第11話
ミ☆
タケナカおじさんが帰ってしまう。この報を受けて、ミッチの気持ちは少なからずかき乱されていました。理由はいまいちぴんときませんでしたが、成果が出ないなら予算の無駄遣いを止めて引き上げろと、偉い人から言われてしまったのだそうです。タケナカおじさんは今日の日暮れにも五十島を後にしてしまうと、あの豪快なわらいごえと共に言っていました。
おじさんがいなくなってしまうのは、単純にさみしいことです。コノやマツミ、それにミマミマといることがつまらないとはもちろん言いませんが、しかし今年はおかげで、おじさんとの時間がまるで取れませんでした。おじさんとフィールドワークに出たり、海外の見たことも聞いたこともない動物の話を教えてもらったり、楽しみにしていたそうした時間が、まるで取れませんでした。それは、とても残念なことでした。けれどいま、ミッチを悩ませている理由はそうした単純なさみしさなどではない、もっと重大な理由に依っていました。
ミマミマ。
おうちに帰らなかったコノと抱き合い、ミッチが来るまでぐっすりと眠っていたミマミマ。そのミマミマは、昨日よりも明らかに大きくなっていました。インド象より、一回り小さいくらいでしょうか。このまま成長したら、二・三日のうちにもあの二階建てのログハウスより大きくなってしまうかもしれません。それは決して、大げさな予測とはいえませんでした。だってミマミマの成長速度は、本当に常軌を逸していたのですから。
「ねえ、それでどこにするのよ」
「そんなの、ぼくに聞かれても……」
「なによ。だったらおとうさまのログハウスでいいじゃない」
「でも、ミマミマにはもう、あそこは狭いよ。たぶんすぐにも壊しちゃう」
「それは、そうだけど……」
ミッチたちは、ミマミマでも住める新しいお引越し先を探していました。もちろんそんな場所、簡単には見つかりません。この狭い五十島の中で、大きな大きなミマミマが自由に動き回れる場所なんて、そうあるはずがないのです。
三人は結局行き先を見つけられないまま、コノの提案に従って元の場所――前のミマミマを埋めたあの洞穴へ行こうと決めました。のしのし歩くミマミマを横目に、ミッチはさらに思います。大きさだけじゃない。この大きさだけが、異常なんじゃない。
昨日の、マツミの一件。マツミの怪我をたちどころに治してしまった、あの出来事。今朝当たり前の顔をしてログハウスに現れたマツミの額には、やはり傷の痕など爪の先ほどにも見当たりませんでした。あれは、夢ではなかったのです。ミマミマは本当に、マツミの傷を治してしまったのです。魔法のように、一瞬で。
あんなことができる動物なんて、絶対に存在しません。存在するはずがありません。……少なくとも、この“地球上”には。ミッチは、考えました。考えて、考えて、でも、その考えを打ち消すことはできませんでした。バカげた妄想かもしれません。言えば、わらわれてしまうかもしれません。でも、でも……もしかしたら。もしかしたら、ミマミマは――。
「二人とも、聞いてくれる?」
これじゃぜんぜん足りないわね。洞穴の前につき、用意していた食事をミマミマに与えていたコノとマツミに、ミッチは話しかけました。
「あのさ、ぼく、考えたんだ。いっぱい、考えたんだよ」
二人の不思議そうな顔を見て、言葉に詰まりそうになります。なんでもないよと言葉を取り下げたくなる臆病が、顔を覗かせます。特に、コノの顔を見て。ミマミマをミマミマの生まれ変わりと信じ、全身で大好きを表すコノを見てきて。でも、それでも。
「でも……でもやっぱり、こうする他ないって思ったんだ……ミマミマのこと」
このままにはしておけない。だってこのままにしておいたらきっと。
「おじさんに全部――」
悲しむのは――。
「話し――」
「話の途中に失礼するぜ」
ミッチの話を、誰かが強引に遮りました。マツミではありません。ミマミマでも当然ありません。ミッチの話を遮ったのは、ここにいるはずのない男の子――島一番の乱暴者、イワでした。イワはコノを後ろから羽交い締めにして、ちきちき伸ばしたカッターナイフをその首元に当てています。
「あんた――」
「動くな!」
ぐっと、コノの首にカッターナイフが押し当てられます。コノはただただびっくりした様子で、その場に硬直しています。
「なんだよ、一目瞭然じゃねーか」
硬直するコノを伺うように首を曲げたミマミマ。そのミマミマを、イワは見上げて言いました。あんまりにもあっさりと、言い放ちました。
「こいつだろ、流れ星」
横目でミッチは、見ました。マツミが、悔しそうな顔をしているのを。驚いたのではなく、悔しそうであったのを。イワも、それで確信したのでしょう。勝ち誇ったように、口元を歪めました。
「ち、違う、そんなこと――」
「うそつきは黙れよ」
言われてマツミは、押し黙ってしまいました。思い当たる所があったのでしょう。苦々しい顔をして、イワをにらんでいます。そんなマツミを見て、イワが吐き捨てるように言いました。
「こんな意味不明ないきもん、自然にいてたまるか」
ミッチも、まったくの同意見でした。マツミにしても、表立って認めることはなくとも内心では同じ気持ちでしょう。ミマミマは、余りにも自然離れしている。それがごく普通の、一般的な感覚なのだとミッチには思われました。……ただ、ただ一人。
「……そうだよな」
コノだけは。コノだけは、みんなが何を言っているのかわからないと言った顔をして。普通とか、一般的とか、そんな感覚抜きに、ただただ大好きの気持ちだけで、大きく大きく育つミマミマを見ていて。
「コノ。お前はそういうやつだよな」
お前だけは……。イワが小さくつぶやきました。その姿はなんだかずいぶんと頼りなくて、いつものイワから感じる乱暴な気配がまるでありません。それなら――ミッチは、意を決します。
「い、イワ!」
「あ?」
イワが手元のカッターナイフを、再びコノに押し付けます。乱暴なあの気配が、瞬時にもどってしまいます。ミッチは慌てて、弁明しました。
「ま、待って! きみの邪魔するわけじゃないんだ!」
イワは疑うような視線で、ミッチをにらんでいます。その視線に生唾ひとのみ、乾きそうになる口の中を唾液で濡らして、ミッチは話を続けます。
「き、きみの目的は、ミマミマをおじさんに届けて一〇〇万円を手に入れること。そうでしょう?」
「……ああ」
「それなら……それならぼくも、きみに協力するよ」
「ミッチ!?」
悲鳴のように、マツミが叫びました。それはたぶん、至極当然の反応で。ミッチにも、マツミの気持ちはわかって。でもだからこそ、ぼくが言わなきゃいけない。ミッチは泣きそうになる自分を諌め、マツミと向き合います。
「マツミは、一〇〇万円なんて必要ないよね。ぼくも、図鑑は諦めるよ。だからイワに、上げちゃおう。それがたぶん、一番いいんだ。いいんだよ」
「なにいってんのよそんなの、約束したじゃない、あたしたちで育てるって――」
「ぼくたちだけじゃもう無理なんだ!」
思った以上に大きな声が出てしまいました。マツミがびっくりした顔をしています。それに、ミッチ自身も。だけど、それで止まるわけにはいきません。説得を、つづけます。
「マツミだって言ってたじゃないか。これ以上大きくなったら、ご飯の用意もできなくなるって。おうちだって用意してあげられないし、それに……ミマミマが何をできるのか、本当のところ、ぼくたちは何もわかってない。マツミはバカみたいって言ってたけど、微生物とかウイルスとか、ぼくたちにはそういうことも調べられない。もしミマミマが病気になったとして、ぼくたちには何もできない」
「なんでよ……これまでうまく、やってきたじゃない……」
「おじさんなら、信用できるから。たまに会わせてもらえるよう、ぼくから頼むから」
「でもそんなの……そんなのあんまり、薄情よ……」
「いっぱいお願いするから。ぼく、おじさんにいっぱい、お願いするから……」
マツミが泣き出してしまいました。泣いて、でも、それ以上の反論はしてきませんでした。ミッチも、泣きたいと思いました。だけど、まだです。泣くのはやるべきことを終えた、その後です。
「聞いてのとおりだよ。イワ、ぼくはきみをおじさんのところへ案内する。だからもう、その危ないものをコノから離して……。だからお願い、理解して――」
言って、ミッチは視線を移します。イワのほんとにすぐ隣の、彼と、向き合う為に。
「コノ、きみも」
コノは、少しだけ頭の回転が鈍い子です。それ自体が悪いわけではありません。自分やマツミにはなくて、彼の持ってる素敵な部分を、ミッチはたくさん知っています。でも、それとは別に、彼が物事の理解を苦手としていることは疑いようのない事実です。ミッチたちの会話をコノがどこまで理解しているか、半分もわかっていないかもしれません。
それでもミッチは、コノに理解してほしいと思いました。理解して、その上で納得して、ミマミマを送り出して欲しいって。コノが気付かないうちにミマミマを連れ出し、おじさんに引き渡すことも、やろうと思えばできたかもしれません。でも、そんなふうにはしたくありませんでした。だって、ミマミマ一番の友だちはどう見たって、コノです。知らない間に友だちと引き裂かれたらどれだけ悲しいか、それくらいミッチにだってわかります。だからミッチはコノに、納得した上でのお別れを選んでほしかったのです。
それは、ミッチのわがままかもしれません。自分にとって、都合のいい考えなのかもしれません。けれどミッチには、他に思いつきませんでした。みんなの“悲しい”を最小限にする方法を、他に思いつきませんでした。
コノは、動きませんでした。
「……なあコノ、なにも、一〇〇万じゃなくっていいんだ。お前とだったら、山分けでいい。こいつを持っていってさ、俺とお前で五〇万ずつ、もらってこようぜ」
羽交い締めはしたままに、けれどカッターナイフを下ろしてイワが、コノの説得を始めました。不気味なくらいにやわらかな声色で、まるで誰か、イワじゃない別人みたいに。
「いいよ。なんなら俺が、三〇でもいい。二五でもいい。お前が七五で、分けたきゃそいつらと分けたっていいよ。それだって充分だ。このクソみてぇな島から出ていくには、それで充分だよ。だから、コノ」
すがるみたいに。
「金がいるんだよ。島の外に行く金、このクソみてぇな五十島から離れるための金が」
泣き出してしまうみたいに。
「それで、島の外に行って、それで……」
崩れ落ちてしまうみたいに。
「親父にも、まともな治療を受けさせてやるんだ。全部、元に、もどすんだ……そしたら――」
年相応、みたいに――。
「そしたらさ、そしたら俺たちだって――」
いやだ。
コノが、言いました。屹然とした、コノらしからぬ声で。短く、はっきりと、拒絶を、示しました。
「……なあコノ。それってさ」
イワの、ふるえた声。
「俺じゃなくて、この怪物を選ぶってことで、いいのかな――」
――コノは、答えませんでした。
「……そうかよ」
あ、と、声が漏れました。カッターナイフを逆手に握ってイワが、拳を高く掲げたのです。
「そうかよぉ!!」
その後のことは、すべてが一瞬でした。ミッチは見ました。カッターナイフを握りしめたイワが、それをコノに向けて振り下ろそうとしたのを。それが、途中で止めらたのを。イワの腕に、ミマミマの触手が絡みついたのを。それで、それで――イワの身体が、溶け始めたのを。
「……あーあ」
ぐずぐずと溶けていく自分の身体を見下ろし、イワがさみしそうにわらいました。わらって、そしてイワは、こんなふうに、こぼしたのです。
昔はよかったなあ――。
それで、おしまいでした。イワの姿はもう、どこにも見つかりません。イワがいた場所には彼が来ていた衣服と、いつも巻いていた空色りぼんと、ぐじゅぐじゅと粘性の高い液体が広がるばかりでした。
ミッチは、足元にまで滑ってきたイワのカッターナイフを拾いました。そしてそれを、見てしまいました。ちきちき伸ばされていたカッターナイフには、物を切るための刃が付いていませんでした。
「……なに。なんなの?」
マツミがつぶやきました。ミッチにも、わかりませんでした。――いえ、わかりたく、ありませんでした。目の前で起こった出来事を理解したくないと、頭が現実を拒絶していました。
だって、これって、イワ、死――。
「いやあ!」
マツミが悲鳴を上げます。見るとミマミマが、マツミに向かって触手を伸ばしていました。その速度は緩慢で、避けることはむずかしそうには見えません。けれど半狂乱となったマツミはよろけて、転んで、前後不覚に陥っていました。そうして倒れたマツミに、更に増えたミマミマの触手が伸びていきます。
「やだ、やだあ!!」
這いずった状態から転げるようにして、マツミが跳ね回ります。そしてなんとか立ち上がったマツミは勢いそのままに、裏山を駆け下りていってしまいました。意味不明な言葉ともつかない叫びが、すさまじい速度で遠く小さく消えていきます。
「コノ!」
頭がおかしくなってしまいそうでした。コノはミマミマに抱きついて、ミマミマもまた触手でコノを抱きしめて、ふたりがくっつきあっているその光景に、ミッチはおかしくなってしまいそうでした。
「ブゥーン!!」
何の返事もありませんでした。コノはこちらを振り返りもしてくれませんでした。動悸が激しく、何かを考えるなんて、もう、無理でした。ミッチにはもう、限界でした。助けが必要でした。助けてくれる人が必要でした。自分以外の、どうにかしてくれる人が、ヒーローが、必要でした。
コノとミマミマに背を向けて、ミッチは山を駆け下ります。あの人なら、あの人ならなんとかしてくれる。あの人の下へ行けばなんとかしてもらえる。まだ間に合う、まだ間に合うはず。まだこの島にいるはず。まだ帰っていないはず。いれば聞いてくれるはず。ぼくの頼みを聞いてくれるはず。そのはず、そのはず、あの人なら。あの人――タケナカおじさんなら。
「おおミッチ、来てくれたのか! 見送ってくれないのかと思って、おじさんさみしかったぞ、わははは!」
波止場で帰りの支度をしていたタケナカおじさん。いつもの笑い声で迎えてくれたおじさんに、ミッチは叫びました。焼けそうなのどを振り絞り、ただただ頭に浮かんだその言葉を叫びました。
ミマミマを助けて!
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