第12話

 摩耶は落ち着きなく手首のあたりを擦りながら、目線を下げたままでいる。


「今も言ったけど、両親以外の大人はいい人だった。この人たちに迷惑をかけたくはなかったんだ。でも……負けたんだよ、あたいは。悪いことに手を出す快感に」


 罪悪感を伴ったスリル。摩耶は続けてそう言った。確かに俺も、その気持ちは分かる気がする。いつもは口答えの許されない相手に対して、何某かの爪痕を残せる爽快感は尋常ならざるものがあるからな。


「ただ予想外だったのは――そんなあたいの奔放な行動のツケが、美耶に回っちまったってことだな」

「どういう意味だ?」

「あたいと美耶は、年齢的に四つ離れてるんだが、あたいが悪ガキになっちまったことを憂慮した両親は、美耶だけは完璧な娘に育てなきゃならんと思ったようなんだ」

「もしかして、それで美耶は余計に厳しい環境で育てられた、と?」


 俺の問いかけに、摩耶はゆっくりと頷いた。尋問に遭わされる敗残兵のようだ。


「あいつが――美耶が突然狂暴化したり、ナイフをぶん投げたりするのは、両親の厳しさに対するせめてもの反抗なんだ。でも、それをもたらしたそもそもの原因はあたいにある。あたいが駄目なクソガキになっちまったから、両親は美耶に同じ轍を踏ませまいと……。娘に厳しくするきっかけ、口実を与えたのは、あたいなんだ」

「それは違う」


 俺は摩耶の言葉を即座に遮った。

 何故こんなことをしたのか、自分でも分からない。もしかしたら、恐ろしくなったのかもしれない。世間一般に言う『親』という存在が、それほどの毒を孕んだものだったとは。


「それは違うよ、摩耶」


 そう繰り返してから、俺はその場のクッションに腰を下ろした。


「摩耶、お前はよくやった。ちゃんと自分の立場と境遇を客観的に見て、その上で美耶の心配をしている。それなら大丈夫だ。お前はただの不良少女なんかじゃなくて、ずっと心の優しい、面倒見のいい女の子なんだよ」

「……」

「明日は買い物に行くんだろ? ちゃんといい格好ができるように、今日はさっさと休んだ方がいい」


 俺はクッションから立ち上がり、摩耶の肩に手を当てた。こくん、と頷く摩耶……だったのだが。


「柊也、あんたの鼻血、もう大丈夫なのか?」

「あー、悪いな。心配かけた」

「じゃあ、迷惑ついでに」


 摩耶は尻のポケットからスマホを取り出した。画面をタップしてさらさらと操作していく。そのスマホを俺に差し出した時、画面にはある写真が表示されていた。


「これ見てもらえるか、柊也」


 俺は無言でスマホを受け取り、黙ってその写真をじっくり眺めた。ファイルから撮影日時を確認すると、ちょうど五年前の夏に撮影されたようだ。


 写っているのは五人。まだ厳しく教育される前だったのか、おどけた調子の摩耶。その悪戯を横目で見つめる美耶。初老の男女――摩耶たちの両親だろう――は、ぐっと厳格な顔をしていて、もう一人はぼんやり視線を彷徨わせている。


「ん? 五人?」

「そ。一番背が高くて眼鏡かけてるのが、あたいらの兄貴」

「兄貴なのか? へえ」


 摩耶に年上の兄弟がいたとは、結構驚きだ。俺はしばし、その兄貴とやらの姿に見入った。

 長身痩躯でいかにもインテリ、といった雰囲気。顔つきはやはり摩耶や美耶にどことなく似ている。

 相違点があるとすれば、奇妙な脱力感を伴っている、ということだろうか。


「あのさ、摩耶。お前の兄貴って――」

「自殺したよ。大学二年の夏にね」


 訊き返す間も与えられなかった。と同時に俺は、自分の身体が足先から凍り付いていくような錯覚に襲われた。


 自殺? 自分で命を絶ったのか?

 俺の頭の中で『自』『殺』という二つの漢字が、ぐわんぐわんと跳ね回る。まるで、俺の脳みそを内側からぶち破ろうとしているみたいだ。


「え、えっ? だって、お、おかしいぜ? こんなにきちんとした人が、自殺?」

「そうだね」


 摩耶の態度は実にドライなものだった。


「兄貴は親父の跡を継いで、医者になりたかったらしい。それで難関校の医学部に入れたはいいんだけど、勉強についていけなくなっちゃったようでね。あたいには詳しいことは分かんねえけど、欲に溺れることなく、さっさと命を捨てやがった」


 欲に溺れる? ああ、きっと不良になることを言っているんだろう。二十代前半と言えば、確かにいろんな誘惑がある。

 友人関係しかり、恋愛関係しかり。飲み会、カラオケ、ボーリング。加えて軽犯罪。俺が思いつくだけでも、いろんな金の使い方がある。


 俺が全身麻酔状態だったのをいいことに、摩耶はスマホを引き抜いてさっさとポケットに戻してしまった。


「馬鹿な兄貴だったなあ。助けてくれって叫んでくれりゃ、親父もお袋も何か対策を打ったかもしれねえのに。くたばる前に、せめて遊び惚けていてくれれば、それはそれでよかったかもしれねえし」

「……」

「クソ真面目だったんだよ、兄貴は。勉強についていけない自分を許せなくて、憎みに憎んで、そしてくたばりやがった。ちっとは残される方の身にもなってみろってんだ」


 摩耶は髪をオールバックにするかのように、額から後頭部までをぐいっと拭った。

 それは分かるんだが、しかし、俺は視線を上げることができない。いや、上げない方がいいと思った。


 その予感は的中した。摩耶の瞳からぽつぽつと、水滴が落ちてきたからだ。

 涙は女の武器、なんて言葉があるが、差し詰め俺に対しては効果抜群といったところか。


「この話の続き、明日にでも聞いてくれねえかな、柊也?」

「ああ、分かった」

「ちっと思うところがあってね……。美耶と二人でまた鬼羅鬼羅通りに行かなくちゃならねえ。それでもいいかな」


 俺は腕を組み、あの場で何が起こるかを考えた。が、すぐにやめた。

 今の月野姉妹の保護者は俺なのだ。その俺がビビっていたら、何にもなりゃしない。


「分かった。行こう」


 すると、軽く涙を拭った摩耶は、穏やかな笑みを浮かべてみせた。


「ありがとう、お兄ちゃん! じゃねえ、あ、やべ、しまった!」


 例に漏れず、俺は再び鼻血を噴出させてぶっ倒れた。

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