一匹

「…………お?」

 ――斜めだ。何もかもが斜め。壁面と一体化した横長の椅子も、等間隔にぶら下げられた吊り革も、窓の外に見えるがらんどうな駅のホームも、あらゆるすべてが斜めに倒れている。どういうことだ――と考える間もなく、自分の上体が斜めに倒れ、ひじを付いた格好で椅子の上に横たわっていたと気づく。

「お目覚め?」

 まだまだ朦朧とした意識のまま、ひじを付いた側とは逆の椅子に腰掛けている男に視線を向ける。真夏だというのにごわごわなマフラーとこれまたごっつい革手袋を装着している、常識外れのふざけた格好。夢の中の住人かしらんと疑いたくなるような姿だが、これが彼の通常スタイルであることをぼくはよくよく知っている。いつだって困ったように睨みつける童顔な同僚――プログラマーの土家に、ぼくは尋ねた。

「……終点?」

「車掌じゃないから」

「ですよねー」

 上体を起こし、身体を伸ばす。ばきばきと全身が悲鳴を上げた。慣れっこだ。むしろ快適で痛みを覚えない肉体こそ、もはや記憶の彼方と言える。仕方ない、所謂これも職業病だ。働いていれば誰だって、何かがどこかおかしくなる。

「それ」

 電車が再び発進し、腕を伸ばしていたぼくはそのまま慣性の影響を受け、土家の側に倒れそうになった。それを土家は大げさに回避して、迷惑そうに顔をしかめながら指差し、言った。

「持ったまま、意識飛んでた」

 言われて気づく。迷惑顔の土家にこびた笑顔を送ってぼくは、彼の指さした先、自分の右手の中を見る。そこには社用の携帯電話。気づいたと同時に握力が抜け、滑り落ちそうになったそれを慌てて掴み直す。……セーフ。

「何だったの」

「うん?」

「電話。君、上の空だったけど」

「え? いや、ええと……」

 電話――そう、電話。たしかに取った覚えがある。たしか。終電で周りに誰もいないし、このくらいの時間であればこの業界、まだまだ当たり前に仕事をしている連中ばかりであるし。そう思って通話に出た。出たのは、間違いないのだが――。

「いや……虫、とか? むすんだ……とか?」

「聞かれても困るんだけど」

「そりゃそうなんだけども、うーん……」

 携帯の画面を眺めながら、うんうん唸る。断片的に、何かを話された覚えはある。おぼろげながら、誰かの声を聞いた記憶もある。けれどそれが何の話であったのか、誰からの電話だったのか、そこがまるで思い出せない。ロックを解除し、履歴を調べた。だがしかし、そこに表示されているのは非通知設定の簡素な五文字。何の手がかりにもなりはせず。いよいよ持ってミステリーだが――。

 もしかしたらと、ぼくは疑う。いまも会社で仕事中の同僚日山。あいつ、ぼくが帰るって言ったらだいぶごねてたからな。現実逃避にいたずら電話をかけてきたとしても、まあ、あの構ってちゃんならやりかねない。というかむしろ、それ以外に思いつかない。

 正直、腑に落ちない点はいくつもある。電話中に意識を失うなんてありえるだろうかとか、断片的に思い出せる声が日山のそれとはまるで違った気がするとか、それに、なにか――とてつもなく不快な夢を観た気がする、とか。とはいえこれ以上考えた所で進展はなさそうだし、答えは明日、日山に聞いてみればいいか。ひとまずそう結論付けてぼくは、携帯の画面を閉じた。

「今からでも全休にしたら?」

 手の中の携帯を操作しながら、土家が抑揚なくつぶやいた。彼の方へ振り向くと、分厚い手袋ごしだというのに器用に素早く携帯電話を操作している。

「といってもねー、制作もそろそろ佳境だしさ」

「一日くらい休まれたって、ぼくたちだけでなんともないけど」

 素っ気のない言口。彼が孤立する原因を作ってきた、誤解を招くこの態度。けれどぼくは、彼がどのような奴か既に十分経験してきた。その証拠に彼の手付きは高速なれど、動く画面は不規則に、なんらの意味もなしてはいない。こぼれそうになる笑みを抑えてぼくは、覗き込むようにしてこう言った。

「ありがと、心配してくれて」

 土家は、目を合わせてはくれなかった。むすっとしたむくれ面は一層不機嫌さを顕にし、鋭い視線で画面を凝視している。指の動きが、先程までよりも高速化する。

「……身体壊された方が迷惑だって、そう言ってるんだけど」

「はは、手厳しい」

「それに」

 堪えきれずこぼれた笑い声に、土家は一瞬ぼくを睨んだ。けれどその視線はすぐに手の中の携帯へともどり、そしてわずかに、わずかにいつもより抑揚の付いた声で彼は、口早にぼくへと問いかけてきた。

「恋人さん、待ってるんでしょ」

 おっと、これは予想外の話題が出てきた。

「んー……まあ、ね」

「なんか、煮え切らない言い方だけど」

「それはさ、ほら、寂しくさせちゃってる自覚もありますので」

「後ろめたい、とか?」

「そうだね、まあ、そんなとこ」

「一緒に暮らしてるんでしょ? 帰りたくないとか……一人でいたいとか、思うの?」

「まさか! それはないって。叶うならいつでも一緒にいたいと思っているとも」

「それじゃ、いまも、好きなんだ。一緒に住んで嫌になったとか、そういうの、ないんだ」

「そうだね、胸を張って言えるよ。ぼくは世界で一番彼女を愛してるって」

「なら、なんで結婚しないの?」

「お」、と、瞬間、答えに詰まる。

「ごめん、どうかしてた。忘れて」

 ごめん。土家がもう一度繰り返す。その声はいつも通りにぶっきらぼうな彼のトーンだったが、その変化に乏しい彼のスタイルの中でも感じ取れる程度に、彼の後ろめたさが伝わってきて。だからぼくは、却って冷静さを取り戻し。

「いや、いいよいいよ。むしろこうして話してくれた方が気も楽だから」

「けど……コイフミならもっと、うまく話した」

「ああ、やっぱり日山の影響なんだ?」

「おっと」と思って口を塞ぐも、すでに手遅れ。言葉は飛び出た後だった。おそるおそる、土家を覗き見る。ぱっと見の変化は、特にない。しかしよくよく見ると彼の固く結ばれた唇が、なにかに耐えるようにして小刻みに震えている。……さて、どうしたものかな。自分でも判るバカみたいなへらへら笑いを浮かべてぼくは、機嫌を取ろうと姿勢を変えた。

「……デリカシー」

 しかしぼくが口を開くその前に、土家の方からぽろっとこぼした。彼の成長を感じながら、ほっと安心する。軽口を叩けるなら、安心だ。

「ごめんごめん。まっ、これでおあいこってことで、さ。ね?」

「……そういうことに、しておく」

 言って、土家が立ち上がった。アナウンスが流れ、電車がその速度を緩めていく。彼の下車駅だ。分厚い手袋で首のマフラーをきつく締め直した彼は、童顔に見合った中学生並の背丈と、その背丈に不釣り合いな巨大なバッグを背負って、「じゃあ」と一言、扉の前へと歩んでいく。ぱしゅうと小気味の良い音がして、彼の前の扉が左右に開く。彼が駅へと、降りかける。

「本音を言うとさ」

 バッグ姿の、彼が止まった。

「離れてると、怖いんだ」

 止まったまま、彼は動かなかった。続くぼくの言葉を待っているのかもしれないし、なんて返せばいいのか逡巡しているのかもしれない。そもそも何に対しての回答なのか、彼には検討がついていないかもしれない。そうしてそのまましばらく経って、程なく発車を告げるベルが鳴る。

「疲れ、取れてなかったら怒るから」

「その時は頼りにさせてもらうよ、リープロ」

「それが嫌だって言ってるんだけど、ディレクター」

 おやすみ。閉まった扉の向こう側、大きなバッグをゆさゆさ揺らした小柄な彼に、届ける気もなくぼくは言う。そうしてぼくは後二駅、列車を貸し切る自由を得る。かたことかたことと揺れる広々としつつも寒々しい車内でぼくは、身体を丸めて手の中を見た。

 手の中にあるのは、社用の携帯。写っているのは、今プロジェクトの資料を撮った写真群。明らかに社外秘なその資料の群れを、内緒でぼくは持ち帰っている。見つかれば咎め立てられることは間違いない。けれど、こうでもしないと落ち着かないのだ。不安で不安で、落ち着かない。

 離れてると、怖いんだ。土家に告げたこの本音。そう、これがぼくの本音だ。本当は、半休を取るのにもずい春日井悩んだ。わずかにでも、一瞬でも仕事から離れてしまったらその瞬間に、ここまで培い築き上げてきたものの、それら一切を喪ってしまいそうな気がして。確かにぼくの領域であったはずのそれが、永遠にぼくの外へと遠ざかってしまうような、そんな気がして。

 判っている。これはある種の病気だろう。全身の疲労や凝りが肉体的な職業病だとしたら、これは心の病なのだと自覚している。だが、今更だ。今更生き方は変えられない。変える気もない。苦しくないといえばうそになるが、充実感がないというのもうそになる。自分にとっての天職であると、そう思えるときもある。総合的に言えば、ぼくはこの仕事を愛している。辞めることなんて、考えられない。

 それに、今回は“特別”なのだ。

 かつてない大規模なプロジェクト。ぼくにとっても、会社にとってもそうだ。これを成功させられるか否かで、ぼくたちの今後が大きく左右されると言っても過言ではない。プレッシャーはあるが、やりがいもある。大きな仕事を動かしているという自負もある。

 それに――それにこれは、本当に“特別”なのだ。ぼくにとって――そして、彼女にとっても。ぼくたち二人のこれまで、そしてこれからにとっても。何に代えることも適わない、降って湧いた奇跡のような、そんな天文学的な一事なのだ。だからぼくは、これを成す。成さねばならない。この機会を逃せば永遠に、きっとぼくは永遠に、彼女と――。

「うおっ!?」

 椅子の上から、跳ね飛んだ。椅子の上、すぐ側。何かが、高速で、動いていた。ぼくに向かって、迫ってきていた。思考より早く身体を動かした反射のお陰でそれとの衝突を避けたぼくは、離れてようやくそれの正体を改める。

 虫。夏場に出没する、あの黒くて扁平な。

 鳥肌の立つのが、自分でも判った。たかが虫と言われるかもしれないが、苦手なものはどうにも苦手だ。あのまま気づかず座っていたら、間違いなくあれはぼくの身体を――想像するだけで、怖気立つ。

 そうして立ち尽くしたまま何もできずにいるぼくを後目に、そいつは二本の触覚を互い違いに交差させ、気ままに椅子の上を走り回り――やがては背もたれと椅子の間の隙間へと潜り込んで消えてしまった。見えなくなっただけで、いる。そうした嫌な想像だけを、ぼくの頭にしっかと残して。

 それから下車駅までぼくは一人、人一人いない車内で立ち続けた。

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