第3話


         ※


 僕は平坦な歩道を歩きながら、改めて周囲を見回した。

 特に目指す場所があったわけでもない。大股でさっさと歩を進めていく。

 するとやはり、二週間にもわたる引きこもりでなまった身体には、反動が大きかった。


 反動とは。

 しばらく外出をしなかったために、慣れていたはずの光景や物音にビビッてしまう、という現象のことだ。


 だが、今日は例外。至るところに制服姿の警察官が立っていて、鋭い目つきで周囲を見回している。

 僕が悪事を働いたわけではないが、それでも委縮してしまう。


 警察官と目を合わせないように、僕は大通りから脇道に逸れた。

 高層ビルが並んでいるのは結構なことだ。しかし、光があれば闇も生まれる。ビルの裏にある居酒屋やスナック、それに外国籍料理店などは、完全にビル群の陰の部分を演出していた。

 日が当たらないようにビルが立ち塞がっているのだ。


「じめじめするな……」


 俺の皮膚感覚が、やたらと不快感を訴えてくる。

 時季が時季だし、こんな思いをしているのは俺だけではないだろう。


 ふと顔を上げると、妙にあたりが暗くなっていた。どうやら雲の下に入りつつあるようだ。

 さっきは遠目に入道雲を眺めていたのだが、雲は着実に俺の頭上に被さってきていた。

 今日も今日とてゲリラ豪雨か。酷な季節だな。仕方ない、そろそろ帰ろう。


 ごろんごろん、と岩が裂けるような音がした。落雷だ。だいぶ近い。

 俺は小さく舌打ちをして、高架橋の下に入ろうと駆け出した。


 さっさと歩行速度を上げながら、折り畳み傘を展開。それを右手に握らせて、くるりと振り返った、その時だった。


「よう、兄ちゃん」

「はっ、はいぃ?」


 突然声をかけられ、俺は心臓が止まりかけた。


 この細い裏路地の、俺の行く先をきっちり塞ぐ形で二人の人物が立っている。

 二人共若い男だ。パーカーを頭から引っ被り、手先を擦り合わせている。


 本来なら、どいていただけますか? とでも尋ねて、平和的解決を図るべき。とにかく下手に出るのだ。金ならくれてやる。

 だが、その時の俺は頭のネジがぶっ飛んでいた。怒りや苛立ちを制御する弁が、閉めようにも閉められなかったのだ。


 それはきっと、昨夜からのゴタゴタがあったためだろう。

 実際に俺が巻き込まれたわけではない。だが、通り魔の話を聞いたり、実際に警察官が配されているのを見たりして、恐怖を覚えてしまったのかもしれない。

 人間、怖がっているよりも怒っている方がまだマシだ。


 そしてあろうことか、俺は二人に殴りかかった。


 最初の相手は、声をかけてこなかった方の大男。声をかけてきた相棒、細身の男の方が、きっと反応が早い。今も目を丸くして、俺に笑みを向けている。

 こんな無謀な喧嘩を買う人間は少ないのだろう、呆気なく吹っ飛ばされた俺の耳に、いろんな罵詈雑言が入ってくる。


 彼らは遊ぶ金が欲しいのだろうか。だったら、今の俺の財布を渡して勘弁願うしかあるまい。確か、中にはまだ五千円は入っていたはず。

 ああ、いつも通りの考え方だったら、さっさと財布を出したのに。


「じゃ、じゃあこれで……」


 よく行くラーメン屋での会計を済ますかのように、中身を取り出しながら財布も含めて取り出す。


「なあんだ、最初っから出せばいいだろ! っておい、万札が入ってねえじゃんか!」


 ふざけんなよ、という怒号と共に、俺の腹部に相手の爪先がめり込んだ。


「ぐはっ!?」


 危うく嘔吐しかけた。バンバンと胸を叩き、せり上がってきた酸っぱいものを押しとどめる。

 この期に及んで、俺は質問をぶつけられた。


「これは俺たちの拠点、鬼羅鬼羅通りだ。あんた、俺たちのシマに何の用があったんだ?」


 鬼羅鬼羅通り。これは通称でも、遊び半分で呼ばれているのでもない。実際に地図に記載されている地名である。不良のたまり場として有名だ。


 そんなことより。

 もしかしたら、本当に僕はここで死んでしまうのだろうか?。

 と、意識が現実から遠のいた瞬間のこと。


「あんたどこのシマのもんなんだよ、っと!」

「むぐっ!」


 パーカー野郎のストレートが鼻先を直撃した。僕は思いっきり後ろに吹っ飛び、薄汚い雑居ビルのドアに突っ込む。そのままドアが開いて、僕は泥まみれのビル内にぶっ倒れた。


「あんた、靴の裏だか内ポケットだかに隠してんだろ? 出せよ、命は助けてやる。でなければ――」


 僕は自分の目がぐわっと見開かれるのを自覚した。

 そりゃあそうだろう、目の前にナイフを突き出されたら。


 その時僕の正面にいたのは、出会ってから一度も口を利いていない大男だった。


「いいかい、こいつはな、殺人未遂と傷害の件で五年も豚箱で臭い飯食わされてたんだ。甘く見ない方が――」

「……!」


 俺が短い悲鳴を上げようとして、見事に失敗した直後。


「ちょいちょいちょいちょい! 何やってんのさ、あんたら!」

「あぁん? 俺たちのやることに文句が――って、うわあ!」

「あたいの前じゃ喧嘩は許さないよ。もちろん、蹴るも殴るも殺人もね。さっさとナイフを捨てな」

「わ、悪い、摩耶姉……。お、おい、摩耶姉の前だ! てめえもナイフを仕舞え!」


 すると、僕の前に立ち塞がっていた男もまた、びくりと肩を震わせた。

 慌てて後ずさりするパーカー二人組。そのまま後ろ歩きで去っていく。どこかでコケそうだな……。どうでもいいけど。


 それより気になったのは、今パーカー二人組を追い散らした人物のことだ。

 声からすると、声変わり前の男子か地声の低い女子だと思う。だが、情報がそれしかない。


 僕は床に掌をついて、ゆっくりと上半身を起こそうとした。


「大丈夫か、あんた?」

「あ、ああ、ごめん、助かっ――」


 ここまで言ってから、僕は意識を失った。

 その直前に見えたのは、ノースリーブシャツにダメージジーンズを穿いた、小柄な短髪の人影だった。


         ※


 冷風が僕の身体に吹きつけてくる。

 仰向けに寝かされた僕は、その冷風から逃れる術もなく、微かに呻き声を上げるのが精々だ。


「おっと、気づいたか、あんた」

「……」

「すまねえな。ここにいる連中、芯から腐ってるわけじゃねえんだ。あんたをここまで運んできたのは、あのパーカー姿の馬鹿二人だよ。ちょっとからかう相手が欲しかったんだってさ。あたいから説教して、こてんぱんにしてやった。安心しな」

「ん……」

「おっと、無理に起きるなよ。今、デコのタオル取り換えてやるから。処置するための知識は美耶が――妹が説明してくれたんだ。礼ならあいつに」


 口早に説明する人物を確認すべく、僕は僅かに目を開いた。

 そこにいたのは、気絶直前の僕が目撃した小柄な人物。

 自分を『あたい』って言ってたな……。ということは女なのか。


「……名前……。あんた、名前は……?」

「月野摩耶。去年めでたく高校中退。妹と家出して、ここに住んでる」

「ここ、って……鬼羅鬼羅通りに?」

「ああ。あたいらが来たばっかりの時は、黴臭くて適わなかったけどな」


 自分がベッドの上に寝かされているのを自覚しながら、俺は再度起き上がろうと試みた。


 上半身をベッドから引き剥がし、周囲を見回す。そして、少しばかり驚いた。

 この部屋が極めて衛生的だったからだ。外観からはなかなか想像できるものではない。


「ここに住んでる……? 家出して? 親は何をやってるんだ?」

「あらら。突然訊くのかよ、それ」


 何が可笑しいのか、摩耶と名乗った女子は両手を腰に当てて、わははと豪快に笑った。


「お生憎様、あたいも美耶も家族に恵まれなくてね。いわゆる親ガチャ? でハズレを引いちまったんだよ」

「そりゃあ……」


 何があったのか? あんたの歳なら養護施設に預けられるべきじゃないのか?

 それを尋ねようとして、俺はさっと好奇心を押さえ込んだ。

 いくらなんでも、出会って一日と経っていない人間同士で話せるネタでもあるまい。


「何か飲むかい? 水分補給は喉が渇く前にやっとかねえとな」

「ああ、僕は……。ん、悪い、スポーツドリンクなんてあるか?」

「買い込んであるぜ。美耶!」


 すると、唐突に摩耶の後方から何かが飛んできた。摩耶は振り返りもせず、自分の頭上に両手を翳す。

 真剣白刃取りの要領で見事にペットボトルをキャッチ。そのまま僕に差し出した。


「あ、ありがとう」

「ん、ま、まあ、それは美耶が定期的に準備してくれるからな。あたいが礼を言われる筋じゃねえ、っつーか……。あー……。美耶に言ってやれよ」


 摩耶の頬が僅かに赤く染まったように見えたが、気のせいだろうか?

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