第13話
ミ☆
正しい人になりなさい。他の誰も関係ない。みんなが不正に手を染めても、きみは正しくありなさい。誰のためでもない。おとうさんのためでも、おかあさんのためでもない。きみのために、正しくありなさい。正しさに反することは、後ろめたいこと。後ろめたさは、必ずきみの重荷になる。きみの心を、苦しめる。だから、正しくありなさい。他ならぬきみのために、正しいきみで、ありなさい――。
おとうさまのお言葉。その本当の意味を、いまになってようやくマツミは、理解しました。心が、苦しい。あたし、間違えた。きっとあたし、ミマミマを傷つけた。ミマミマはあたしを心配してくれていたんだ。イワの……ことだって、コノを守ろうとしただけだったんだ。ミマミマのしてしまったことは、正しく、ないのかもしれない。でもその気持ちは、友だち思いのその気持ちはきっと、間違ってない。間違ってなんか、ない。それなのにあたし、あんなふうに拒絶して、逃げて、閉じこもって。こんなの絶対、正しくない。あたし、間違っちゃった。おとうさま、あたし、間違えちゃったよ。
部屋に閉じこもってマツミはもう、どうしていいのかわかりませんでした。正しくあること。それがマツミのすべてだったのです。それが正しくなくなって、間違ったものになってしまって、その後どうしたらいいのか、マツミにはそれが、わからなかったのです。
「ツミちゃん」
おかあさま。扉のノックと共に、廊下からおかあさまの声が聞こえてきました。マツミは腰を浮かせかけ、でも、やっぱり腰を下ろします。どんな顔をしておかあさまを迎えればいいのか、わからなかったのです。
「ねえツミちゃん。そのままでいいから、聞いてくれる?」
日も落ち静けさを得た五十島の中では、おかあさまのやわらかだけれど控えめな声も、よく聞こえます。
「ツミちゃん。おかあさんには何があったかわからないわ。でもツミちゃん、今日、何か間違えちゃったのよね。ツミちゃんがこんなふうになる理由なんて、他にないもの。きっと、苦しんでるのよね。ツミちゃん、きっと、とっても」
扉越しに、おかあさんは続けます。息を潜めて、マツミは耳を傾けます。
「だけどね、おかあさん思うの。今日、ツミちゃんが失敗したことは実はとても、いいことだったんじゃないかって」
いいこと? ずいぶんとおかしなことを、おかあさまは言い出します。いいことなんかじゃ、ぜんぜんない。だってあたしは悪い子で、それだけが事実なんだから。そう言い返しそうになりながら、けれどもマツミは、やっぱり何も言わずに黙っていました。これ以上、間違いたくはありませんでした。
「ツミちゃんはとてもいい子だから、いままでずっと、おとうさまの言うこと守ってきたのよね。それはとってもえらいことだって、おかあさん、思う。だけど、ツミちゃんがとってもいい子だからこそ、気づけないでいたことがあったの」
気づけないでいたこと?
「ツミちゃん。人はね、間違っちゃうものなのよ」
……とつぜん、額がむずがゆくなりました。
「おかあさんだってそう。おとうさまだって、そうなの。どんなに立派な人でも、いつも、どんな時でも正しい人でいるなんて、そんなことできはしないの。だって人は、神様じゃないもの」
野球バットで殴られた、その場所が。ミマミマに治してもらった、その場所が。
「だからね、ツミちゃん。大切なのは、正しいことじゃない。正しくなりたいと思う気持ちだって、おかあさんは思う」
むずむず、むずむずって、治まりませんでした。
「だってそれなら、間違っちゃってもやりなおせる……ね、ツミちゃん。そう思わない?」
「やりなおせる……」
やりなおせる……本当に? そう思うと、額のむずむずはいよいよ暴れだして、なんだか身体ごと持っていかれてしまいそうなくらいです。おかあさま、本当? あたし、やりなおせるの? 間違っちゃっても、正しくなりたいと思って、いいの?
「……おかあさまにとっての正しさって、なに?」
「ツミちゃんが幸せでいられるように、見守ること」
その言葉を聞いた瞬間です。額がぱーんと、弾けました。マツミの中にあったものが、外に向かって飛び出してきたのです。マツミは飛び出したそれに触れました。仄かに発光した、うねうねと不思議な動きをする触手。見覚えのある、この形。間違いありません。これは、ミマミマの――。
「ツミちゃん?」
マツミにはわかりました。いままでわからなかったことが、一気にわかりました。ミマミマのこと、流れ星のこと、コノや、ミッチや、イワのこと。それに――自分にとっての、正しいことも。ミマミマは、マツミの中にいました。マツミは、ミマミマでした。思いも、気持ちも、だから全部、わかります。もう、怖くなんか、ありません。
謝りに、行こう。
「ツミちゃん、行っちゃうの……?」
おかあさまが、言いました。どこかさみしそうな、その声で。足の悪いおかあさま。どこへも行けず、あたしが行ったら一人でここで、待ち続けるしかないおかあさま。やさしくて、おっとりしていて、大好きで――大好きで大好きな、おかあさま。
だいじょうぶ。
「だいじょうぶだよ、おかあさま。きっと、ぜんぶ――ぜんぶがぜんぶ、だいじょぶだから!」
マツミは窓から飛び出しました。驚くほどに軽い身体は、月夜の島を羽のように駆け抜けます。誰かが悲鳴を上げました。悲鳴に木霊し人々が、家の中から顔を覗かせ次々次々、奇天烈怪奇な声を上げます。おばけに妖怪、宇宙人。マツミを指差し好き勝手、排他の槌を振るいます。ああ、ああ、でもでもけどけどけれど! そんなことでは止まりません。マツミはもうもう、止まりません!
だってこんなの、初めてです。こんな気持ちは、初めてなのです。どこまででも行けてしまう。どこまででても走れてしまう。島から島へ、海から海へ、どこへだって、どこまでだって。そう、それはきっとあのお空の、その先の先の、その先にだって――。
世界がぐるりと、ひっくり返りました。身体のあちこちがばたばたぶつかり、痛くはないけれど衝撃に前後や上下を見失います。なに。そう思って伸ばした五指が、マツミの目の前で弾けました。身体を見下ろしました。マツミは転んでいました。手の指と同じように、ひざから下がなくなっていました。
ばらら。耳慣れない音が、辺りに響き渡りました。その音がする度に、マツミの身体は削れていきます。ばらら。肩が跳びます。ばらら。腰が抉れます。ばらら。顔が砕けます。ばらら。音が消えます。
それは、背後から訪れていました。マツミは振り返ります。ずいぶんとへんてこなマスクをした人たちが、並んでマツミを見下ろしていました。その手には、学校で禁止しているのに男の子たちが好んで持ち歩いていた物体によく似た――そうです、エアガンによく似たものを、両手で抱えていました。エアガンによく似たそれが、光りました。マツミの身体がまた一部、弾け跳びました。
痛みはありませんでした。痛みもないし、怖くもありませんでした。マツミは気づいていたのです。いまこの瞬間にも、あたしは生まれ変わってる。中にいるミマミマが、失った場所を元にもどしてくれていました。額からだけだった触手も、全身から飛び出すようになっていました。恐れる必要なんて、どこにもありませんでした。あたしはミマミマで、ミマミマはあたし。そこには、安心ばかりがありました。
しゅこーしゅこーと独特な呼吸音が、マツミの周りを囲みます。ねえあなたたち。あなたたちは、どうしてこんなことするの。あなたたちはどこの、だれ子さんなの。マツミは話をしようと思いました。この人たちはたぶん、勘違いしているだけ。ミマミマを知らないだけ。ミマミマを知ればきっと、お話できる。誤解は解ける。そう思って、話をしようと試みました。けれどそれは、適いませんでした。
掃除機のホースの、そのさきっぽの口みたいな場所から、家みたいに大きな炎が飛び出してきました。マツミへと向けられたその炎は、容赦なくマツミの身体を燃やしていきます。皮膚が剥がれ、肉が焦げ、ミマミマがそれを元へ戻すより早く、マツミの身体は小さな、小さな小さな炭の塊へと化していきました。もう、維持できませんでした。それでもマツミは、怖くなんかありません。
そして事切れるその直前、裏山見上げて燃え終えマツミは、心穏やかに祈りました。最後の最後のその最後まで、心穏やかに祈りました。
コノ。後は、お願いね――――。
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