第8話


         ※


 結局、そこから先はまた沈黙が訪れてしまった。

 俺たち、というか俺と美耶は、互いのプライバシーに過剰に踏み込むのを恐れて言葉を紡げずにいる。

 一方摩耶だけは、いつもの個人的自由主義に磨きがかかったのか、座った姿勢のままで舟を漕いでいた。


 しかし落ち着いて考えてみれば、沈黙するのは当然だ。

 さっきの俺は、互いの素性を明らかにしよう、などと軽々しくほざいていた。だがそんな提案ができたのは、自分の過去を口にすることの重大さを甘く見ていたからだ。

 話し手、聞き手の双方に、どれほどの心理的な負荷をもたらすのか。もっとよく考えておくべきだった。


 と、言う具合に俺が自己嫌悪に振り回されている間にも、美耶は俺に穏やかな視線を注いでいる。

 それに気づいた俺は、ゆっくりと顔を上げて声をかけた。


「悪いな、美耶。これじゃあ話し合いにならないな」


 すると美耶はさっとかぶりを振って、こう言った。


「匿ってくださって、ありがとうございます」


 ぽつぽつと言葉を繋ぐ美耶。拙い発音なのは相変わらずだが、

 少しばかり、俺の胸のつかえがとれたような気がする。俺はふっと息をついた。


「眠くはないか? 今日は疲れただろう?」

「ちょうど眠気が、襲ってきました」

「そう、か」


 美耶は摩耶の肩に手を載せ、軽く揺すった。


「お姉ちゃん、起きて。柊也さん、時間を割いてくださっているのに」

「いいんだ、美耶。気にしないで――」


 と言いかけた、その時。


「ま、確かに素性を明かすってのは、一大事だわな」

「うおっ! なんだ摩耶、起きてたのか?」

「ふわ~あ、まあね。むにゃむにゃ……」


 のんびりと大口を開けて欠伸をする摩耶。でかい猫みたいだな。それに、むにゃむにゃ、なんて言葉、リアルで口にする人間に出会ったのは初めてだ。

 取り敢えず全員の意識が覚醒したようなので、俺は再度、提案を繰り返すことにした。素性を明かす、ということだ。


「美耶、話しても大丈夫か?」


 美耶の肩にそっと手を載せる摩耶。その目には、確かに保護者としての色が光っていた。

 それを見て安心したのか、美耶はゆっくりと頷いた。


「よし。これはあたいと美耶の過去話だ」


 そう言って、摩耶は素早く息を吸った。

 

「簡単に言って、あたいらの親父がクソ野郎だった。七、八年前かな。酒に溺れてばっかりの親父に愛想を尽かせて、お袋が家を出ていったんだ。ぶっちゃけ当時のうちの稼ぎは、お袋のパート代があってこそのものだった。そのお袋が出て行っちまったんだから、一晩でうちは無一文になっちまった、ってわけ」


 俺は理解していることを示すため、数回頷いてみせる。

 ああ、そうか。やはり月野姉妹は困窮した環境での生活を強いられていたのだ。


 それに対して、俺はどうだ? 馬鹿みたいに広い邸宅に住んでいるし、一部屋ごとの居心地も抜群だ。飯も毎回美味いときている。

 何より、ゲンさんが執事を務めてくれている。これほど恵まれた環境が他にあるだろうか。


 この邸宅にやって来た時の姉妹の姿を思い出す。それは徐々に、自分に対する羞恥心へと姿を変えた。

 摩耶も美耶も、学校に通っているのかどうかは不明瞭。金銭的にだけでなく、二人のメンタルを考えても、やはり厳しいだろう。

 だが少なくとも俺は、自分の意志で大学に行く、行かないを選択できる。


「どれだけ甘やかされてるんだろうな、俺……」

「ん? 何か言ったか、柊也?」

「何でもない。続けてくれ」


 俺は顔の皮一枚の裏側で、胸中に湧いた感情――情けなさ、というか、申し訳なさ、というか――の表出を押しとどめた。


「問題がより悪化したのは、二人目のクソババアが来てからだな」

「二人目? 母親が、ってことか?」

「ああ。いわゆる親父の再婚相手、ってやつ? ったく、気に食わねえババアだったぜ」


 ふむ。実の母親のことは悪く言わないのに、父親と継母には容赦ないんだな。


「でも、意外と役に立ったんだよ、クソババア」

「ほう?」


 興味が先行し、俺は両眉を吊り上げた。


「なんでも、ババアの実家ってのが資産家でな。金がたーくさんあったんだ。小銭だけで敷き詰めたら、溺れるほどの量だ。これはチャンスだと思った。こんな身近に大金があるんだからな」


 継母は、摩耶にも美耶にもほぼ注意を払うことはなかった。相手にしていなかったと言ってもいい。そこで摩耶は――。


「はっきり言うぜ? あたいらのうちはもう腐って腐って、腐りきってやがるんだ。だからあたいと美耶は家出をした。そしてこの街の暗部、鬼羅鬼羅通りに住み込むことにしたんだ」

「だけどよく生活できてるよな。家を出てからどのくらい経つんだ?」

「えーっと、ざっと三、四ヶ月ってところか」


 俺は顎に手を遣った。俄かには信じられなかったのだ。中高生が家を離れて、こんなに綺麗な衣服を着ていられるものだろうか? 父親も継母も注意を払ってくれないというのに。


「ああ、この服? ババアの口座から金を下ろして、近所のデパートで買ってくるんだ。結構快適だぜ?」

「な、なるほど」

「ってか、生活にかかる費用全般は、ババアの口座から引き出してるな。違法な手段らしいんだが、詳しくは美耶に訊いてくれ」

「え? 美耶に?」

「ああ。生憎と、あたいは機械に疎くてな。あ、サツに売ろうとか思うなよ? あたいらは金を盗ってるけど、クソ親父とクソババアがやってるのは立派な育児放棄、ネグレクトだ。そのへんについてはお互い様ってやつ? 自分たちのやってることを警察にチクられたらやべぇっていう立場の危うさも、これまたお互い様かもな」


 ということは、月野姉妹と実家の大人二人の間で、猜疑心に基づく心理戦のようなものが繰り広げられているわけか。

 まあ、継母が金を勝手に下ろされていることに気づいてないだけかもしれないが。

 そんな馬鹿なとは思いつつ、摩耶の言わんとするところは察せられた。

 しかし、俺の腹の底には、何か重苦しいものが残された。継母の口座から、違法な手段を使って生活費を下ろしている美耶。彼女は一体何者なのか。それだけが気がかりだった。


 それは流石に、今の段階で尋ねるべきではないだろう。俺は肩をすとん、と上下させてた。


「えーっと……コン、ゴホン!」


 わざとらしく、しかし気遣わしげな空咳に俺ははっとした。

 摩耶が俺に、会話の主導権を明け渡したのだ。今度は俺が、自分の過去を語らなければ。

 だが、俺の口から出てきたのは、なんとも気弱な、ひょろひょろした空気の振動だった。


「俺は、その……」


 姉妹はじっと、俺を見返している。俺は慌てて俯き、目線を逸らした。

 俺が一人で生活している理由。天涯孤独の身であるわけ。……そんなもの、誰が話し出したくなるというのか。


 とは言っても、俺はこの場では最年長だし、姉妹を救ってやったという責任もある。

 彼女たちを救いたいと思った俺が、そう、俺だけが、過去から逃げてばかりでもいられない。

 いや、だから、ちゃんと話せるならさっさと話すべきであって。


 そう思うや否や、かあっと熱いものが背筋を這い上がってきた。


「畜生ッ!」


 俺はあぐらをかいた自分の足の、膝小僧を拳骨で殴りつけた。

 膝を立て、その間に顔を埋めてしまう。


「うっ、くぅ……」


 俺が嗚咽とも呻きともとれない奇妙な声を上げていると、すっ、と誰かの手が俺の肩に載せられた。


「無理しないで、大丈夫、です」


 どこか躊躇うような語り方。声の主は美耶だろう。

 俺は自分が泣いていないことを確認してから、ゆっくりと美耶の方に振り向いた。

 一瞬だけ、互いの視線が交差する。


 そこには、僅かに瞳を震わせながらも俺を見返す美耶がいた。


「悪いな……。いろいろいっぺんに思い出しちまって」

「大丈夫」


 俺がまたもや、そして冷たくなった溜息をつく。


「あー……。柊也? 美耶? あの、あたいから質問、いいか?」

「ちょっと待って」


 刺すような小声で美耶が責めるが、摩耶もまた真剣な顔でこちらを見つめている。


「なあ柊也、お前の鼻血ってどうなってるんだ?」

「は?」

「ああ、いや、だからさ、その、噴水みたいに出血してたろ、さっき」

「あー、そうだな……。家系的なものかもしれないけど」


 これは話すのが比較的楽だ。俺は僅かに残った勇気を振り絞った。


「あの、俺は……。お兄ちゃん呼ばわりされると鼻血が強制的に噴出させられるんだ。だから、俺のことを指して、お兄ちゃん、って呼び方は止めてもらえると助かる」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る