第1話

   ミ☆


 はっけよい……のこった! のこった! のこった!

 五十島いたしまの男の子たちが、今日もいつもの空き地で遊んでいます。威勢よくぶつかって、押し合って、足をすくって器用に投げて。どうやら今日は、みんなでお相撲を取っているようです。やんややんやと囃し立てて、土俵の二人を応援して、かと思えば口汚い野次を飛ばして、子どもたちは思い思いに楽しんでいました。

 暑い日差しに肌を焼かれて、いまこの輪の中心にいるのは二人の男の子。ひとりは同級生よりも一回りも二回りも大きい巨漢の子。もうひとりは、長い髪を空色のりぼんに束ねたやせっぽちな男の子。まるで大人と子供の体格差です。けれどやせっぽちの男の子はまるで臆した様子なく、堂々と土俵に立っています。どころか彼は挑発するように、人差し指を曲げて巨漢の子を招きます。巨漢の子は目の前の男の子を鋭くにらみ、握った拳を地面に付きます。二人が正面に向かい合って、さあ始めるぞと行司が団扇を掲げ――振り下ろしました。

 勝負は一瞬で決着しました。やせっぽちの男の子の、瞬時に飛び出したその勢いになすすべなく、巨漢の男の子は土俵の外へと一直線に押し出されてしまったのです。

「イワくんすげー! これで十連勝だー!」

 観衆が沸き立ちます。それもそのはず、イワと呼ばれた彼は誰にも負けない無敗のままに、十人抜きを果たしてしまったのですから。これは彼ら子どもたちの間において、大変な偉業といえました。けれどイワは仲間たちの声を気にするふうもなく、いつもの仏頂面で周りを見回しました。

「次」

 年の割に低い声で、イワが挑戦者を募ります。でも、誰も名乗り上げません。それもそのはず、無様に負けるとわかっていながら挑むだなんて、そんな恥ずかしいことできるわけがないのですから。結局その場の誰もが沈黙したまま、周りを見回していたイワはある一点を凝視して、一人の男の子を指名しました。 

「コノ」

 男の子の周りから、さっと他の子達が離れます。

「来い」

 そういって、イワが手招きします。だけどコノは驚いて、すぐには立ち上がることができませんでした。だって今日は、見ているだけでいいと言われたから付いてきたのです。相撲を取るつもりなんて、コノはまったくありませんでした。

 コノの気持ちなんかまったく他所に、指名をおそれて黙り込んでいた観衆がまた騒ぎ始めます。コノ、コノ、のろまのコノ、まぬけのコノ。コノなんかじゃ、一秒だって持たないぜ。せいぜいいいとこ見せてみろー。笑わせてくれー。げらげらげら、げらげらげら。みんな、勝手なことを言ってきます。いよいよコノは縮こまって、動けなくなってしまいました。

 ばしん! と、大きな音が辺り一帯に響き渡りました。イワが地面を踏みつけたのです。その音で、あれだけ騒いでいた観衆が一斉に押し黙りました。

「コノ」

 イワがもう一度、コノを呼びます。それは、怒っている声には聞こえませんでした。イワを見つめていると、イワがうんとうなづきました。コノは立ち上がりました。そうして、手招きに応じて土俵に上がります。みんながしていた見様見真似に両の拳を地面に付けて、構えます。目の前のイワと、向き合います。間の行司が、団扇を掲げます。そして――はっけよい、のこった!

 コノは飛び出しました。飛び出して、同じように飛び出してきたイワと正面からぶつかります。けれど二人ぶつかって、その衝撃は思ったほどのものではありませんでした。イワが、コノの身体をつかみます。コノもおんなじように、イワの身体をつかみます。前へ前へとぐいぐい押そうとしますが、イワはまるで下がりません。けれどコノも、まるでぜんぜん後ろに下がりはしませんでした。

「足、蹴れ」

 耳元で、ささやき声が聞こえました。コノにしか聞こえないような、小さな小さなささやき声。イワの声です。対戦相手であるイワが、コノに向かってささやきかけていました。

「いいから蹴れ。蹴り転ばすんだよ」

 イワがさらに続けます。見れば、イワの足は片方が、コノにとってずいぶんと蹴りやすそうな場所に位置していました。イワはこれのことを言っているのでしょうか。でも、どうして? 疑問符が浮かびます。イワはコノとお相撲で戦っているのではないの?

 がっぷりつかみあったままの硬直。この異変に、観衆がどよめきました。どうもありえないことが起こっている。あのコノが、まぬけのコノがイワくんと互角の勝負をしているだなんて。その光景を、素直に受け取る者は一人もいませんでした。コノすごい、コノがんばれと賛辞や応援を送るのではなく、疑いの目を向けたのです。イワはもう一度、それまでよりも強い口調で言いました。蹴れ、蹴れ。言われてコノも、自分の足を意識します。けれどコノにはどうしても、イワを蹴ることはできませんでした。イワを蹴るなんて、そんなこと。

 その間にも膨れ上がった疑いは、もはや確信となって攻撃しやすい対象――即ちコノへの批難となって吹き出します。子どもたちは口々に吐き捨てました。イカサマ、イカサマ、コノのイカサマ八百長やろー。お前なんかゼッコウだ! 批難の声は留まることなく膨れ上がり、合唱となって繰り返されます。イカサマ、イカサマ、コノのイカサマ八百長やろー。お前なんかゼッコウだ!

 お前なんか、ゼッコウだ!

「なにやってんのよあんたたち!」

 狭い空き地の入り口に、みんなの視線が注がれました。そこには一人の女の子。眉と目尻をぐぐっと吊り上げ女の子は、ずんずんずんずん構わず土俵に上がりこんで、大きな声でもう一度、みんなに向かって言いました。「なにやってんのよあんたたち!」。白けた空気が漂います。「なんでマツミがいんだよ」「めんどくせー」。そんな声が聞こえてきます。マツミという名のその女の子にも、それらの声は届いていました。だけどもマツミはぴーんと胸を張りに張り、まったく臆せずにらみます。にらんだ瞳のその先には、無敗の王者のイワ関。

「……なんだよ」

「なんだはこっちのセリフなのよ! よってたかっていじめちゃって、来年にはあたしたち、一〇歳にもなるのよ。もういつまでも子どもじゃないのにまだこんな間違ったことばっかりして、あんたたち恥ずかしいと思わないの!」

「決めつけんなよジコチュー」

「なにがよ!」

「俺はただ、コノを励まそうとしただけだ」

「わけわかんない! わかるように言いなさい!」

「飼ってたペットがくたばったんだとよ。だから催し開いて、元気づけようってわけだ。なあ、お前ら!」

 二人の舌戦を見守っていた観衆が、イワの言葉に便乗します。そうだそうだ、俺達は励ましてただけだ。コノのためだ。お前なんかお呼びじゃねーの。引っ込めぶーす。帰れ帰れ。意を得た彼らは今度は帰れと、声を合わせて叫びます。マツミは拳を握りしめ、結んだ唇を震わせて、目尻にはうっすら涙が溜まります。でも、それで引き下がるマツミではありません。

「だったらさっきのは何よ、ゼッコウゼッコウって! あたし、ちゃんと聞いたもの。ごまかされたりなんかしないんだから!」

 マツミは必死になって言い返しますが、一度始まった帰れのコールは鳴り止みません。帰れ、帰れ、帰れ。マツミは逃げませんでした。行司の団扇を乱暴にひったくって、それを観衆に向かって投げつけます。投げつけて、彼女は叫びます。「あたしは間違ってない!」。

「おお怖い怖い。首切り判事の娘はやっぱり、独りよがりで横暴なんだな」

 イワの言葉に、周囲が更に呼応します。えんざいえんざいえーんざい。マツミのとーちゃん首切り判事ー。マツミはいよいよかっかして、その場で地団駄踏みだします。

「お父様を侮辱するな! お父様は間違えない、間違えたりなんかしない!」

 マツミが怒れば怒るほどにおもしろがって、笑い声は際限知らずに膨れます。この時にはもうマツミの目からはぽろぽろぽろと、玉のような涙がこぼれていました。それでもマツミは引きません。観衆の中心に、子どもたちの親分に向かって、今までで一番大きな声で叫びました。

「あんたのおとうさんなんかと一緒にしないで!!」

 周囲が、一瞬で静まり返りました。うぐっと潰れた吐息が、マツミの口から漏れ出します。イワが無理やり、マツミの胸ぐらをつかんだせいです。いまにも食い殺してしまいそうな血走った目で、イワがマツミをにらみます。その視線を受けて、でも、マツミは更に続けました。

「やれるものならやってみなさいよ。そしたらあんた、逮捕だからね! 裁判にかけられて、有罪になっちゃうんだからね!」

 張り詰めた時間、張り詰めた空気。つばを呑むことすらはばかられる緊張。無限に続くかのように思われたその静寂を真っ先に破ったのは、イワでした。

「冷めた」

 言って、イワがマツミを放します。マツミを放してそのままイワは、空き地から出ていってしまいました。イワくん、イワくん。観衆に甘んじていたイワの仲間が、親分の後を追ってぞろぞろ空き地から出ていきます。

 コノもそれに続こうとしました。マツミが現れて、ここで何が起こっていたのかさっぱり理解していないコノはどうしていいのかわからず、何を考えるでもなく人の波に乗ってついていこうとしたのです。けれどその足はイワの手下が放った容赦のない一言で、ぴたっと止まってしまいます。

「ついてくんなよ、知恵遅れ」

 コノは空き地で、二人ぽっちに取り残されてしまいました。

「あんた、怪我は」

 鼻をすんすん鳴らしながら、マツミが問いかけてきます。コノはぐるりと身体を見回し、なんにもないと答えました。するとマツミは、急にかっかと怒り出します。

「あんたも嫌なら断りなさいよ、どうしてされるがままなのよ!」

 息つく間もなくばしばしと、言葉のマシンガンが飛び出します。コノは困ってしまいました。どうしてマツミは、こんなに怒っているのだろう。困ったな、困ったな。そう思って、けれどコノに手立てはありません。ただただこのままたちんぼして、マツミが鎮まるのを待つ以外にないのです。このマツミという同級生の女の子のことが、コノはちょっぴり苦手でした。いっつもぴりぴり怒っていて、クラスの誰より怖かったのです。

 その時です。空き地の端の木陰から、がさごそと草の倒れる音が聞こえました。コノもマツミも、音のした方へと目を向けます。孤独なその木を盾に、こちらを覗く人影ひとつ。視線に気づいて、ぴゃぴゃっと姿を隠します。

「隠れても無駄よミッチ、あんたがそこにいたことあたし、ずっと知ってたんだから!」

 木陰の裏からは、何の反応もありません。

「あんたコノの友達でしょ、どうして助けに来なかったのよ!」

 ミッチ! マツミがもう一度叫びます。反応はありません。地面に落ちた団扇を、マツミが放り投げました。かさり。ぺらぺらな団扇の紙が、孤独の木とぶつかります。ミッチが陰から飛び出してきました。本当に、そこにはミッチがいました。ミッチは何も言わないままに、いっぱいの涙を目元に溜めて、それからすぐに、ばっと勢い走り出します。

「そうやってすぐ逃げる!」

 もどってきなさい。そう言っている間にもミッチの姿は小さくなって、もうその背も見えなくなってしまいました。マツミはまた、ぷんぷんと怒っています。コノは、ぼんやり考えます。どうしよう、どうしようかな。コノも空き地、出ていこうかな。でもマツミ、怒るかな。怒られるのは、やだな。コノは困って、困って困って、お空を見上げました。お空には鳥が群れをなして、気持ちよさそうに飛んでいます。ぴゅいー、ぴゅいー、楽しそうに鳴いています。あ、そうだ。行くとこ決めた。空を飛ぶ鳥を見て、コノは思いつきました。

「あんたね、ありがとうくらい言えないの!」

 藪から棒に、マツミがコノに言ってきます。ありがとう。なんのだろう。マツミの言葉が何を指しているのかコノにはいまいちわかっていませんでしたが、それでもマツミがコノのために何かをしてくれたらしいこと程度は、コノにもうっすら理解できました。だからコノは、言われたとおりにお礼をいいます。ありがとう、マツミ。ありがとう。

「……そうよ、それでいいのよ。お礼を言えたのは正しいことだわ、褒めてあげる」

 ふんと鼻を鳴らしつつ、それでもマツミは機嫌を取り戻したようでした。ああよかった、一安心。その後マツミは、もうあいつらと付き合っちゃだめよと言い残し、島の裡へと帰っていきました。最後に残ったコノはけれどもう、行き先だって決めています。島で一番高いその場所。裏山見上げ、思います。

 うん。ミマミマに、会いに行こう。

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