第4話

 僕がぼんやりしていると、摩耶の後ろから人の気配がした。ペットボトルを投げて寄越した人物だろう。


「おーい、美耶? コイツは頭がイカれた馬鹿じゃねえよ。大丈夫だから、お前も挨拶くらいしとけって」


 くるりとこちらに背を向けながら、摩耶が声をかける。


「美耶、どこだ? 突然隠れて、何をするつもり――」


 という摩耶の言葉に被さるようにして、シュッ、と何かが空を斬る音がした。


「ん? 何かこっちに飛んできたぞ」

「あー、一本取られたな……。気にするな。あんたにはちっとショックがデカいかもしれねえ」

「なんじゃそりゃ? 意味が分からないんだが」

「探すな。あたいが回収する」


 そんなショッキングなものが飛んできたのか? それも、俺と摩耶の視覚の外から? 考えれば考えるほど気になるじゃないか。

 摩耶はささささっ、とベッドを回り込み、壁から何かを引き抜いた。


「あんたは見るなっつっただろうが! いいから天井の染みでも数えてろ!」

「染みなんてないよ、天井だって真っ白で――」


 と言いかけて、僕は固まった。視線を上げようとした最中、おぞましいものが目に入ってしまったのだ。


 鈍い銀色に輝く、金属製の物体。全体的に菱形で、その刃の部分が把手の部分と実用部分が明確に分かれている。摩耶は異様な慎重さを発揮して把手を握り、壁にぶっ刺さった『それ』を壁から引き抜いた。

 これって、手裏剣じゃないのか? 時代劇かよ。でもこれ、本物か?


 そこまで考えが及び、僕は口を開いて思いっきり肺に空気を叩き込んだ。


「しゅ、手裏剣……! ま、摩耶、お前、僕を殺すつもりか!」

「んなわけねえだろ、馬鹿! それは美耶に訊いてくれ!」


 唾を飛ばして怒鳴り合う僕と摩耶。しかしさっきから、摩耶はやたらと美耶、という人物の名を口にしているが、何者なんだ?


「お姉ちゃん、離れて」


 と、恐ろしく冷たい声が部屋に響いた。僕は摩耶に従って、ギシギシと首を回す。その視線の先に立っていたのは、これまた一人の少女だった。


 ぱっと見、小学校高学年くらいだろうか。たった今、摩耶のことをお姉ちゃん、と呼んでいたな。摩耶の妹である月野美耶とは、こいつのことなのか。

 確かに摩耶そっくりの顔つきだが、目元がぱっちりしている。しかし、そんな品のよさも疑わしさと狂暴性のお陰で台無しだ。髪は長めで、ツインテールに結ばれていた。

 

「ナイフを仕舞いな、美耶。この男は人質だ。殺しちゃ意味がない」


 という姉・摩耶の援護に、僕も便乗する。


「そ、そうだよ美耶ちゃん! 僕はたまたま通りすがっただけの、名もない大学生で――」


 空を斬る音が、再び鼓膜を震わせた。今度はちょうど俺の顔の真横に突き刺さっている。


「ひっ!」

「ちっと黙ってな、あんた――って、あたいはあんたの名前も知らねえんだな。何て言うんだ?」

「お、俺は朔。朔柊也だ」

「名字が『さく』っていうのか。珍しいじゃんか」

「あ、ああ、それはよく言われて――って摩耶、後ろ!」


 僕は全身で叫んだ。三本目の手裏剣を取り出した美耶が、それを指で挟んで腰だめに構えている。刺突を繰り出すつもりか。

 僕は咄嗟に摩耶を突き飛ばそうとする。しかし、それは全く無意味だった。


「くっ!」

「甘いな、美耶。狙いはいいけど、モーションの時間が長いんだよ」

「……?」


 無言で今の状況を見定める僕。

 美耶の腕は、摩耶のわきに挟まれてそのまま停止していた。二人の頬を、額から流れてきた汗が濡らしていく。次いで、摩耶がぐいっと美耶の腕を引くと、美耶は素直に手裏剣を手放した。

 

 床に落ちた手裏剣が、ちりん、と涼しげな音を立てる。僕はそれを見下ろすようにして、頬を引き攣らせた。

 その隙に、というわけでもないんだろうが、摩耶は美耶をパイプ椅子に座らせ、自分は膝を折ってしゃがみ込んでいた。ちょうど姉妹の目の高さが同じになる。


「あのなあ、美耶? 姉ちゃんはいっつも言ってるだろ、飯と武器は無駄にすんなって。今、お前が使った手裏剣は三つ。そのうち二つは壁に刺さっちまったから、刃こぼれして使い物にならねえ。これは明らかな無駄遣いだ。分かるだろう?」

「で、でも! お姉ちゃんが怪我人を運び込むなんて、それこそ変だよ!」

「はあ? お前だって、こいつを連れてきた時には随分心配してたじゃねえか。それに、あいつが生きてるのはお前のお陰なんだぞ、美耶? あたいがこいつの傷の処置ができたのは、お前の指示があったからなんだぜ?」

「そ、それは……」


 なんだ、思ってたより喋るんだな、妹の方。もとい美耶。少なくとも、自分の思いを必死に伝えようという気概は感じられる。

 もしかしたら、姉である摩耶とだったら意思疎通がしやすいとか、そういう精神的な傾向があるのかもしれない。


 二人の抗論を見ていた僕は、ごくごく自然にある疑問にぶつかった。


「なあ、君らの家族は?」


 ……あれ? 会話が止んだ?

 何が起こったのかと尋ねるより早く、姉妹二人は俺の方に向き直り、表情を変化させた。


 摩耶は怒り。美耶は無表情。

 二人に共通しているのは、大きな驚きを隠しきれずにいることだ。


「美耶、お前はここで待ってろ。柊也、立てるか?」

「ん、大丈夫だと思う」

「ちっとこっちに部屋に来てくれ。美耶はここの医療キットを片づけておくんだ。いいな?」

「……」

「美耶、返事は?」

「……はあい」


 これで安全だと判断したのだろう。摩耶は顎をしゃくって、僕を誘導した。

 僕も頷き返した。ベッドから下りて靴を履き、ふっと溜息を一つ。


 隣に別室があるらしく、スライドドアを通り抜けると摩耶の背中が見えなくなった。

 僕もゆっくりと歩を進め、ドアへと向かう。


「あ、あのっ」


 エアコンの駆動音に掻き消されそうな小さな声を、僕は確かに聞き取った。

 ゆっくりと、声の主を驚かせないように振り返る。

 いつの間にか、美耶も僕の背後にくっついて来ていた。


「どうしたんだい、美耶?」

「えっと、その……」


 俯きながら、しかし必死に言葉を紡ごうとする美耶。僕は彼女を正面に捉えながら、ゆっくり待つことにした。


 腕を組んで視線を注ぐ僕と、美耶の視線がぶつかり合う。


「お、お願いです、私からお姉ちゃんを取らないでください!」

「えっ……」


 今度はこちらが返答に困る番だった。

 お姉ちゃんを『取る』って、どういう意味だ?


 少し考えてから、俺は美耶の視線に素直にぶつかってみた。

 すると、美耶はきゅっと唇を噛みしめ、ぎろり、と目を細めて、俺を見返してきた。その顔つきには、手裏剣を投げてくるような暴力性は見られない。


 待てよ? 美耶のやつ、何かとんでもない誤解をしているんじゃないか?


「あー……。美耶、僕は摩耶をかどわかしに来たんじゃないんだ」

「じゃあ、さっきのは何ですか?」

「さっき、というのは?」

「あなた、そこのお姉ちゃん用のベッドで寝てましたよね」

「ああ、そうだけど」


 すると美耶は、顔を真っ赤にして叫んだ。


「こんの変態ぃい!」

「どわあっ!?」


 なんだなんだ、どうして僕が変態なんだ。


「朔さん、あなた、ずっとお姉ちゃんのベッドで寝てたでしょう? つまり、あなたとお姉ちゃんは『そういう仲』ということではないんですか?」


 おい、そ、『そういう仲』って……。


「ち、違う違う! 僕は不良に絡まれたところを、摩耶に助けられたんだ。その場で気を失った僕を、摩耶がここに運び込んでくれた。仲、っていわれてもそれだけだよ!」

「ふぅん?」


 ふぅん? って……。コイツ、僕の言葉を信じる気はないだろ。

 一方、姉上はどうしたのか? 俺がスライドドアの方を見遣ると、摩耶がひょっこり顔を出すところだった。


「おい、何ごちゃごちゃしてんだよ! 柊也、とっととついて来い!」

「ああ、分かった。ってわけだから、僕は行くよ」

「まっ、待ってください! 私は……!」

「それなら美耶、決定的なことを言ってやる。僕が寝かされていたベッドは、外部との連絡用に使う扉の前に置かれていた。僕は気を失っていたんだから、ベッドを選ぶ権利はない。今日は偶然、その場にあったのが摩耶のベッドだった、ってだけの話だ。僕が摩耶のベッドに、勝手に忍び込んだわけじゃない」


 さて、ご不満かな? 僕があからさまに溜息をついてみせると、美耶は俯き、ぎゅっと両手を握り締めて黙り込んだ。

 これなら、誰にも文句をつけられるようなことはあるまい。


「さて、お前の姉上は待たされてご立腹だろうな。今度こそ、僕はもう行くよ」

「……あなたを疑って、ごめんなさい。私の考えすぎだったようですね」

「気にすんな。誰も君の姉上を悪役にしたいとは思わないだろうし」

「……」


 俺は肩を竦めてから、ピリオドを打ち込んだ。


「これ以上摩耶を待たせちゃいられないようだな。失礼するよ」


 無言の美耶を残し、スライドドアが開放されるのを待って、僕は摩耶の下へと急いだ。

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