閉じた本を棚に戻し、レトナは窓外へと視線を向けた。夜の国を治める月が、今日も皓々こうこうと輝いている。

 天空が昼と夜とに分かたれた際、地上も二つの国に分かたれた。清らかなる白い昼の国と、静かなる黒い夜の国に。レトナがいるのは、妹神の眠りを妨げないよう、静謐を約束された夜の国だ。

 光る鉱石を入れた角灯カンテラを宙に浮かせ、階段を下りていく。こつりこつり、足音は密やかに。しゅるりしゅるり、衣擦きぬずれの音も密やかに。本棚で覆いつくされた、大切な書斎兼図書室を後にする。

 レトナが暮らしているのは、元々、彼女の祖父が住んでいた屋敷。変わり者だった彼女の祖父は、国の外れに居を構え、研究に没頭していた。レトナは両親を早くに亡くしたので、この祖父に育てられたのだが、祖父も亡くなってからは、一人でここに暮らしている。

 広い屋敷の中に、明かりはレトナの足元を照らす角灯のみ。夜の国は、眠りを妨げる明かりをいとう。加えて火も嫌う。何せ、月である妹神が死んだのは、火炎のせいだから。月以外で夜の国を照らすのは、光る鉱石や動植物、それらを利用した明かりの魔術だけだ。

 レトナが向かったのは、厨房。広い厨房を一人、魔術で縦横無尽に使って、瞬く間に二人分の料理を作り上げる。片方には魔術で保存の覆いをかけ、もう片方は角灯の下に浮かべて、再び歩き出す。

 次に向かったのは、二階の部屋。二階には彼女の自室――といっても休息以外には使っていない――もあるが、向かうのは来客があった時用の部屋。レトナも祖父の後を追って研究者となったので、訪ねてくる人も様々にいる。しかし、今現在その部屋にいるのは、レトナを訪ねてきた人ではない。

 辿り着いた部屋に、ノックをしてから入る。カーテンの開かれた窓からは月光が差し、大きな鉱石まるまる一つが、ベッドのかたわらでぼんやり光っている。天蓋付きのベッドもカーテンが開かれており、横になっている人物が、レトナを見るなり微笑んでいた。


「ごめんなさい、ありがとう」


 食事への詫びと礼。それを紡ぐのは、夜の国では限られた場所でしか聞くことのない「声」。それを発したベッド上の少女は、夜の国では見ることのない純白を宿している。

 彼女は、昼の国からやって来たのだ。

 この少女は数日前、屋敷の周囲に広がる森に倒れていた。ひどく弱っていたので、見つけたレトナが保護して連れてきたのである。


「あ、あの。あなたのお名前を訊いてもいい?」


 光る鉱石とは反対側に置かれたサイドテーブルに、トレイを置いてきびすを返そうとした矢先。何もかも純白の少女が、思い切ったような声を出した。ずいぶん回復したから、余裕が出てきたのだろう。いいことだ。

 角灯の光を受けながら、観察するような視線を送るレトナに、少女は緊張した面持ちを崩さない。必要があるとは思えなかったが、無視してしまうのも気が引けて、レトナはベッドのそばへと戻る。

 花びらのようにフリルが重なった白いそで、そこから伸びる白亜の手を、黒檀こくたんの手が取る。昼の国に生きる人々は、体も身にまとうものも純白。反対に、夜の国に生きる人々は、体も身に纏うものも純黒。混じるものなき白の手のひらへ、混じるものなき黒の指が、字を記す。


「……レトナ。それがあなたの名前?」


 確認する声に頷くと、白い少女は表情を緩めた。おぼろな鉱石の光よりも、ずっと明るく見える微笑を浮かべていた。


「恩人の名前を知れて、嬉しいわ。わたしはディリアというの。助けてくれてありがとう、レトナ」


 手を握り返し、真正面から顔を見て礼を言うディリア。伝わってくるほのかな温かさもまた、彼女が昼の国から来た者の証。

 ただ頷きを返して、レトナはするりと手を引き抜いた。自分もまだ、食事を取っていなかったので。

 密やかな足音と衣擦れの音をささやかせて、部屋を後にする。ディリアの視線は感じられたが、何か言ってくることはなかった。またトレイを下げに来るから、まだ何か言いたいことがあるなら、その時に言ってくれるだろう。

 厨房に戻りながら、ふと、彼女の声に意識が傾く。声をはばかるなんてことがない昼の国出身なら、夜の国の静謐は、息苦しいのかもしれない。話し相手が必要なのかもしれない。

 声を発する機会が限られた夜の国にも、お喋りな存在はいる。そのうち、心当たりがあるものを思い浮かべながら、レトナは暗い廊下を進んでいった。

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