第5話
※
案内されて僕が踏み込んだのは、薄暗い空間だった。
そこそこの広さがあるが、何かを載せたラックが多い。結構窮屈だ。
軽く深呼吸をしてみたが、何の匂いもしなかった。敢えて言えば、無機質な感じ。危険物など収納されてはいないだろうか? 真面目に怖いぞ。
「ま、摩耶? ここは一体、何のための部屋なんだ?」
「まあ見てな」
摩耶は背伸びをし、何かを狙って腕をぐるぐる回し始めた。
こいつ、割と背が低いんだな。
「チッ、こんな時に限って――」
摩耶が悪態をつき始めたので、僕も援護することにした。
僕が斜め前方に腕を伸ばすと、易々と何かが指先に接触した。
「これか?」
「んあ?」
何かが天井からぶら下がっている。この部屋の照明設備は、古臭いコード式のようだ。俺はそれを引っ張ってみた。摩耶の許可? 別にいらんだろう。
すると部屋中、天井から、ぷつん、という音が連続した。機械に電源から電力が供給される時のような。
「やっぱりか」
古臭いコード式だと推察したのは、この部屋の照明で間違いはなかった。
入口側から闇が掻き消され、状況が視認されていく。そして、
「あ」
「お」
いつの間にか、僕と摩耶は急接近してしまっていた。摩耶の整った顔立ち、とりわけその薄くも瑞々しい唇に、僕の心臓は一度、ばこん! と肋骨の中で跳躍した。
「あ、あんた……」
「えっ? ああ、ごめん! 悪い、ちょっとぼーっとしてた……」
「ふ、ふうん? それだけならいいけど」
「そう、それだけ! ……だよ」
金縛りにあったかのような、しかし不快ではない感覚。
たまにはこんなことがあるんだな。しかも、眼前の少女が頬を赤らめている。この状況は一体何なんだ? 息が詰まるんだが。
俺がごくり、と唾を飲んだところで、シャツの袖を引かれた。美耶の仕業だ。
「よし、これで探し物ができるぞ。美耶、どうだ?」
「ありがと、お兄ちゃん」
「おう」
ん? 待てよ。美耶は今、何て言った? 『お兄ちゃん』だって?
「あ、やべっ」
美耶からすれば、つい口をついて出てきてしまった言葉だろう。それは恥ずかしくもなる。
小学校で、女性の先生を『お母さん』と言ってしまうようなものだ。
が、問題はそこではない。
俺は、足元から血液が立ち昇ってくるのをはっきりと自覚した。
ゆっくりと視線を旋回させると、摩耶はこちらに背を向けていた。部屋の最奥部にある、四角い機材の乗ったデスクの椅子に座っている。
「ん? あれ? なあ美耶、お前、柊也のこと何て呼んだ?」
軽く軋む音を立てて、摩耶は椅子ごと振り返る。
だが、僕は摩耶を見つめている場合ではなかった。頭部が大変なことになっていた。
鼻に物凄い勢いで血液が集中していく――!
「ぶふっ!?」
今日一日いろいろあったが、間違いなく『これ』が本日のMVPだろう。僕の鼻血の噴出が。
喩えるなら、口から水を勢いよく吐き出すマーライオンのように。
僕の鼻血は見事な弧を描いて射出されていく。
「うわっ! 何だよこれ! 柊也、何をやってるんだ?」
「い、いいから! 早く、は、はや……紙……」
「ったく、何考えてんだよ……ほれ」
摩耶が放ってきたのはトイレットペーパーだった。僕は急いでそれを巻き取り、鼻に当てる。
この期に及んで、ようやく摩耶にも思うところがあるらしいと察せられた。
誤って俺を自分の兄だと誤認してしまう程度には、大きな出来事があったのだろう。
何なのかはさっぱり見当がつかないが。
いずれにせよ、このまま『お兄ちゃん』扱いされていては、僕は出血多量で死んでしまう。
摩耶にはしっかり言い聞かせておかなければなるまい。
「摩耶、少しいいか?」
「駄目だね。ちっと待ってな」
ああそうかい。
鼻血の噴出が落ち着いたところで、俺はようやく気づいた。摩耶が向かい合っている四角い機械。あれは無線機のようだ。誰かに何かを報告でもするのだろうか。
顎に手を遣りながら、摩耶の後ろで待機する僕。
いきなり耳のそばで機械音がして、慌てて振り向いた。そこには、摩耶が操作している機械とそっくりな四角い物体が複数。
こいつも無線通信に関係するのだろうか? ピピッ、という短い、無機質な音が、定期的に俺の耳を震わせる。
「なあ摩耶、こいつは何なんだ? 突然ピカピカ光り出して――」
「黙ってろ!」
突然の怒号に、僕は全身が気圧された。摩耶のやつ、完全にキレてしまった様子だ。
何を聞いた? 何が起こるっていうんだ?
尋ねたいのは山々だが、これ以上摩耶を激昂させるわけにもいくまい。
そんな姉の姿を見つめていた美耶。立ち上がった彼女は、俺を押し退けてさっきのベッドルームへ。
「あれ、美耶? 美耶! どこ行ったんだ?」
「おい美耶、何があったんだよ? 僕にだって知っておく権利はある!」
摩耶を追って僕がベッドルームに戻ると、摩耶が小部屋から美耶を引っ張り出すところだった。
「い、一体どうしたんだ……?」
「ここの場所が警察にバレた。連中、今度は機動隊も使って攻め込んでくるようだ」
警察無線を盗聴していたのか。随分ハイテクな機材が持ち込まれていたのだろう。
しかし、ここに何があるのか? 初見ではさっぱり分からない。
だが、この場所が単なる不良のたまり場とは言えない、重大な問題を抱えているのは身に沁みて感じられる。
「さあ美耶、皆のところへ。逃げるんだ」
「お、お姉ちゃんは?」
「すぐに後から行く」
「……」
沈黙を挟みつつ、それでもなお美耶は摩耶に縋りついた。
「お姉ちゃんは先に行っちゃうの?」
「ああ。この通りはあたいらのシマだ。絶対に明け渡すわけにはいかねえ。姉ちゃんも戦うんだ」
「何を言ってるんだ!」
今度こそ、僕も感情を爆発させてしまった。鼻腔の傷が開くのを承知で、勢いに任せて怒鳴りつける。
「このままじゃ皆逮捕されるだけだ! だったら機動隊なんか来ないうちに逃げろ! 何が原因か知らないけど、さっさとそいつを放り出して――」
「できるんだったら、あたいがやってる! 自分の、この両手で!」
僕は息を吸いかけて、止めた。これでは互いの主張が平行線だ。暴力沙汰にするのはなんとか避けたいが……。
そんな上手い手段がそのへんに転がっているはずもなく、僕は口籠った。
摩耶の切れ長の瞳から発せられる視線が痛い。
「美耶。よく聞くんだ」
「な、なに!?」
「お前はこの、朔柊也ってやつについて逃げろ。柊也、しばらく美耶を匿ってくれるか?」
「……」
僕があたふたしていると、摩耶は美耶の背中を乱暴に押し遣った。
「えっと、じゃあ、お、俺たちはどうすれば……?」
「言ったろ、匿ってくれ、美耶を!」
「お前はどうするんだ、摩耶?」
「鬼羅鬼羅通り存続のために、一矢報いる」
「そ、それじゃあ――」
「一緒に戦う、なんて夢みてえなことほざくなよ。あたいと違って、美耶の経歴は真っ白なんだ。ここで人生の足踏みをさせるわけにはいかねえ」
「でも!」
「ああっ、たく!」
どうやら、摩耶にとっては我慢の限界を迎えたらしい。
僕の背中に会心のドロップキック。
僕は自分でも判別のつかない、短い悲鳴を一回。それだけで、ビル入口の緩んだドアがぶち破られ、俺は中央広場のような場所に転がり出た。
格ゲーだったら、このまま追撃を警戒するところ。だが、摩耶は何も武器を取らずに、ただパキポキと拳を鳴らした。
周囲には、同じように戦意を溢れさせている者、逃げる算段を整えている者、挙句火炎瓶を用意する者など、様々な不良がいた。
いや、どうだろうな。彼ら全員を『不良』と決めつけてしまっていいのだろうか。
彼らにだって、何か思うところがあってこんなことをしているのではあるまいか。相変わらず、具体的なところは不明だが。
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