第16話

「おっと、大丈夫か?」

「お、俺を……いや、俺の生活を、ずっとモニターしてた、ってこと、ですか……?」


 サワ兄は口をへの字に曲げながら腰を上げた。

 何故、ゲンさんが俺なんかの監視をしていたのか。こんなニートの過ごす日々など、面白くもなんともなかろうに。


 再びサワ兄が、大丈夫か? と尋ねてくる。俺がこくこくと頷くと、ゆっくりこちらに背を向けた。二本目のビールを取りに立ち上がったらしい。


 部屋奥の小型の冷蔵庫から缶ビールを取り出したサワ兄。椅子には座らず、壁に背中を預ける。話を次に進めるのに、俺の真正面にいるのは精神的にキツかったのかもしれない。


「意外かね? 執事である弦次郎氏が、実は君の生活を見張っていた、だなんて」

「……はい」

「機動隊によるガサ入れの時、ウチは見ていたんだ。君と摩耶、美耶の三人が同じ車に乗り込んで現場を離れる様子を。そこで、その車両を裏情報まで照会し、ゲンさんに接触した。そうやって、君の館に居候している月野姉妹の安全を確かめようとした。結果としては、君は単純に巻き込まれただけ、ということになってしまうが、君のプライベートを害したのは紛れもなくウチだ。すまなかった」


 壁に背を預けたまま、サワ兄は忙しなく瞬きを繰り返した。

 だが、困っていたのは彼よりも俺の方だ。

 自分の周囲の人間で、ゲンさんは他者の追随を許さない人格者だった。

 俺の我がままを聞いて、日常の雑務を一手に請け負い、心から俺を気にかけてくれている。


「そんな……あのゲンさんが……」

「誤解のないように言っておくぞ。ゲンさんが君に対して、幸せになってほしいと願っているのは紛れもない事実だ。その上で、彼は君が鬼羅鬼羅通りに足を踏み入れるのを傍観、いや、容認し、あらかじめウチに連絡をくれていた。今日だってそうだ。さっきメールが届いたばかりだよ。暴力沙汰にだけはしないでくれということでね」

「でも、俺は入口でパーカーの二人組に襲われて……」

「ああ、悪かったね。あの見張りの連中はころころ変わるんだ。それに朔柊也という人間の情報を、無造作に広めるのはあまりにリスクが高すぎる。提供したわけじゃない。適度な厳しさというか、理不尽な出来事を経験してもらわないと、またここに来る際に、正しい判断ができないだろう? だからわざと警戒心を向上させておいたんだ。早い話が、君がどのくらい体力・精神力を有しているのか、探りたかったんだよ」

「む……」


 なるほどそうだったんですか、と安直に返答することはできない。

 サワ兄の言う通りに事態が進み、俺がボコボコにされたから? いや、そんな弱々しい理由ではない。

 こんな貧困、犯罪、加えて暴力沙汰が身近に存在する空間に、月野姉妹を連れ戻すのが嫌だったからだ。


 俺は相当なしかめっ面をしていたのだろう、一瞥をくれてから、だよな、とサワ兄は呟いた。


「でも……」

「ん?」

「どうしてゲンさんは、俺が鬼羅鬼羅通りに足を踏み入れると察していたのかな」

「尾行したそうだ。柊也くんをね」

「び、尾行って、二週間ぶりに外出した俺の背後にいた、ってことですか」

「そのようだ。もしかしたら、君の日常生活でこんなことはなかったか? 足音もなくやってくるゲンさんの挙動、とか」

「あっ」


 カチリ、といって、脳のピースが巧く嵌め込まれた。


「おまけにあの日の日差しは今年一番だったというし、君が向かうなら鬼羅鬼羅通りだろう。と、そこまで計算づくだったそうだ」

「はあ」


 なんだか馬鹿みてえだな――。俺は胸中で呟いた。だが、待てよ。

 

「どうしてそんなに俺の言動が注目されてるんです? たかがニートの一人や二人、この街にはごまんといる。俺じゃなきゃ駄目だったんですか?」

「そうだ」


 すっと眉を上げて、サワ兄は俺と視線を合わせた。


「なにせ、この鬼羅鬼羅通りの関係者、つまり月野姉妹のことだが、君は彼女らに気に入られているようだからな。助言を乞うために来てもらった。この部屋は他と違って、防音性が高いんだ。ウチの考えを伝えるにも好都合ってわけ」


 部屋のことはさておき。

 どうやら、『俺』から『月野姉妹』、そこからさらに『鬼羅鬼羅通りにたむろする不良たち』へと、一本線が走っているらしい。

 それを俯瞰したサワ兄が、『月野姉妹』が心配になって『俺』に相談を持ち掛けているようだ。


「ゲンさんから聞いたよ。君は幼い頃に、ご家族から立て続けにネグレクトを受け、親戚宅を転々としている。莫大な資産のあった朔家の一人っ子として、あの邸宅、それにお世話係としてのゲンさんを引き継いだのが朔柊也――君だということは、随分と理に適っている。だから、月野姉妹が君の邸宅に預けられたと聞かされても、むしろ合点がいったくらいだ。……って大丈夫か、柊也くん?」


 テーブルを回り込んできたサワ兄が、俺の背中を擦り始めた。

 俺の身に何があったのかは自覚している。顔色が悪くなったのだろう。それこそ、溺死体のように、真っ白に。


 実際、話の流れやら何やらで、こんな症状が現れるのには慣れている。

 だが、今この場を離れるわけにはいかない。このサワ兄――澤村吉右衛門なる人物が、月野姉妹を帰すに値する人間かどうか、確かめなければならない。


 俺はさっと手を口に宛がい、吐き気が収まっていくまで深呼吸をし続けた。

 心配してくれたサワ兄に、俺は素直な質問で切り返した。


「澤村吉右衛門さん、あなたは月野姉妹の身の安全を守り切って、社会復帰させてやることができますか?」

「そのつもりだ。二人は少しばかりやんちゃだが、ごく軽い暴力沙汰しか起こしていない。公務執行妨害を含めても――」

「そういうことじゃない!!」


 俺の怒声に、サワ兄は俺の背中を擦っていた手を引っ込めた。

 一度収まったはずの吐き気がまた襲ってくる。立ち上がっただけでもふらふらする。

 それでも俺は、あの姉妹を守ってやりたいという強烈な義務感に囚われていた。


 もしサワ兄より俺の方が、姉妹を安全に学校に通わせ、人生を軌道修正させてやることができるとしたら。

 その時は、何としてでも姉妹を俺の住む邸宅に引っ張り戻す。それが俺の覚悟であり、使命感と呼べる感情の源泉だった。


 俺は額に手を当てて、ゆっくりと椅子に座り直した。エアコンの冷風が、妙に肌寒く感じられる。サワ兄は席に戻らず、即席のエチケット袋を作ってくれた。

 ちらりと覗き込む。たまたま袋に使われた新聞には、大物政治家のスキャンダルについて報じる記事が載っていた。

 こいつに反吐をぶちまけるのも悪くないかもな。いや、吐かないに越したことはないんだけれど。


「君の熱意は伝わって来たよ、柊也くん」


 ゆっくりと、穏やかな口調で語り掛けるサワ兄。


「ゲンさんはいろいろと有能な人物だからね、住民票やらなにやらの偽装は済ませてくれるだろう。だが、問題はここからだ」


 サワ兄は品定めをするように、目を細めてじっと俺を見つめた。それこそ、頭のてっぺんから靴先まで。


「事務手続きは簡単にできると仮定して、の話。君にはあの姉妹を守るだけの力はあるか?」

「ち、力……?」

「そうだ。例えばこの前、この鬼羅鬼羅通りで起きたように、君の邸宅に機動隊が押しかけても、あの二人を連れ出されないような策を練ることは可能か? それを訊いているんだよ」

「そ、そりゃあ……」


 これには俺も黙り込むしかなかった。いったい俺たちが何に立ち向かおうとしているのか、その輪郭すら怪しくなっている。

 もし月野姉妹がただの行方不明のちょいワルだったら、今すぐ姉妹を警察に出頭させ、正しい裁きを受けさせるべきだろう。

 こんな考えに至ったところ、サワ兄は、ふむ、と一息ついた。


「よく考えてみてくれ。鬼羅鬼羅通りに集っている若者たちは、大人というものを全面的に信頼していない。逆に言えば、大人が自分たちの目線で彼らを裁こうものなら、命を捨ててでも反抗するだろう」

「い、命を捨てて?」

「そうとも。親に裏切られ、施設の担当官にも恵まれず、なんとかして心の平穏を手に入れようとしているのが彼らだ。大人を責めることはあっても、大人を認めることは決してあり得ない。ましてや大人を信頼することなど、到底考えられることではない。夢のまた夢だ」


 そこまで言われてしまったら、俺には何も言い返すことができない。

 代わりに、といってはなんだが、一つの疑問が浮かんできた。


「サワ兄さん、いえ、澤村吉右衛門さん。だったらどうしてあなたはここにいて平気なんですか? あなただって大人なんだから、いつリンチされるか分からないでしょう?」

「確かに、その可能性が零ではあるまいな。ただ一つ、他の大人と違うのは、自分が不良たちの信用を勝ち取ろうという野心がないことだ」

「野心? えっ、野心がないんですか?」

「ああ。来る者拒まず、去る者追わず。今まで不良たちが出会ってきた大人たちには、ビジネスライクなところが大きすぎたんだろうな。自分の業績をあげたいという欲がある。不良たちは成長途中で負傷した猫のようなものでね、きっと大人の欲というものを、敏感に感じ取っているんだろう」

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