第11話
が、しかし。
「……ん」
足が動かない? どうしたんだ、これは。
ついでに扉を閉めようとした腕もドアノブから離れない。まるで神経や血管が凝固してしまったかのようだ。
ああ、またか。
俺は空いている方の片手を眉間に遣り、指を押し当てた。
こんな体たらくでは、月野姉妹を守ることなんてできないぞ。
そう自分に言い聞かせてみたが、逆効果。精神的に『悪いもの』が、勢いを増して腹の底から這い上がってくる。
俺は特大の舌打ちを一つ。これが俺の患っている病気、強迫性神経症の症状だ。
もちろん、同じ病名だからといって、異なる患者が同じ症状に見舞われるとは限らない。
だが、少なくとも俺の場合はこんなところだ。
自分で自分を責め立てる。焦らせる。そして結局失敗し、自信を無くしてまた自分を責める。負のサイクルというやつか。
これを解消するために、俺は精神科に通い、薬剤を頂戴し、きちんと飲むようにはしているのだが。
「ったく、畜生……」
この状態に陥っているのは、ついさっきまで爆睡していたのが原因だろう。薬剤を摂るタイミングが、平時とはズレてしまったということだ。睡眠中に薬を飲む、なんてことは不可能だし。
ええい、今更だができる限り、いつもと同じ生活を意識しなければ。
廊下に出るよりは、部屋に引っ込む方が簡単だった。この薄暗く、機械音声に満ちた場所こそ俺の居城だ。落ち着くんだよな、本当に。
ここは使い慣れた俺の部屋。俺のためのベッドとデスクが備え付けられており、そのデスク上には教科書類や文房具類が載っている。
そんな中、デスクの上に放り出されたビニール袋を漁る。
がさがさやっていると、望みのものはすぐに目に入った。薬剤袋だ。処方された日付は七月下旬。
俺はアルミのパックから錠剤を取り出し、どんどん口に含んでいく。
それから、部屋の隅に置かれた小型冷蔵庫の下へ直行。扉を引き開け、ミネラルウォーターを取り出す。すぐに口をつけ、口内の錠剤を、ごくり、と一気飲みする。
口の端から一筋、行き場を失った水分が流れ、顎を伝っていく。が、そんなことには頓着しない。
「ぷはっ」
唇を離し、喉の奥の方を意識する。上を向いて喉仏を上下させると、薬剤は上手く胃袋へと流れ落ちていった。
さっさと蓋を閉め、ミネラルウォーターを冷蔵庫に戻す。ぱちぱちと頬を叩き、自分で自分が大丈夫なのかと推し測ってみる。
「ま、話はできるか」
そう呟いて腰を上げた俺は、しかしすぐに廊下に出ることはしなかった。
机の上に置かれた写真立てを見つめる。卓上の照明を点けると、ぼんやりと写真の全貌が浮かび上がった。
そこに写っているのは俺と両親、それにもう一人。
「……ちゃんと兄貴らしく接してやれてたのかな、俺。って確かめようがないよな」
俺は自嘲的な笑みを浮かべ、頬を痙攣させながら、必死に目元を拭った。
写真を見るだけで号泣してしまうとは、俺も歳を取ったということだろうか。
「……春歌……」
嗚咽に混じって、その人物の名前を口にしてみる。しかし、それは新たな涙を誘い出す一種の罠だった。
すぐに頭の中で家族写真を握り潰す。轟々と燃え盛る炎の中に放り込む。そして完全に燃え朽ちるのをじっと見守る。そうして何もなかったことにする。
大仰なイメトレだとは自覚している。だが、そうでもしなければ死者の呪縛からは逃れられない。
俺はぐしぐしと顔全体をタオルで拭った。再度頬を叩き、左胸に手を当てて、自分が落ち着きを得たのを確かめる。
「よし、行くか」
こうして俺は、ようやっと部屋から脱した。
※
さて、摩耶と美耶はどこにいるのだろう? この時ばかりは、俺もこの邸宅の広さを恨んだ。
しかし、すぐに思い直した。あの姉妹はこの邸宅には詳しくない。ということは、さっき案内した客間に自然と集まるのではないか。
それに行動パターンとして、摩耶が主導権を握り、美耶は素直に従っている。美耶が摩耶に同伴している可能性は高いだろう。
とにかく行ってみるしかないな。俺はエントランスに通じる幅の広い階段を下りた。あとは、足が勝手に動いてくれる。さっきの客間は――ここか。
俺が扉をノックすると、いかにも気怠そうな声が聞こえてきた。摩耶だな。
「悪い、遅くなった」
そう言いながら扉を引き開けると、摩耶が中央のソファで横になり、携帯ゲーム機をいじっていた。どこから引っ張り出したんだ、あれ。それは置いといて。
「あれ? 美耶は?」
「ついさっき寝ちまったよ。流石にあたいらほどの体力はねえからなあ。この先何が起こるか分からねえから、ひとまず休息を優先させた」
「そうか」
それにしても、摩耶もこんなに理路整然と話すことができたんだな。ちょっと意外。
なーんて俺の思いを口にしたら、摩耶に首を蹴り飛ばされそうだな。危ない危ない。
「ところで、俺が休んでる間にどこか出かけたか? 服を買いに、とか」
あ~、というダウナーな声がした。当然摩耶のもの。彼女がゲームで負けたから、という理由ではもちろんない。
「警察に追われてるあたいらが、そんなにフラフラ外出できると思うか? 執事――ゲンさんが通販で揃えてくれたよ。明日の午前中には届くって、昨日言ってた」
「そ、そうなのか」
この間、摩耶はずっとゲームのディスプレイに見入っていた。
少しばかり癪に障る。人の話、ちゃんと聞いてるのか?
「俺が勝手に恩を感じて、そして勝手にお前らを連れてきた、ってことは認める。だが、俺だって心を持つ人間だ。適当にあしらわれて、気分よくはないな」
「おいおい、あしらってなんかいねえよ! でも、ん……。あたいだって落ち着かねえんだ、ここの環境に馴染めるまで、少しは待ってくれたっていいんじゃねえか?」
「それと他人に対する礼儀は別問題だ。ちゃんと感謝してるんだったら、それなりのことは態度で示せよ」
すると、摩耶はソファから勢いよく立ち上がった。気づいた時には、携帯ゲーム機を片手で高々と持ち上げている。
頭上に掲げられたその腕は、そのまま勢いよく振り下ろされた。
がしゃん。びじっ。
そんな奇妙な、強いて言えば工学的な音を立てて、ゲーム機は粉砕された。ちょうど人一人分の隙間を空けて、俺の顔と同じ高さで。
美耶のナイフ投げに比べれば、それほど怖くはない。問題は、そのゲーム機を投擲した摩耶本人がぶちぎれている、ということだ。
「柊也、てめえなんて言った? 礼儀を尽くすために態度で示せ? ハッ、笑わせんなよ」
俺はぎゅっと目を細め、摩耶の言動を注視する。冷静でいろと自分に言い聞かせながら。
「窮地を救ってくれたことには感謝する。だけど、だからちゃんと礼儀を果たせってのは乱暴な理屈だよなあ? そんな大人みてえな考え方、憎らしくって聞いちゃいられねえ」
堂々と、上半身を乗り出して言葉を繋ぐ摩耶。俺は正直、それもそうだと思いかけた。
だが待てよ。俺の組み立てた理論武装が、大人みてえな考え方だと評されているのはどういうわけだ?
俺が顔を顰めると、摩耶の口数も、そしてその音量も、あっという間に減衰していった。
「あんたなら信頼できると思ったのに……親父と同じことを……あたいが望んだんじゃない……あたいは、ただ……」
言葉は切れ切れで、鼻をすする音も混ざっている。俺が敵対姿勢を見せるわけにはいくまいな。
「摩耶、大丈夫か?」
「……」
俺は摩耶の心が落ち着くまで、大人しく彼女を見つめていることしかできなかった。
それでも、摩耶は段々と自分の心を、理性で納得させつつあったようだ。汗と涙と鼻水をいっぺんにぐいっと腕で拭い、真っ直ぐ俺と目を合わせる。
きっと今、会話のボールを握っているのは俺だ。問いを投げる権利を持っているのも、また然り。
だからこそ、俺は尋ねることができる。否、しなければならない。
「摩耶、月野家で何があったのか、さっきよりも詳しく教えてくれるよな?」
摩耶はひくっ、と喉を鳴らし、しかしすぐに顔を上げて語り出した。
※
摩耶と美耶の両親がロクでもない連中であったことは、既に俺も承知している。
では、どんなところが親として欠けていたのか。姉妹が家を捨てる覚悟を固めるきっかけは何か。俺が思い浮かべた要点はこの二つだ。
「うちはどっちかって言うと裕福な家だったんだ。親父が外科医でお袋が製薬会社の若き重役。これ以上ないコンビだろ?」
皮肉げに口元を歪める摩耶。俺は軽く相槌を打って、続きを促した。
そしてはっきりと理解させられた。姉妹は、両親に構ってもらう時間が十分ではなかったのだ。
もちろん、医学や薬学は人命に直結するものだし、それを生業にしていると言えば、そりゃあ拘束時間が長くなるのも道理。
「でも、少しはあたいらのために時間を割いてくれてもよかったんじゃねえかな。幼稚園の先生とかハウスキーパーさんの方が、よっぽどよくしてくれたぜ」
俺は腕を組んで、短く息をついた。
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