Ⅹ
「では。いざ行かん、昼の国へ!」
純黒の肩の上で、片翼を上げた星烏が高らかに告げる。昼の国の人と出会っても意思疎通ができるよう、通訳を任されたシルヴェスタも連れて。二人の少女と一羽の星烏は、昼の国へと出発した。
最初は必然、屋敷を囲う森を抜けることになったが、ディリアはもう恐ろしくなかった。ずっとレトナが手を握ってくれているし、お互いの肩を交互に行き交いながら、賑やかしてくれるシルヴェスタもいる。一人と一羽のお陰で、森を眺める余裕すらあった。ここで倒れてしまった時、もう死ぬのだと諦めていたのが噓のようで、遠い昔のことのようにも思えた。
森を抜けると、広がるのは平原。黒い帳はまだ重なっているが、木々の枝葉が作る屋根は終わりを告げ、天蓋に満ちる星々があらわとなる。妹神のために縫い付けられた装飾は、昼の国へ向かうことを考えると、
朝の神が見張る境まで、白黒と星の一行は、談笑しながら歩いていく。空はだんだん黒から紺へ、紺から藍へと変わり、星々はその数を減らしていく。向かう先に唯一、まばゆい光を放つ星を残して。
その星こそ、かつて人々の祈りから顕現した、二柱の神のうち片方。朝の境を見守る神だった。朝の神は光を
「昼の国へ、何をしに行く」
男か女か分からない声に、ゆったりとした衣を纏った姿かたち。月から遠く、黒と青が混じる薄暗い中、星と同じ銀色の髪が
「私は朝を見張り治める者。昼の国に生まれた者よ、その一人と一羽はここに置いて、帰りなさい。夜の国は、去る者には何も渡さぬ」
「畏れながら申し上げます、朝の神よ。我々は自ら、昼の国へ向かっているのです」
既に膝をついていた少女たちと同じく、地面で姿勢を低くしていたシルヴェスタが声を上げた。
「私は、こちらの少女が本意を伝えるべく通訳を担っている者。故に、彼女の意思も、私自身の意思も、正直に申し上げております」
「ふむ。嘘ではないな。しかし、夜の国の者よ。おまえたちは死を悼み、死に寄り添う者。生を謳歌する昼の国へは行けぬ。死を悼み寄り添うはおまえたちの使命。いかなる理由があろうとも、放棄は許されぬ使命である。昼の国へ行くことは否応なく、使命の放棄と見なされてしまうのだ」
「そんなこと、わたしには言われませんでした」
ぱっと顔を上げたディリアの訴えに、朝の神は「当然」と短く答える。
「昼の国の者には、生を謳歌する使命こそあれど、夜の国へ行ったとて、それを放棄したとは見なされぬ。夜の国は受け入れるのだから。されど、去る者には何も渡さぬ。妹神の
「盗みなんて、そんな……レトナもシルヴェスタも、物ではありません!」
あんまりな言い方に、ディリアが悲鳴じみた訴えを叫んだ横で、レトナが黒檀の指を動かす。書き記された言葉はシルヴェスタへと伝えられ、朝の神へと向けられる……はず、だった。
「ああ、何てことを、夜の国の娘よ! それは、思ってはいけないことだったのに」
初めて、朝の神の顔が歪む。悲しそうに、苦しそうに。その顔が逸らされた直後、閃光が走った。次いで高熱が、思わず目をつむったディリアの間近まで迫った。
「――アアアアアアァァァァ……ッッ!!」
絹を裂くような、
あまりの悲痛な響きに、あまりの光と熱さに、ディリアは目を開けられないまま顔を背け、耳を塞いでいた。命を守るために、体が勝手に動いていた。何も考えられなかった。
ようやく目が開けられた時には、もう朝の神の姿はなかった。レトナが引き連れていた
「レ……トナ……? シル、ヴェスタ……?」
大きい方は、より姿かたちが明らかとなった、夜の国の少女。小さい方は、宿した星も見えなくなった星烏。
一人と一羽は、返事をしない。目も開けない。ディリアが目を瞑っていた間に、何者かの手によって、焼き払われてしまったのだ。一緒にいたいと願ってしまったばかりに。二つの国の人々の、架け橋になれるかもしれないと信じたばかりに。
ずるり、ずるり。這うように近づいて、ディリアはレトナの顔を覗き込む。真っ白に染まった夜の国の少女の顔は、苦しそうに口を開けて、苦しそうに目を閉じたままで、止められていた。この口から叫ばれたのが、あの悲鳴だったのだ。
「あ……ああ……」
初めて聞こえた、大切な女の子の声。苦しいと叫んでいた、大切な女の子の声。ディリアは、耳を塞いでいた。あまりにも痛々しくて、聞いていられなかったから。
助けを求めていたかもしれないのに。ディリアの名前を、呼んでいたかもしれないのに。
保たれていた体内の熱が、涙に乗って外へ出ていく。寒さがじわじわと侵食してくる。広かった視界は狭まり、暗くなっていく。倒れた時の恐怖がよみがえって、涙が増えていく。暗い中に一人残されてしまうのは、恐ろしかった。恐ろしくて、抜け出したくて、誰でもいいから傍にいてほしくて。ディリアは両手を、一人と一羽に伸ばした。
けれど、真っ白な二つの骸は、触れた途端に崩れていく。
「い、や……いや、いや! やめて、やめてやめてお願い崩れないで!!」
掴んで戻そうとしては、崩壊を速めてしまう。それでもディリアは手を止められなかった。白亜の手に掴まれた骸の白は、熱のない白だった。昼の国の白では、なかった。
寒い、寒い、冷たい、冷たい。崩れてしまった骸の傍で、ディリアも次第に動けなくなっていく。霞んだ視界の中、骸に黒いもの何かが混じっている。それは、昼の国の少女の手だった。寒さに侵され、末端から真っ黒く染まり始めた、白亜の手だった。
黒なんて、怖いばかりの闇の色。あなたの色だから、美しいと思ったの。美しいと、思えたのに。
熱を失った黒は、もしかしたら、あの純黒と同じかもしれなかった。いいや、違う。絶対に違う。彼女と、彼女の友だちを見捨てた自分の色が、あの純黒と同じであって良いはずがない。
骸から手を引いて、骸から離れて、昼の国の少女も横たわる。もうこれ以上、夜の国の少女も、夜の国の星烏も汚したくなかった。夜の国と同じではない、愚かを示す自分の手で、汚したくなかった。
白は崩れ、黒は黙する。神さえ目を逸らした境の平原にて、灰になれども灰色になれなかった者たちは、誰にも知られず消えていった。
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