よりその心も、それら全てのなにもかもが愛おしい。
幸せにしてあげたい。堪らなく、そう思う。
流行遅れのタピオカミルクティーにぶくぶくと息を吹き込みながら、彼女のいなくなった扉の向こうを眺めて耽る。一〇日ぶりに再会したなごみ。ぼくの彼女への想いは、何も変わってはいない。
……でも、これはちょっと頂けないな。ストロー越しのおもちゃと化した一時代を築いたこの飲み物、あるいはデザートと言ったほうが正確だろうか。タピオカミルクティー。ぼくはこいつが、苦手だった。ミルクの部分は問題ない。人並みに飲むことができるし、おいしいといえばおいしいとも感じる。
問題はタピオカの部分だ。それも、焦茶のミルクティーに埋没して粒々のグロテスクな群れの塊となった、タピオカ。水気を帯びて、ぬるりと膜を纏ったようなその見た目。率直に言って、何かこう、卵のように思えてしまうのだ。カエルとか、得体の知れない海生物とか、あるいはそう……そら、虫なんかの、所謂ゲテモノの卵のように。
食べてみればおいしいのかもしれない。けれどそもそも、食べる気にならない。みんなよく、こんなの好んで食べるよな。そんなことを思いながらぶくぶくおもちゃにし続けていたら、程なくしてなごみが部屋へともどってきた。「食べ物で遊ばない!」と、開口一番叱られた。モラルに厳しいなーちゃん。そういうとこも、好きです。
「なによもう、だらしくなく笑って……ほら、交換」
せっかく高岡くんのお母さんから頂いたのに。ぶつぶつとそうつぶやきながらなーちゃんは、てきぱきとおもちゃにされていたぼくのタピオカを回収し、代わりに小綺麗に包装された小箱をぽんっと素っ気なくテーブルに置いた。「これは?」と、視線でぼくは質問する。彼女は呆れ顔もあからさまに、壁にかけたカレンダーを指差す。とある日付が、赤丸で囲まれていた。
「ちょっと早いけど、誕生日プレゼント。どうせあなた、当日は帰ってこれないでしょうし」
「……ああ!」
「やっぱり忘れてた」
毎年のことだから驚きもしないけど。そう言ってなごみは、もう少し自分のことにも興味を持って欲しいと、怒ったように付け加える。ぼくはというと彼女がぼくを想ってくれていた事実がなによりうれしく、「開けていい?」と子どものようにせがむことしかできなくなって。
「あなたの為に買ってきたんだから」という彼女の許しを得てぼくは、せっかくの包装を破らないよう丁寧に、けれどもどかしさに慌てる手付きで、秘されたその宝物の内側を掘り出していく。全てを剥ぎ取り、顕となったそこに封じられていたのは――。
「『ブレクエ』だ!」
鈍色の銀が渋い光沢を放つボディに、『ブレクエ』を象徴するモンスターと勇者の剣が刻印されたジッポライター。一般的なジッポに比べて一回り以上大きなそれは確かな重量をてのひらへと伝達し、その重みがまたこの一品への特別感を抱かせる。親指で弾くようにして蓋を開けると、硬い金属音が耳から脳へ、そして心臓へと蠱惑的な振動を打ち付けた。震える、心が。やばい、興奮がすごい。
「見つけるの大変だったんだから、大切にしてよね」
――例えば、犬という生き物。太古の時代より人間に寄り添い、その寄り添いの歴史そのものがさらなる人間愛へとつながる進化をもたらした、可愛らしい愛玩動物。彼らは人が好きで、好きで、好きすぎて、その感情閾値が壊れるくらいに愛情が高まると、もうどうしていいか判らずめちゃくちゃに身体をこすりつけながらぐるぐる回ったり顔中を散々に舐め回したりするしかできなくなる。自分でも自分の感情を制御できず、ただただ行動するしかなくなってしまうのだ。
いまのぼくもそうだった。つまり、もうどうしていいやら判らないくらい、好きが高ぶってるって状態。そういうわけでぼくは、有無を言わさず彼女にハグっと抱きついた。あふれる好きで力一杯、窮屈そうに身を捩る彼女のことなんかお構いなしに、もう二度と離さないぞとばかりに彼女を捉える。捕まえる。潰れた彼女から香りが漂う。桃の香り、彼女の匂い。昔から変わっていない。
「……もう、いつまでも子どもなんだから」
耳元でささやく彼女の声は、少し笑っていた。耳を震わせるわずかな呼吸振。ぼくよりもいくらか高い体温。胸の奥で脈打つ確かな鼓動。そのどれもが、彼女の存在を示している。彼女がここにいる、生きている。その事実を、ぼくに教えてくれる。
生きて香りに包まれる。
「ねえなーちゃん」
「なぁに?」
「お仕事、楽しい?」
「楽しいわよ、大変だけどね」
「ねえなーちゃん」
「なによ」
「プレゼント、ありがとうね」
「どういたしまして」
「ねえなーちゃん」
「……もう、なによ」
「好きだよ」
微細な変化。くっついているからこそ判る、胸打つとくとくの高速化。言語を通さず伝わってくる、不器用な彼女のほんとの心情。そのとくとくのリズムが早まっていくのと入れ替わるように、ぼくの心地は急速に落ち着いていった。むきになって抱きしめていた腕を、やわらかく包み込むようなそれへと緩める。そしてぼくは、もう一度繰り返した。「好きだよ」。「おしまい」と、突き放された。
「……お昼からはお仕事でしょ。今日はもう眠るわよ!」
「えー!」
「えーじゃありません。なんのためのおやすみよ、体調でも崩したらみんなの迷惑になるんだからね」
「それ、土家にも言われたー……」
「ほら!」
「ねえ、ソウジ。まだ起きてる?」
急かされて叱られて、彼女の指示通り本当にあっという間にベッドへと寝かしつけられたぼくは、つむった視界の向かい、眠っているはずのなごみから呼びかけられた。
「ソウジ……」
彼女の手が、ぼくの頭にそっと触れた。やさしい彼女の、未だにちょっとぎこちない手付き。目をつむっていたって判る。ぼくには、判る。けれどぼくは、眠ったふりを続けた。「起きてるよ!」だなんて言ったら彼女はきっと、呆れたように怒るだろうから。
「あのね、ソウジ。私ちゃんと、幸せよ。あなたといられて、とっても幸せ。だから――」
そこまで言ってなごみは、言葉を詰まらせた。元より待つ以外の手段を持たないぼくは、起こさないような配慮を感じる彼女の手付きに集中しながら、続く彼女の言葉をしばし待つ。
「おやすみソウジ。私の愛する愛しい貴方」
唇に、やわらかな感触が触れる。吐息を感じる。次いで、「おやすみなさい」という声が、ほんのすぐ側から聞こえてきた。我慢できずにちょっとだけ、身体をよじって彼女に近づく。鼻と鼻とで互いに触れ合う。ふふっとこぼれる、彼女の微笑。気づかれたかな。気づかれてもいいや。ぼく自身を押し付けるように彼女と深く重なって、そうしてぼくは、心に返した。
おやすみなごみ。ぼくの愛する愛しい貴方。
翌日。目を覚ますと時計はもう一一時を過ぎていて、なーちゃんの姿もどこにもなかった。広い室内。会社を住処とするぼくにとってなーちゃんのいなくなったこの家は、家主が突然出かけた友人宅のように居心地が悪く。下手に触って荒らさぬようにと、妙な気を回しながら起き上がる始末だった。なんだか変な話だ。ここはぼくの家でもあるはずなのに。
『朝ごはん、作っておいたから。チンして食べてちょうだいね』
書き置きが残されていた。『野菜も残さず食べるように』という追伸まで添えられて。申し訳なさと愛おしさが、ないまぜになって湧き上がる。なーちゃん。もっと一緒にいたかったな。もっと触れたかった。もっと彼女といられるように、ぼくもお仕事がんばらないとな。
冷蔵庫を開く。ラップに包まれた耐熱皿が、庫内中央の目立つ場所に置かれていた。これだな。好物のウインナーに、甘いのがいいとねだった卵焼き、それに彩り豊かな野菜やジャガイモが並んでいる。野菜、多いなあ。苦笑いを浮かべてぼくは、彼女の用意してくれた皿を取り出そうとした。
「うっ」
手を離した。ラップの中の、ものが動いて。赤や緑や黄色の野菜。そこに混じって現れた、触覚蠢く扁平の黒。敷き詰められた野菜の下に隠れた虫が、振動を契機に皿の上を走り出した。ウインナーが、甘い甘い卵焼きが、黒いそれの足場にされる。
扉を開け放し、それから目を離さぬよう後ずさりながら、常備された殺虫剤を手につかむ。噴射口に付属のノズルを差し、ノズルを針代わりとして慎重にラップを貫き、そして――一気に噴射した。
かつ、かつ、かつと、黒いそれが暴れまわる度に硬い音が響き渡る。透明なビニールラップに密閉されたその空間で、かつ、かつ、かつ、かつ、音が鳴る。まだか、まだ死なないのか。さっさとくたばってくれ。祈るような思いで、のたうち回るそれを見る。仰向けとなって、膨らんだ腹部を顕として、めちゃくちゃに手足を降って藻掻くそれを。
頼むから、死んでくれ。
動かなくなった。動かなくなってからも、しばらく噴射を止めなかった。五秒か、一〇秒か、そのまま続けて――押し込む指から、力を抜いた。指先が、少し震えていた。
なーちゃんごめん。ご飯、台無しにしちゃった。
一連の騒動の後処理をしながら、ぼくは想う。ぼくを起こさぬよう気を使って、静かに台所に立つなーちゃんの姿を。好物と健康とを同時に考えて用意してくれた彼女のことを。もはや口に入れることのできなくなったそれらをゴミ袋へと詰め、ぼくは思う。
ああ、けれど。なーちゃんに怖い思いをさせずに済んだのは、それだけはよかったな。
時刻は既に、一二時を過ぎていた。あまりのんびりもしていられない。手早く支度を済ませたぼくは、そのまま家を飛び出そうとし、けれども一度立ち止まり、部屋をぐるりと見回してから、袋を持って、家を出た。
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