シャークヘッド社員の有給休暇

鴻 黑挐(おおとり くろな)

シャークヘッド社員の有給休暇

 ある朝、鮫島さめじまカフカは自分の頭がサメになっている事に気がついた。

 もっと正確にいうと、鮫島の胸から上がそっくりそのままホホジロザメのエラから上の部位に差し変わってしまったのだ。

 異変に気づいたのは、朝食を流し込みメイクをして出勤しゅっきんしようとしている時だった。

「ぎゃっ!」

鮫島は鏡を見て悲鳴を上げた。

 するどとがった歯、弓形ゆみなりに反った口、ザラザラした肌、光のないうつろな目。首は無くなっている。胸元までサメ頭になってしまったからだ。

 鮫島はしばらく呆然ぼうぜんとしていた。

「いやいや、ぼーっとしてる場合じゃない」

意を決してスマートフォンを手に取る。電話をかけるのは微積分を解くのと同じくらい苦手だが、背に腹は変えられない。

 コール音が鳴る。

[もしもし]

「あ、店長お疲れ様です。鮫島です」

[おう、どしたん?]

「あの……」

鮫島は考え込む。

(『頭がサメになりました』なんて言って、果たして信じてもらえるんだろうか?)

[何?はっきり言ってよ]

「実は、今朝がた頭がサメになりまして。なので、今日はお休みさせていただいても……」

[はぁ?何、ふざけてんの?]

「い、いや、その、ホントにそうとしか言えないんです……」

電話口からため息が聞こえる。

[全く。んなバカな事で電話しないでよ]

「あ、あの、今日の出勤は」

[いつも通りに来て]

電話は一方的に切れた。


 来いと言われたからには行くしかない。鮫島は駐車場に降りて車のエンジンをかけた。

「よっこいしょ」

運転席に座ってみるが、どうもしっくりこない。

「視界がヘン。なんで?」

しばらく考えて、前かがみの姿勢になってみた。海中を泳ぐサメと同じ視界にしてみようという訳だ。

「うーん、あんま変わらないな」

 ヒトの目は頭部正面についていて立体感を認識しやすい。しかしサメの目は頭部両脇についている。これによりヒトに比べて広い視界を確保しているのだが、その分立体感がつかみづらくなっている。水中では鼻先にあるロレンチーニ器官が立体感覚を補助してくれるが、ここは地上だ。

「事故らないようにしないと」

いつもとはまるで違う視界に四苦八苦しながら、鮫島は職場に向かった。


 電源の切れた自動ドアを手で押し開けて店内に入る。

「おはようございまーす」

事務所じむしょに入ると、先に来ていた店長がギョッとした顔でこちらを見た。

「はいおはよ……えっ⁉︎鮫島さん⁉︎」

「はい。鮫島です」

「ええ?ど、どうしたのその顔」

「わかりません。朝起きたらこうなってました」

「そっか、そっかあ。マジでサメ頭になっちゃったんだ」

店長がひたいに曲げた指を当てて考え込む。

「うーん、今日はもう帰った方がいいんじゃない?その顔で仕事は無理でしょ」

「ですよね」

そもそも電話をかけた時点で分かりきっていた事なのだが。

「じゃあ、有休の紙書いておいて」

「分かりました」

今日の日付、自分の名前まで書いて、鮫島の手が止まる。

「有休の理由って、どうすればいいですか?」

「『体調不良』、とか?」

店長が困惑した表情で言う。頭部がサメになった場合の対応なんて誰もしたことがないのだから、当然と言えば当然だ。

「じゃあ『体調不良のため』で」

書類を書いて事務所の引き出しにしまう。

「ごめんね。電話もらった時は、鮫島さんおかしくなっちゃったかと思ってさ」

「いえいえ、私も信じてもらえると思って電話してなかったので」

「うん、うん。じゃあ、お大事に」

「はい、お疲れさまでした」

微妙びみょう雰囲気ふんいきのまま鮫島は事務所を後にした。


 有給休暇を手に入れた鮫島は、車の中でスマホをいじっていた。

「こういう時ってどこの病院に行けばいいんだろう」

『頭がサメになった』で検索けんさくしても珍しいサメや低俗ていぞくなサメ映画の記事しか出てこない。

「顔の症状しょうじょうだから皮膚ひふ科?それとも内科?まさか動物病院なんてことはないよな」

マップアプリで付近の病院を検索しながら鮫島はぼやく。

「でも。仮に病院に行ったとして、どうにかなるんだろうか?」

街のクリニックで頭がサメになった人間を治療ちりょうできるのだろうか。大学病院やら研究所に送られて、ホルマリン漬けにされてしまうのではなかろうか。

「どうしよう」

ため息をつくのと同時にお腹が鳴った。

「とりあえず、買い物して帰ろう」


 平日の午前中とはいえ、スーパーにはちらほらと人がいる。

(味覚もサメになってるのかな。だとしたらもう一生スイーツは食べられなくなるのか。それは嫌だな)

鮮魚せんぎょコーナーを物色する。すれ違った買い物客がギョッとした顔で通り過ぎていった。

「買い物って、こんなにスムーズに出来るもんなんだな」

半分にカットされた大根をカゴに入れながらつぶやく。

 このスーパーは勤務先の近くにある。そのため、買い物をしていると必ずと言っていいほど誰かに声をかけられていた。例えばそれは常連客だったり、子供と夫をともなったパートスタッフだったりする。

 そういう勤務外に生じるエンカウントを、鮫島は日頃からなんとなくわずらわしく思っていたのだった。


 アパートのドアを開けて、買い物袋を床に置く。魚の切り身パックと大根がこぼれ落ちる。

「味覚、変わってるんだろうか」

切り身をかじってみる。

「うーん!焼いた方がいいな」

フライパンを取り出して切り身を焼く。

「よかった。味覚は人間と一緒だ」

焼け目のついていくパチパチという音を聞きながら胸をで下ろす。

「大根おろし……。あっ、おろし器無い」

鮫島はしばらく考えこみ、自分のほほを触った。


 「ダハハーっ!」

頬で大根をおろす。サメの皮膚はおろし金にも使われている。

「あーはっはっは……ハァ」

ヤケになって笑ってみても、頭はサメのままだ。

「どうしてこうなっちゃったかな」

昨夜テレビで放送していたサメパニック映画を見ながら寝落ちしたからだろうか。パートスタッフの希望休の穴を埋めるために連勤れんきん続きだったからだろうか。実家の弟の学費を工面するために仕送りの要求額が増えたからだろうか。連日店に入り浸って女性スタッフに話しかけてくる男性客が、とうとう住所を聞き出そうとアプローチをかけてきたからだろうか。

「いや」

きっと、どれも決定的な理由では無いのだろう。そういう小さなストレスを片付けることができなかったからだ。積み重なったストレスが、ジワジワと鮫島の心と体をむしばんでいたからだ。

「あー、全部ぶっ壊したいな」

そう呟いて、鮫島はようやく自分がサメになった理由に気がついた。

「そうか。私、全部ぶっ壊したかったんだ!」


 鮫島は走った。いつの間にか胸から下もサメになっていた。全サメだ。

『あっ、お疲れさまー』

自分に丸投げして退勤たいきんするパートを食い殺す。

『あんた、いつ帰ってきたの』

常日頃『余裕が無い』と言っているくせに犬を2匹飼っている母を食い殺す。

『いつ出勤なの?』

何も買っていかないくせに毎日のように女性スタッフに粘着ねんちゃくするうすらハゲの中年を食い殺す。

「ギャハハははは」

腕が飛ぶ。足が飛ぶ。これでいい。私はサメだ。世界の理不尽を破壊し尽くすサメだ。


 ノックの音が聞こえる。

「お客さーん?もう閉店ですよー?」

「あ、はい」

鮫島は生返事なまへんじを返した。

「夢……?」

足元に買い物袋が見える。買い物帰りにトイレで寝落ちしてしまったようだ。

「すいません」

個室のドアを開けて急ぎ足で店を後にする。


 ふと立ち止まって、自動ドアに映る自分の顔を見た。

 乱杭歯らんくいば、下がった口角、ファンデの浮いた肌、正面に一対いっつい付いた目。

「良かった。まだ人間だ」

(でも。人間でいられるうちに、今の環境を変えた方がいいのかもしれない)

そう思いながら、鮫島は車のエンジンをかけた。

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