第2話.復讐なんて無駄

 翌日、弘昭はいつものように朝七時に近所の紗絵の家に向かっていた。


 昨日はあの後、弘昭と千鶴はそのまま一緒に帰った。偶然にも彼女が住んでいるアパートは割と彼の家の近所だった。


 千鶴が一緒に居てくれたおかげで、幸いにも弘昭は紗絵のことをあまり考えずにいられた。もし一人きりだったら、モンモンと色々考えてしまっていただろう。


 もちろん、紗絵のことを忘れることなんてできない。今でも彼女のことが好きだし、どうにか誤解を解いて仲直りをしたいと考えている。


 紗絵は何か勘違いをしているだけ、ちゃんと話せば分かってくれるはず、弘昭はそう思っていた。


 通い慣れた幼馴染の家に向かう道、あの角を曲がれば紗絵の家はもうすぐ。そして、弘昭が角を曲がり彼女の家を目に捉えた時だった。ちょうど玄関のドアが開く。


 こんなに早く紗絵が出てくるのは珍しいな。


 彼女は朝が弱くいつも弘昭を待たせていた。


 もしかしたら、紗絵は勘違いだと気づき謝ろうと、早く出てきて俺を待とうとしているのかもしれない、そう思い彼の足は早まる。ところが、出てきたのは明らかに紗絵ではなかった。


 誰だ一体?


 紗絵の両親は共働きで、いつも七時前には仕事に行くため家を出ている。それに一昨日から、両親は出張で家を開けていると彼女は言っていた。


 近づくと、それは男で弘昭と同じ制服を着ていることが分かった。背が高く、遠目からでもイケメンであることがうかがえる。


 見覚えのない男に弘昭が顔をしかめていると、玄関のドアがまた勢いよく開いた。今度は紗絵。昔から見慣れたその姿、間違えることはない。


 彼女は鍵を掛けると笑顔でその男に駆け寄った。それを見て、弘昭はなんとなく電柱の影に隠れた。


 家の前に並んだ二人は美男美女ということもあり、とてもさまになっている。悔しいが、恋人である弘昭が隣に並ぶよりもだ。


 その男が穏やかな表情で話し掛けると、彼女は笑顔で終始恥ずかしそうな反応を見せている。そして、「行こうか」と男が促す感じで、二人は学校に向けて寄り添い歩いていった。


 電柱の影から出てきた弘昭は唖然としていた。二人はまさに、初めての朝を迎えたかのような雰囲気だった。


 嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! 俺の紗絵が、俺だけの紗絵が……。


 公園でおままごとや追いかけっこをしていた無邪気な姿。いじめっ子に泣かされた顔、そのいじめっ子を追い払った後に見せた笑顔。体育祭で応援していた大きな声、お互いの受験番号を見つけて思わず抱き合い、校門へ続く桜並木を手を繋いで歩いた。デート帰りに抱き合った細く柔らかな感触、そしてクラクラするほどの甘い匂い。それら幼い頃からの彼女との思い出がフラッシュバックする。


 愛おしい幼馴染の唇や貞操を奪われたことを想像して弘昭は絶望した。涙を流すのなんていつ以来だろう。止めどなく溢れ出る。


 くそっ、そういうことかよ! 紗絵はあのイケメンと付き合うため俺を振った、それか、ずっと二股をしていて邪魔になった俺を切ったんだ! きっとそうだ!


 弘昭は涙を流しながら怒りで拳をブルブルと震わせた。ドロッとした真っ黒な感情が、心の奥から溢れ出てきているのを感じる。


 復讐してやる! あいつの人生をメチャクチャにしてやる!!


 遠ざかる二人の後ろ姿を眺めながら、弘昭は復讐を決意した。影を潜めていた彼のやんちゃな部分が再び顔を覗かせていた。



 昼休み、いつも仲間たちといる食堂を離れ、校舎裏で弘昭は一人お昼を食べていた。鋭い目つきでパンを乱暴にかじる。


 どうやって復讐してやろう。紗絵の不貞の話を学園中に流してやろうか。


 弘昭と紗絵の二人が付き合っていることは周知のこと。そこで、あの男との浮気の話を流せば瞬く間に噂は広まり、彼女は学園にいられなくなると考えた。


 もちろん、弘昭と別れた後にあの男と交際したということであれば一応筋を通しているとも言えるが、別れた次の日に別の男と関係を持つなんて、それはそれで非難の対象になることは想像に容易たやすい。


 でも、ただ噂を流すだけでは駄目だ。みんなが信じるような証拠がほしい。


 弘昭は、今朝写真や動画を撮らなかったことを後悔した。とはいえ、衝撃的な光景を前に、そんなことができるほどの余裕はあの時にはなかった。


 まずは証拠を確保しよう。そしてあのイケメン。あいつは一体誰なんだ。紗絵に復讐した後、あの綺麗な顔をボッコボコにしてやる! いや、鼻や顎が折れてぐちゃぐちゃになった顔を、紗絵のやつに見せつけてやった方が面白いかもな。


 ニヤリと笑みを浮かべると、あの男の顔をイメージしビュっと拳を前に突き出した。


「キャ!」


 突然の悲鳴に弘昭は身構えた。見ると、千鶴が怯えた表情で弘昭を見下ろしている。


「なんだ千鶴か。びっくりしたぁ……」


「あの、ごめんなさい」


「いや、急にパンチを出した俺が悪かったよ。どうしたんだこんなところで」


 ここ校舎裏は普段生徒が来るところではない。昨日のように、人に聞かれたくない話をする時くらいなものだ。実際、今も二人以外には誰もいなかった。


「私、毎日お昼休みはここでお弁当を食べてるんです」


「えぇ!? こんなところで?」


「あ、あの、前に教室で食べてたら、ゴミとか虫とかをお弁当箱に入れられたので……」


「ひでぇな」


「でも、ここで食べるようになってからは大丈夫です。弘昭さんこそどうしたんですか? それに先ほど、とても怖い顔をされてましたけど……」


 千鶴は心配そうな顔で訊ねた。


「あぁ、えっと……」


 寝取られた元カノと間男への復讐計画を考えていたなんて言い出しづらい。弘昭が言葉を詰まらせていると、祈るように手を前で組み潤んだ目で千鶴が見つめてきた。


「お力になれるのか分かりませんが、何か悩んでいることがあるのでしたら聞かせてください」


 まるで聖女と見まごうばかりの姿。弘昭はぽーっとしてしまい、聞かれるがまま事のあらましを話した。


「……そうだったんですか。辛い思いをしましたね。あっ、ごめんなさい。そんなこと、付き合ったこともない私が言うのはおこがましいですよね」


「そんなことはないさ。でも、幻滅しただろ? 復讐を考えてるなんてさ……」


 弘昭は苦笑いしながら視線を逸らした。後ろめたさから、純粋で美しい千鶴の瞳を真っ直ぐ見れなかった。


 きっと軽蔑される、そう思っていたが彼女の反応は意外なものだった。


「私だって誰かに嫉妬したり憎んだりする気持ちはあります。先ほどのお話を聞いて、弘昭さんの元カノさんに私もすごく怒ってますし! それこそ何か痛い目に遭わせたいと思うほどです」


 ぷんぷんとおこり顔で言う。真剣な話をしているにもかかわらず、そんな顔も可愛いなぁと弘昭は心の中でクスッと笑ってしまった。


「でも……、でもですよ」


 千鶴はすうっと寂し気な表情になると続けた。


「優しい弘昭さんが復讐している姿を想像すると、なんか悲しくなってきて……。ごめんなさい」


 彼女は泣いているのか顔を逸らした。それを見て弘昭はハッとした。自分がいかに憎しみに支配されていたかを、いかに醜い顔をしていたかを。


 溢れ出ていたドロッとした真っ黒な感情が、千鶴の聖なる力により浄化されたような気がした。天を仰ぎハーっと大きく息を吐く。


「千鶴、ありがとう。俺、あの女と同じように人の不幸をかえりみない奴になりかけてた。考えてみれば、なにか得られるわけでもないし、復讐なんて無駄だな」


「弘昭さん……」


 千鶴はグイっと近づくと彼の手を取った。


「そうですよ! 前に誰かが言ってました。自分が幸せになることが一番の復讐になるって。確か……、『ざまぁ』でしたかね」


 突然彼女に手を取られたことに驚き、弘昭は体を硬直させた。ドキドキと心臓が高鳴り、顔は茹でダコのよう。


 その様子に気づいた千鶴は彼よりも更に赤くなった。バッと手を離す。


「ごごご、ごめんなさい」


「い、いや、いいよ。えっと、その、あ、ありがとな」


 照れ隠しから頭の後を掻いた。


「いえ……」


「でも、ざまぁか。そうだな。あいつより幸せになって見返してやるか」


「そうです! その意気ですよ!!」


 興奮のままにまた千鶴が手を取った。二人はその手を見合うと、今度はアハハッと笑った。

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