第10話
ゲンさんは警棒を握り締めていた。それを右手で構えながら、左腕を全面に突き出し、相手との距離感を把握する。
一方、もう一人のガスマスク――ああ、きっと摩耶だな――は、さっと白煙に潜り込み、背後を取った。
「うっ! げほっ! ぐうっ!」
俺の背中にまたがるようにしていた美耶が、ナイフを取り落とす。チャンス到来とばかりに、摩耶が美耶に蹴りを見舞った――ように見えたのだが、これは躱されたようだ。
「チッ!」
頭上から降ってきた舌打ち。だが、それでも俺は美耶から解放された。
となれば、選択肢はただ一つ。急いでこの戦場から脱出すること。
そう思ったのも束の間、俺の背中に再度衝撃が走った。
「がっ!」
やはり刺されたのか? 美耶に刺されて、その衝撃が背中全体に伝わってしまったのだろうか。
恐ろしい妄想に駆られて、俺は自分の背中に腕を回した。すると俺の手には、僅かに粘着性のある液体が滴ってきて……は来なかった。
どうやらたった今俺が、刺された! と思ったのは、誤認だったようだ。きっと恐怖で痛覚がバグったのだろう。
「俺はまだ、生きてる……のか……」
「坊ちゃま、聞こえますか! 坊ちゃま!」
「あ、はい……」
ぼんやりした頭で答える。それから俺は、ゲンさんに引っ張られるようにして客間を脱した。
そして気絶した美耶が摩耶に抱えられて出てくるのに、それほど時間はかからなかった。
※
「なあ摩耶、美耶は大丈夫なのか?」
「あー、気にするこたあねえよ。あたいとこいつの付き合いは長いからな。この程度でくたばりゃしねえ」
「……そ、それならいいんだけどな」
摩耶に抱えられた美耶と共に、俺は隣の小部屋に移ってきていた。
今、美耶は小部屋の中央に建てられたベッドに横たわっている。どうしてこんなところにベッドがあるのかといえば、ゲンさんが速攻で組み立ててくれたからだ。
今この部屋にゲンさんはいない。美耶の狂暴性が露わになった以上、暴力以外の手段で彼女を止めることが絶対に必要だ。ゲンさんは鎮静剤か何かを調達しに出かけたのだろう。
「で、摩耶、お前に訊いておきたいんだが」
「あん?」
「どうして美耶は暴走するんだ? まるで幽霊にでも憑りつかれたみたいになってたぞ」
それも執念深い、超攻撃型の幽霊だ。
「ん……。あたいから話してもいいのかな」
「何かあるんだな? 心当たりが」
「あるっちゃあるんだけどね」
摩耶はすっと顎に手を遣った。今回の事態について深く考え込んでいる様子で、静かな佇まいを思わせる。
沈思黙考する月野摩耶。様になっているのがなんだか不思議だ。殺されかねないので言わないが。
俺も目を瞑り、額に手を遣った。ふっと息をつくと、さっきのバーサーカー・美耶に追いかけられたことが思い出されてしまう。
奇妙な震えが背筋に走ったのは、エアコンのせいではあるまい。
ふと、思いついたことがある。
「摩耶、この家に住まないか?」
「えっ?」
「お前と美耶は、鬼羅鬼羅通りに迷い込んだ俺を命懸けで助けてくれた。恩を返したい」
そう。俺は自分の両親には、恩を返してやることができなかった。
だったら、両親の次に俺の命を救ってくれた人間の役に立つべきだ。
それをいったら、お前はさっさと大学に復帰しろという話にはなるが……。まあいいだろ。月野姉妹の存在は、俺の講義出席率とはまるで無縁。とにかく、月野姉妹はこの家のような安心安全なところに留まっているべきだ。
自分の都合もつけられないのに、他人を助けられるのか。それは我ながら疑問だった。
だが、感謝の気持ちを抱いたからには、相手に会わせて謝辞を述べ、その幸せに繋がるようなことを率先して手伝うべきだ。
それこそ俺の両親が、いつも俺を前に語り聞かせていたことだ。
もちろん、俺はそのことには同意している。だからこそ、月野姉妹を助けたいと思っている。
もしかしたら、そこで打ち解けて互いのトラブルを把握し、解決策を提供し合えるかもしれない。
そんなことをつらつら述べて、ふと視線を摩耶と合わせてみた。そして、俺は半歩引き下がった。摩耶の顔が、あまりにも赤い。真っ赤っかだ。人間ってこんなに赤くなれるのか?
「あー、摩耶? エアコンに当たりすぎて風邪でも引いたんじゃないか? 早く寝室に――」
「ぬうん!」
「ごはっ!」
ゴン、という打撃音に続き、僅かな砂塵が降ってくるチリチリと降ってくる。
俺の言葉を遮った摩耶が、俺の下顎を掴み、後頭部から壁に叩きつけたのだ。
じいん、という鈍痛がふっと広がり、一瞬だけ耳が聞こえなくなった。
「な、なにを……するんだ……?」
「だっ、だだだってあんた、自分の言ったこと忘れたのかよ? あたいに寝ろ、って言ったんだぜ?」
「それが、ど、どうした?」
どうしたもこうしたもあるか! そう言って、摩耶は四肢をぶんぶん振り回して怒りを表現していた。さっき会ったばかりの俺でも、これは相当キレてるな、くらいの見当はつく。
一体何を想像したんだ? そう口にしようとして、俺もようやく摩耶の思考に追いついた。そして、今度は脳みそに沸かした湯を流し込まれるような、不快な、というには熱すぎる血液の脈動を感じた。
「あぁあ、ご、ごめんな、もちろん部屋は分けるから! ベッドは全部シングルで……」
「当り前じゃ、ボケぇ!!」
摩耶は俺の頭頂部を、平手でぺちん、と叩いた。
俺は首を竦めたが、痛みはやってこない。摩耶も気が抜けて、本気を出せなくなったのかもしれないな。
ちょうどその時、エントランスの方から音がした。ゲンさんだ。
「失礼致します。坊ちゃま、美耶さまの体調に不可解な点、トラブルはありましたかな?」
「ああ、いえ。ちょっと俺と摩耶で考え事を」
「左様でございますか。失礼とは存じますが、美耶様がお目覚めになっても精神的な異常性が見られる場合、この経口薬をお召しになるよう、強く言って聞かせてあげてください」
俺はゲンさんの手から、やや小さめの紙袋を受け取った。中にはアルミパックの錠剤が二種類入っている。これで一週間分だそうだ。就寝前に一錠、か。
「ありがとうございます、ゲンさん。昨日の夜からなんだか随分迷惑かけちゃって……」
「いえ、お気になさらないでくださいませ、柊也様。それより、一つ問題がございまして」
「何ですか?」
僅かに顔を顰めるゲンさん。珍しいな。
「月野摩耶様、美耶様のお洋服を揃えて差し上げようと思いましたのですが、なにぶんわたくしはお若い方、それも女性の間で何が流行なのか、存じ上げないのです。そこで畏れ多いことではございますが、摩耶様と美耶様の護衛も兼ねて、どうか柊也様に同伴していただきたいのです」
「あ、はい」
意外なことを仰るゲンさんに、俺はぼんやりと、特に抵抗を覚えることもなく、ちょこんと頭を下げた。
そんな俺の呑気さに冷や水をぶちまけたのは、護衛対象となる摩耶だった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、ゲンさん。あんた昨日、あたしと一緒に客間に乗り込む時、ちゃんと見てたよな? 柊也の野郎、逃げたり避けたりばっかりだっただろう? それが、今度はあたいらの護衛? そんな野郎、信じていられるわけねえじゃんか!」
最後の方は、最早叫びに近かった。
確かに、戦闘力に関しては俺は月野姉妹より圧倒的に劣っているだろう。
そのことを知った上で、ゲンさんは俺を同行させようとしている。
家庭状況も似通っていたという理由で、俺と摩耶、または美耶をくっつけてやれば面白いとでも思っているのだろうか。
俺が疑念を込めて目を細めると、ゲンさんは微かに頷いた。
「ゲンさん、あんた……」
ぎゅっと拳を握りしめる俺。掌で内出血が起きているが、それさえも今は些細なことだ。
しかし――。何だか妙ではないだろうか。
そりゃあ、月野姉妹を匿おうとした俺が言えた立場ではない。
だが、俺の知らないところで、誰かが、ひょっとしたらゲンさんまでもが、何かを画策しているような気がしてくる。
俺は背中を壁に預け、片手で顔半分を覆うように宛がった。
自分でも、記憶があやふやなのは自覚している。だが、きちんと脳内整理をしないままこの件に踏み込むのはマズい。
俺の脳内のパトランプが、けたたましいサイレンと共に周囲を照らし出していく。
「悪い、摩耶。俺ちっと休むわ」
「分かった。……ってあんた、大丈夫なの!? 顔真っ青だけど……」
俺は視線だけで訴えた。気にするな、忘れろと。
それだけでは済まなかったから、こうして壁伝いに歩いているんだが。
そんな俺に、ゲンさんは救いの手を差し伸べようとはしなかった。これだけで十分異常、というか異様な現象だ。誰も言及しなかったけれど。
※
意識の覚醒は早かった。睡眠中は時間は十分経過している。だが、一度現実に浮かび上がった意識が起床レベルに達するまではあっという間だった。
俺は、ゲンさんが用意してくれたのであろう水と精神安定剤の載った盆を見つめ、時刻を確認した。午前八時ちょうど。
取り敢えず、皆と合流しておくか。俺はのっそりと腰を上げ、伸びをしてから廊下に出た。
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