第10話

   ミ☆


 あれは、いつのことだったろうか。目を閉じイワは、思い出します。物心つくかどうかといった頃、イワは本州から母の実家の五十島に越してきました。当時のイワは大変な人見知りで、大人だけでなく同い年くらいの子どもも怖くて、右を向いても左を向いても知らない人ばかりの島の生活に、泣いてばかりの毎日を送っていました。

 あんまりにもひどいイワの人見知り。それを見かねておとうさんが、働いていた工場の催しが開かれるたび、イワを連れて行くようになります。もちろんイワは、知らない人ばかりの集まりにいやだいやだとぐずります。けれどおとうさんも頑なで、泣きじゃくるイワを抱き上げ無理やり運んでしまいます。イワには成すすべがありません。

 それはおとうさんに連れてこられて何度目だったか。その日もイワは、おとうさん、帰りたい、おかあさん、帰りたいと訴えて、けれど聞き入れてもらえず、仕方なく隅っこでお菓子を食べ、苦しい気持ちをまぎらわせていました。

 そこで、彼は出会いました。自分と同じく、おとうさんに連れてこられたその男の子と。

 きっかけは、些細なことでした。じーっと自分を見ている男の子にイワは居心地の悪さを感じながら、早くどこかへ行って欲しいと祈っていました。けれど祈りは届かず男の子はあろうことか近寄って、「おいしい?」と話しかけてきたのです。イワはもう、パニックです。どうしたらいいかわかりません。わからないけど、わからないながらに、男の子がお菓子を欲しがっていることには気がついて、それを上げると、渡しました。

 男の子は「いいの」と言いながら、ほとんど待つことなくお菓子を受け取り、ぱくぱくむしゃむしゃ、あっという間に平らげてしまいます。そして――そして男の子は、満面の笑みを浮かべ、こう言いました。「ありがとう!」。

 それは、不思議な感覚でした。いままで感じたことのない、なんともいえない感覚。くすぐったいような、身体がむずむず動き出しちゃいそうな。イワは他のお菓子も取り出して、男の子に差し出しました。「……たべる?」「いいの!」。男の子は、遠慮なんか知らずに、与えられたものを与えられるだけ食べてしまいました。その食べ方が、そして食べた後に必ず返ってくる「ありがとう」が、なんとも形容することのできない感覚をイワにもたらしたのです。

 後日、その子はイワの家にやってきて、お礼と言って細長い布切れをプレゼントしてくれました。晴れの日とおんなじ、空色のりぼん。光に透かすときらきら光るそのりぼんは、男の子の宝物だったのだそうです。でも、宝物のりぼんよりもイワの方が大事だと、男の子は言いました。「イワちゃん大好き!」。そう言って男の子は、太陽みたいにわらいました。イワもおんなじ気持ちでした。この子とずっと、なにがあっても一緒にいたい。これからもずっと、ずっとずっと。そう、思いました。

 コノ。ぼくの、初めての友だち。

 爆発による、ガス漏れ事故。おとうさんが働いていた工場で起きた、けれど起きなかったことにされた事故。大規模に発生したその事故では多くの工員がガスに呑まれ、意識不明の重体に陥りました。けれど幸いその後の処置も適切で、大多数の工員は後遺症もなく早々に職場復帰を果たします。何事もなかったかのように、働き始めることができたのです。

 そう、大多数は。

 イワのおとうさんは、二人いた例外のうちの一人でした。頭をやられたおとうさんは人が変わったように乱暴になり、おかあさんにも、イワにも暴力を振るうようになります。工場からは解雇され、退職金として渡された金もすぐに食い潰し、そうすると近隣にたかりだし、気に食わないことがあるとすぐに暴れるような生活を送るようになりました。

 始めは同情的な視線を向けていた島の人も、すぐに愛想を尽かします。愛想を尽かされて、おとうさんはますます乱暴に拍車をかけます。至るところで問題を起こします。

 そして、ついにその日がやってきました。島のおばあさんをおとうさんが大怪我させて、さすがに看過できないと逮捕されたのです。おとうさんが犯罪者に。それは、イワにとって非常にショックな出来事でした。けれどもし、もしもただの犯罪者であれば、イワのこれからはまだしもマシなものになっていたかもしれません。

 おとうさんは、犯罪者にはなりませんでした。病院に送られたのです。頭の病院に。そしてそこは病院とは名ばかりの、狂人をつなぎとめておくことしかしない牢獄だったのです。一度だけ、おとうさんに会いに行ったことがあります。おとうさんはイワを見てもイワとわからず、誰に向かっているかも定かでない様子で、叫んでいました。「俺はおかしくない。おかしいのはお前らだ」。

 今でも件の工場は、おばけ煙突からもくもく煙を吐き出し稼働を続けています。それが、島の人間の総意でした。気の狂った人間未満なんかより、島の利益。それが、彼らの本音だったのです。結局、全部、金でした。

 工場は事故なんか起こしておらず、イワのおとうさんはただただ頭がおかしかった。最初っから、気狂いだった。そういうことにされました。そうして大人たちはおとうさんだけでなく、おかあさんや、イワのことも腫れ物のように扱い出します。そしてその特別扱いは、子どもたちへと容易に伝播します。最悪の形で、伝わっていきます。

 イワは、強くならなければなりませんでした。強くならねば、いつまで経っても抜け出せない。石当ての的から、雑巾を口に突っ込まれる遊びから、階段から突き落とされる度胸試しから、いつまでも経っても抜け出せない。強くならねば。

 強くならねば。

 イワは、強い人のふりをします。乱暴で、いつも不機嫌で、恐れ知らずで――怒っていて。同級生にも、先生にも、島の大人にも同じように、強い自分を見せつけました。次第次第に、イワを見る周りの目が変わっていきます。“イワはそういうやつだ”という風潮が、強固に形成されていきます。強いイワが、作られていきます。

 それは始め、確かに演技だったのです。乱暴なふり、怒ったふり、憎んだふり、強くなるための、それはただのふりだったのです。けれど周りがイワを“そういう”人物だと見ていくうちに、イワはいつしか演技の気持ちに呑まれていきました。いつも怒って、怒って、怒ることに後悔しても、苦しく感じても気持ちを抑えられず、怒ることしかできなくなってしまいました。

 誰も彼もが、憎くて仕方ありませんでした。同級生も、先生も、島の大人も、おとうさんを見捨てたおかあさんも、ガスなんかで狂ったおとうさんも、みんな、みんな、憎くて、憎くて、仕方ありませんでした。何もかもが憎くて、憎くて、仕方ありませんでした。

 たったひとりの、例外を除いて。

 コノ。俺の、ゆいいつの友だち。

 うそをつくときに、下唇を噛むくせ。そんなくせ、うそっぱちです。コノはうそをつきません。うそをつかないのだから、そんなくせなんかあるわけないのです。だからコノは、うそなんかついていません。

 でも、コノは隠し事をしています。誰にだってわかります。くちびるを噛まないよう、あれだけ慌てていたら。何を隠しているのかまでは、もちろんわかりません。でも、イワには予感がありました。コノが隠しているのは、おそらく、きっと――。


 夕の赤に染まったコノは家へと帰らず、降りたばかりの裏山へと再び登っていきます。その姿をイワは、隠れて見ていました。コノからもらった空色りぼんに触れながら、裏山へ消えていくコノの背中を見つめていました。

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