第20話
俺がそう直感した時には、美耶は腕を突き上げるようにして固まっていた。普段の彼女からは想像できない、凄まじい迫力だった。
びくり、と一瞬痙攣し、動きを止める通り魔。
恐らく美耶は、指の間にクナイを挟んで突き上げたのだろう。相手が防刃ベストを着用していたとしても、首の下あたりは無防備であることが多い。
それを承知した上での、まさに殺人拳だ。
「やった……のか?」
そんな俺の言葉に続き、摩耶がごくり、と唾を飲む。美耶は通り魔を殺してしまったのか。
しかし次のアクションを起こしたのは、通り魔の方だった。
片手で美耶の腕を押さえる。もう片方の手でも美耶の残りの腕を握り――あれ?
俺の開いていた口が、もう一センチほど広がった。通り魔は美耶のクナイを握り締めていたのだ。
まさか素手で? いや、違うな。何かを腕に嵌めている。通り魔は、摩擦力の極めて高い防刃性の手袋を装着しているのだ。
指紋の抹消と、防御性能の向上。まさに一石二鳥の代物。
って、呑気に分析している場合じゃない。
「美耶っ!!」
摩耶の悲鳴が、俺を現実に引き戻した。
美耶を突き飛ばした通り魔は、掴まれた方の手を庇いながら自分のナイフを握り直した。これでは美耶は確実に刺殺されてしまう。
だが、いや、だからこそ、月野姉妹は二人で立ち向かったのだ。より正確には、その二人が姉妹という近しい関係だったから。
それがどんな気持ちなのか俺にも想像はできるが、実感できる機会は、もう二度とはやって来ない。いや、これも後で考えればいい。今は美耶を救わなければ。
余裕を見せつけたかったのか。通り魔は、すぐには美耶を殺そうとしない。首をぐっと掴み上げ、腕を伸ばして、美耶の華奢な身体を引っ張り上げる。
あまりにもあっさりと持ち上げられて、美耶はバタバタと足を振り回した。
「……ッ! ん……!」
美耶が苦し気に呻き声を上げる。それに応じて、通り魔は身体の向きを変える。そうして摩耶の方へと、美耶を突き出した。
これでは攻撃などとてもできない。少なくとも、摩耶の方からでは。
ええい、こうなったら実力行使だ。俺だって参戦してやる。
俺は、全身を口にするところを想像して叫ぶことにした。喉が震えようが、首筋が攣ろうが、血中酸素濃度がおかしくなろうが、んなことどうだっていい。
俺は必死だった。そしてはっきりと自覚した。摩耶も美耶も俺の妹で、大事で大事で大事な家族だ。それを、眼前の通り魔は引き裂こうとしている。
「てんめえええええええええ!!」
俺のことなど視界に入っていなかったのだろう。俺の絶叫に、がばりと振り返る通り魔。
すると、通り魔は狼狽えた。それはそれは見事に狼狽えた。少なくとも、ナイフを取り落とす程度には。
「おんどりゃあああああああああ!!」
俺は手にしていたタイル片を、思いっきり投げつけた。
その瞬間、俺は自分が大した馬鹿野郎だと察した。
最悪の場合、犯人が美耶を盾にすることだって考えられる。その時にタイル片が美耶に当たってしまったら。
「うわっ、わああああああああああああああ!!」
しまった、と思った時には遅すぎた。最悪の場合というものを、犯人はしっかりと実行してみせた。これでは俺は、犯人の手伝いをしたみたいじゃないか!
結論を言うと、そんな事態には陥らなかった。
ドン、という重量感溢れる衝撃が、通り魔の腰部に直撃したのだ。がら空きだった背後から。
思いがけないタイミングでの、何者かによる緊急参戦。あまりにも見事な跳び蹴り。
誰にでもできることではないと思うが、とにかく美耶は助かった。
呆気なく、誰に衝突することもなく落着する俺の投擲物。
代わりに摩耶が降ってきた。といっても、上空から降ってくるという夢のある降り方ではない。
その場で跳躍し、一瞬だけ滞空。身体を捻じって空中回し蹴りを繰り出す。摩耶のブーツの底が、勢いよく犯人の脇腹にめり込んだ。
ぐえっ、という無様な声。いや、声じゃない。肺から無理やり排出された空気が声帯を不器用に震わせる、不快な音だ。
すかさずさっきの跳び蹴りを見舞った女性が、通り魔をうつ伏せにして手錠を掛けた。
「一七二二、被疑者確保!」
《了解! 付近警戒中の捜査員をそちらへ送る! 絶対に逃がすなよ!》
「了解!」
この突然の逮捕劇に、俺と月野姉妹は完全にアウェーな気分。
すぐさま、様々な格好の人々が駆け寄って来た。こんな状況でもなければ、彼らが変装した刑事たちだとは思わなかっただろう。
ぼんやりと事態を見守っている間に、犯人は連行されていった。黒い影のような格好で、パトカーの後部座席に押し込められていく。すげえ、リアル逮捕。
ふうっ、と、やたら大きな溜息が三つ。無論、俺と月野姉妹のものだ。
そして、
「あ~~~っ、肩凝ったあ~~~!」
というのは、あの麗しの清水樹林先輩の声で――って、あれ? どうして今、ここで清水先輩の声が聞こえるんだ?
互いの健闘をたたえ合う月野姉妹を置いて、俺は声のした方に向かう。次々に黄色いテープとブルーシートが張り巡らされていく中で、俺はやっと目的の人物を見つけた。
「あ、あのっ!」
何と声をかけたらいいものか。俺は、こちらに背を向ける女性のすぐ後ろで地団太を踏んだ。
女性はといえば、無線機を手にしてあちこちに指示を飛ばしている。一体どのタイミングで声をかければいいんだ? そんな俺の疑問と不安に一挙に答えるかのように、その女性は振り返った。
「やあ、さっくん」
「あ、ど、どうも……」
疑いの余地はない。この女性は、清水樹林先輩だ。
安堵からか疑念からか、俺は随分と失礼なことを口にした。
「先輩、いつの間にそんなに太ったんですか?」
「ん? ああ、これね。偽装潜入用の特注スーツなの。体格を誤魔化せるし、血飛沫も結構出るでしょう? ただの血糊なんだけど」
なるほど。体格の不一致と、太陽による逆光という要素が相まって、俺には先輩が赤の他人に見えていたのだ。
いやしかし、そうは言っても。
「清水先輩、どうして警察の仕事の手伝いなんてやってるんです?」
「あら、おかしい?」
「おかしいです! なんで現役の大学生がこんな危険なことを!」
「ふーむ、そうだねえ」
先輩は一度、汗の滲んだ額をハンカチで拭った。
「今時間ある? ちょっとだけなら、さっくんに教えてあげてもいいよ。お連れのお二人さんには難しいけど」
「へ?」
先輩の視線を、自分の目で辿ってみる。その先にいたのは、やや息を荒げた月野姉妹だった。摩耶は危ないところだったし、美耶に至っては首を絞められていたのだから、呼吸が乱れるのも当然か。
「行きましょう。あの二人に気づかれないうちに」
「わっ、分かりました……」
※
俺が連れ込まれたのは、通り魔が乗せられたのと同じタイプのパトカーだった。それも後部座席。
こんな時でも冷房による安らぎを求めてしまうあたり、もしかしたら俺の神経は意外と図太いのかもしれない。
「あ~あ、暑いわね!」
「ええ。先輩はあんなぶかぶかの防刃コート着てたんだから、なおさらでしょう」
「あら、気遣ってもらえるなんて光栄ね」
そう言いながらコートを分離しつつ、脱いでは助手席に積み上げていく先輩。
自分のブラウスのボタンを上から数個開け放ち、そのままパタパタと胸元へ風を――っておい!
俺は短い悲鳴を上げて目を逸らした。なんて無防備なんだよ、この先輩。
前後の座席の間がアクリル板で仕切られているから、俺には手を出せない。だから無防備でも構わない。――なーんて、軽い気持ちでいられては、困ってしまうのは俺の方なんだが。
ええい、煩悩を捨てて作戦立案だ。
「どっ、どこに向かおうってんですか?」
「できるだけ騒がしいところがいいわ。盗聴されにくいし。でも警察署とか交番みたいな、お役所の末端みたいなところは駄目。あなたの妹さん? あの二人が私たちと同じ交番や警察署に尾行されたら、私たちの話を聞かれる可能性がある」
さり気なく入ってきた『妹』という言葉。俺は慌ててハンカチを鼻に当て、咳き込んでみせた。もごもごと先輩に尋ねる。
「えっ? でも、目撃者の証言って大切なんじゃあ……?」
「んー、まあね。本当はそうなんだけど。でも、月野姉妹が受ける事情聴取と、私があなたから新しい情報を仕入れることは、まったくの別問題なの。あなたたち三人が口裏を合わせない、っていう可能性も捨てきれない。申し訳ないんだけれども、その前にいろいろと証言してもらわなくちゃね」
ふむ。確かに俺たちが警察、ひいては社会に対してなんらかの対抗策を取るとすれば、三人協力体制で臨むことになるだろう。少なくとも、俺はメンバーから外れてしまったようだが。
「行くあてはあるのよ。心配しないで」
「は、はあ」
※
パトカーで連れられること、約三分。
実際、歩いたほうが早いくらいの距離である。それなのに、どうして先輩はパトカーでの移動にこだわったのか。
後に知らされたところでは、このパトカーは窓が防弾仕様になっており、極めて安全性が高いのだという。
「さりげなーく頭を下げて。背中を丸めていかにもチンピラっぽく」
「こ、こう、ですか……?」
「あら、悪くないわね。それじゃあ行きましょうか」
先輩が車を停めたのは、駅前の立体駐車場。
駅前大通りの反対側には、摩耶たちが衣類を調達したデパートや映画館の入った駅ビルなどが所狭しと屹立している。
俺たちが入ったのは駅ビルの方で、そちらには一階にフードバザーが設けられていた。
「何食べる? 奢るけど」
「ああ、いえ。悪いですよ」
「そう? まあ、公務員は薄給だからね。そう言ってもらえると助かる」
こういう時って迷うよなあ。デートではないにしても食事に同伴しているわけだし、男性が女性に奢るのが普通なんじゃないか。
でも、俺は生活費を親からの遺産でやりくりしているし、稼ぎは零。それにこの場合の女性の方が、俺より一個年上である。
どっちが払うべきなんだ、これ?
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