第七話 死線

 サクヤは雪の上に倒れたヒバリを呆然と見た。


「……記憶障害。そんな……俺とヒバリは一日中一緒にいたんだ。薬なんて……」


 サクヤはいつもヒバリと一緒に居た。同じ場所に行き、同じ物を食べ、同じ物を飲んだはずだ。それのなのに、なぜヒバリだけが倒れる?


 さくり、と雪を踏みしめる音が聞こえる。サクヤは弾かれるように前を向いた。 

 蛇男は、覚束ない足取りでゆっくりとこちらに接近してくる。


 サクヤは男の前に立ちはだかった。後ろには動けないヒバリとジヒ、ついでに金髪がいる。これ以上近づけさせてはだめだ。

 サクヤは男を視界に収め、素早くこめかみに触れた。

 瞬時に『鑑定眼』が発動し、脳内に抑揚の無い音声が流れる。


『識別……マグノリアコスモス————No. 246《金属操作》……強い変異があります』


 《金属操作》ということは、あのさび色の蛇は金属でできているのか。

 サクヤは腰から警棒を引き抜いた。

 学生のサクヤに携帯を許された、唯一の武器だ。これだけでは心許ないが、やるしかない。


「サクヤ! 逃げないと!」

 

 ジヒの涙声が路地にこだまする。

 自分だって逃げたい。でも、逃げるわけにはいかないのだ。


「俺一人じゃヒバリと金髪を運べない! 一人で逃げろ!」 


 あの様子だと話し合いは無駄だ。それに、何より体に刻まれた名も無い経験が告げている。

 男は自分を殺す気だ。もうやるしかない。


 サクヤは全力で雪面を蹴って、蛇男に殴り掛かった。

 警棒を思い切り振り上げ、蛇男に振り下ろす。相手は躱す動作すら見せなかった。


 ——当たる。


 そう確信したのも束の間。

 直撃したはずの警棒は空を切り、少しの手ごたえも伝えず雪に突き刺さった。


「は⁉」


 サクヤはぎょっとして警棒を見た。

 警棒の先端が大きく歪み、リーチが極端に短くなっている。蛇男は自分の体を動かす代わりに、《金属操作》で警棒を曲げて回避したのだ。


「反則だろ!」


 蛇男のつま先が跳ね上がり、サクヤの顎を直撃する。衝撃で脳が揺れ、視界が涙でぼやけた。

 足の感覚が遠くなるが、サクヤは倒れまいと蛇男の腰にしがみつく。

 男の腰に抱きつく趣味は無いが、このまま殺されてやる訳にもいかない。


 ゼロ距離では強打は来ない。そのまま絞め技を決めてやろうと手を前にのばしたとき、サクヤは目を見開いた。


 自分の腹部に空気銃アレイスターが添えられている。 


「しまっ——」


 銃声。

 視界が大きくぶれ、サクヤは体をくの字に折って雪面を転がった。


 ボーリングの球を腹部に投げ込まれたかのような衝撃。

 押し寄せる激痛に息ができず、サクヤは雪を握りしめながら蛇男を睨んだ。

 何が空気銃だ。視界がちかちかと明滅している。脇腹に触れると、肋骨が数本折れたことがわかった。


「死ね・・・・・・死ね・・・・・・この裏切り者が」


 蛇男の歪んだ口が、幽鬼のように呪いの言葉を垂れ流す。瞳に赤みが増すと、蛇男は手を空に掲げた。


 初めは、廃ビルの壁に走る鉄パイプだった。

 鉄パイプ、水道管、釘、タンク。通路の近くに存在するありとあらゆる金属製品が、悲鳴のような甲高い音をたてて歪んだ。

 蛇男の手の先にある虚空へ金属が集まっていく。虫の群れが一カ所に殺到するような不気味な光景だった。


 サクヤはヒバリの元に這っていき、腰からアレイスターを引き抜いた。

 射撃には自信がないが、肉弾戦を続けられるほど元気でもない。

 もう頼りはこれしかないのだ。


 蛇男によって宙の一点に収束した金属たちは、巨大な蛇に変貌していた。

 錆色に光る大蛇の骨格が、不気味に体を縮める。獲物に飛びかかるときの体勢だ。


 サクヤはアレイスターの銃口を蛇男に向け、素早く引き金を引いた。銃口が跳ね上がり、見えない弾丸が蛇男へ飛んでいく。

 練習よりも遙かに近距離での射撃だった。狙いはばっちり。直撃コースだ。


 しかし、射線に大蛇が素早く割り込み、盾になって空気弾を防ぐ。空気の塊が蛇のあばらに直撃し、余波で蛇男が仰け反った。


「調子が悪いなら寝てろ!」


 サクヤは渾身の力で銃を固定し、引き金を連続で引き続けた。実弾を用いないアレイスターにマガジン交換は必要ない。チャージの時間も短く連射が可能だ。


「手首がいかれるまで撃ってやるよ!」


 路地に銃声と衝撃音が響き続けた。

 止め処なく押し寄せる衝撃波に、大蛇の肋骨は折れ、あるいは歪んでいく。暴風に晒され続けた蛇男は、飛んできた金属片で体のあちこちを切っていた。


──いける。このまま押し切れる!


 銃の反動を相殺し続けている手首は既に限界だった。絶え間なく襲ってくる銃の反動で折れた肋骨が悲鳴を上げる。

 でも、ここで止めるわけにはいかない。もう少しで勝てるのだ。

 もう少しで……


「サクヤ!」


 銃声で聞こえないはずのジヒの声が聞こえた。


「あれ……?」


 サクヤは呆然と手元の銃を見る。サクヤの指はトリガーを引き続けている。

 しかし、引いても引いても、弾が出てこなかった。

 摩擦で真っ赤に温められた銃口が、寒々としたビル風に冷やされている。


 サクヤは力が抜けたように跪いた。

 

「・・・・・・故障?」


 もう、これで攻撃の手段がなくなった。万事休すだ。


 反撃が来ると思って目を瞑った。

 しかし、待てどもその時は訪れなかった。


 前を見ると、蛇男が頭から血を流して大蛇にもたれ掛かっていた。金属片が頭部にあたったようだ。

 しかし意識はまだあるようで、ゆっくりと大蛇は修復されていく。あれが完成した時が、サクヤの最後の時だろう。

 涙目で左腕に飛びついてきたジヒの頭を撫でながら、サクヤは言った。


「ジヒ。大通りに逃げろ。そこで助けを呼べ」


 銃声で鼓膜がやられて、自分の声すらあまり聞こえなかった。


「逃げない! 文月が助けてくれるもん!」


 目に大粒の涙をためて、ジヒが首を横に大きく振る。

 何か話しているようだが、鼓膜が破れていて聞こえない。子供一人すら逃がすこともできないとは。


 サクヤが自分の無様さに乾いた笑いを漏らした、その時だった。

 サクヤの脳内に電話のコール音が鳴り響いた。ジヒが取り付いている左腕を見ると、サクヤの《オズワルド》から「弱竹 文月」へ着信がかかっている。

 ジヒがホログラムを勝手に操作して、「文月」へ電話をかけたのだ。


 酷い耳鳴りが周囲の音をかき消していく。脳にネジがゆっくりと食い込んでいくような頭痛がした。意識を上塗りし、闇に沈めてしまうような質量のある音と痛み。

 電話なんかしても無駄だ。もう間に合わない。


「文月は助けに来ない。ジヒ、逃げ——」


 しかし、突如として響いた女の声が、その騒音と頭痛を鎮めた。


『無断外泊とはいい度胸だな、サクヤ』


 少しの間、呼吸を忘れた。


 雪解け水を思い起こさせるほど清涼で、夜の森ような静けさを持った声だった。

 《オズワルド》に視線を移す。ホロ・ウィンドウには、『通話中』の文字があった。

 ・・・・・・繋がったのか。


「文月……? お前が文月なのか?」


『随分な口の利き方だな。また凍った川に沈めてやってもいいんだぞ』


 サクヤを見て何かを察したジヒが、《オズワルド》へ何やら必死に叫んでいる。  その後ろで、ゆらりと蛇男が立ち上がった。蛇の修復が終わっている。

 時間のようだ。


 サクヤはジヒを逃がそうと口を開く。

 しかしそれと同時、頭に再び文月の声が響いた。


『事情はジヒから聞いた。今から言う文を復唱しろ』


 語られたのは、聖典の一節だった。

 サクヤだけに与えられた、古代語のパスコード。

 頭の中に響く《マントラ》を、サクヤはそのまま口に出した。


「——己が信念を讃えよ」


 瞳がじんと熱くなるのを感じる。

 血液が眼球内で渦巻いているみたいだった。


「——贖罪の道の果て、我が鏃は天上を貫かん」


 温かな力が全身を巡り、体の感覚が少しだけ遠ざかった。

 まるで夢を見ているように現実感がない。

 サクヤは紅く輝く瞳を敵へ向けた。


 蛇男の顔は、今までに無いほど憎悪で歪んでいる。

 次の一撃で仕留めに来る気だ。


『いいか。お前の力は《〈コスモス〉の強化》だ。何でもいいからレディフレア製の武器を強化して、敵を吹き飛ばせ』


「頼みの空気銃は真っ赤になってぶっ壊れたよ」


『・・・・アレイスターの事か? なら過熱状態で一時的に撃てなくなっただけだ。十秒もあれば回復する』


「でも、俺は《コスモス》の使い方すら──」


『頭を空にして動け。頭では忘れていても、お前の体は戦い方を覚えている。狙う必要は無い。《コスモス》が発動したら、あとは前に向かって撃て』


「俺は射撃が下手だぞ」


 薄く笑う気配。


『なんだ? 怖いのか?』


 からかうような声音だったが、不思議と気持ちは落ち着いた。


「馬鹿言うな」


 サクヤは震える膝で立ち上がった。腕に力を抜いて銃を下ろし、自然体になる。

 ──ヒバリの言った事を思い出せ。経験で撃つんだ。野性の勘で狙え。


 大蛇の姿が大きくぶれた。

 縮めた体が急速に伸び、大蛇の頭が大砲の如く風を切る。

 金属の肋骨が雪を舞い上げアスファルトを削り、火花と轟音が路地の壁を叩いた。

 槍のような大蛇の牙が、瞬きする間にサクヤへ迫る。恐怖で体が凍りそうだった。


『私を信じろ、サクヤ』


 すくみ上がったサクヤの体を、その一言が動かしてくれた。

 自分の中を巡っている温かな力が、アレイスターへ流れ込んでいく。自分でやったのか、はたまた生存本能がそうさせたのか。

 発動した《コスモス》によって銃口に青白いスパークが散り、銃に重みが増した。


 ──間違いない。これが《コスモス》を強化した状態だ。銃口に収束していく膨大な質量に、鳥肌が立った。


 大蛇は錆びた顎を大きく開き、至近距離まで迫ってきていた。

 もう衝突するという、その直前。

 経験がアレイスターの銃口を跳ね上げ、本能が引き金を引いた。

 直後放たれたのは、空気砲というよりは衝撃波だった。


 轟音と衝撃。

 大蛇の頭蓋がぐにゃりと歪み、路地の後方まで吹っ飛ばされる。衝撃で路地に積もった雪が宙へ舞い上がり、視界を真っ白に染め上げた。


「い、いってえ・・・・・」


 雪がぱらぱらと舞う路地に沈黙が訪れる。

 思わず閉じた瞼を開けたとき、サクヤは絶句した。

 訪れたときの穏やかな路地は、そこにはなかった。大蛇は金属片となってあちこちの壁に突き刺さり、周囲の外壁は無残に崩れている。

 蛇男は通路のかなり先の方で、雪の山に頭から突っ込んで気絶していた。


 頭の中で文月がからからと笑った。


『爽快な力だろう?』


 能天気な声だ。だからだろう、不思議と気持ちが穏やかになった。

 さっきまでの緊張感が一気に抜けて、サクヤは大の字になって倒れた。


「もう蛇は嫌いだ」


 ジヒが泣きながらサクヤに駆け寄ってくる。

 もはや指先一つ動かすことができなかった。《コスモス》の使用で遠くなっていた疲労感が体に戻ってくる。もう十分だろう。やるべき事は果たした。

 サクヤは襲ってくる眠気に身を委ねることにした。


『帰りを待っているよ。サクヤ』


 その声を最後に、サクヤの意識は闇へ落ちた。



※※※※※



 目を覚ますと、サクヤは病院のベッドの上だった。

 恐る恐る身を起こし、自分の腹部を見た。空気弾が直撃したはずの場所には、青痣一つない。

 いくら何でも回復が早すぎる。怪我を修復する《コスモス》でもあるのだろうか。


 夜空を映して真っ黒に染まった窓ガラスに、疲れた顔の自分が映る。その後ろでは、白髪の少女が椅子に腰掛けたまま寝息を立てていた。

 ヒバリだ。怪我はないようで、顔色は良かった。

 サクヤの隣のベッドでは、金髪が寝ていた。胸のあたりが呼吸の度に上下している。


「ちっ。しぶとく生き残ったか」


 ずっと寝ていたせいか、無性に喉が渇いていた。病室にある共用の冷蔵庫を開けると、中にペットボトルが入っている。

 ──中身は水のようだが、凍っているな。溶かせば飲めるか。


 サクヤは凍ったペットボトルをベッドの上に置いて、上から毛布を被せた。こうやって暖めれば数分後には飲めるだろう。


 静かな病室に規則正しい寝息が響く。サクヤは、今日起こった事を思い返していた。

 一体いつだ。いつ、ヒバリは薬を飲んだのだろう。逆に、ずっと一緒にいたサクヤが無事なのは何故だ。

 ぐるぐると思考が巡る。頭の中に浮かんだ幾つもの仮説を、矛盾点を探しながら一つ一つ消していった。

 

 やはり一番怪しいのはあの酒場だろう。

 ヒバリ曰く、記憶障害の発症者は名誉信徒に集中している。

 あの酒場は『名誉信徒歓迎』の店だ。あの店の飲食物に薬を仕込めば、被害者が名誉信徒だらけなのも説明がつく。


 しかし、その線で行くと矛盾があるのも確かだ。

 あの店でサクヤとヒバリは同じ物を頼んだ。サクヤはジュースを途中でこぼしてしまったが、飲まなかったじゃない。あのオレンジジュースに薬が入っているのなら、サクヤも無事では済まないのではないか。


「ダメだ・・・・頭が重い」


 熱くなった頭を凍った水で冷やして、サクヤはペットボトルに口をつけた。氷から溶け出した水が喉を通っていく。

 そういえば、ニューステラの名産品は氷だった──


 何となくそれを思い出したとき、サクヤの脳内に電撃が走った。


「氷・・・・・・」


 ペットボトルの中の氷を見ながら、サクヤは固まった。

 氷。バーの飲み物にも、氷が入っていた。


「そうか・・・・そういうことだったのか」


「何がです?」


「おわっ⁉」


 いつの間にか至近距離にいたヒバリに驚いて、サクヤはベッドから転がり落ちた。

 ヒバリが心配そうにサクヤの顔をのぞき込む。


「大丈夫ですか、サクヤさん」


 サクヤは目を白黒させてヒバリを見た。

 どうして、ヒバリはサクヤのことを憶えているのだろう。記憶障害で倒れたのではなかったか。


「さっきはごめんなさい。不覚を取りました。私が戦うべきだったのに」


「え、記憶障害は?」


「寝たら治りました。《コスモス》のおかげですよ。《身体強化》持ちは毒とか薬が効きにくいんです」


 本人の言う通り、ヒバリは至って元気そうだった。

 《身体強化》が強化する「身体」には、免疫力や薬効への耐性も含むらしい。


「そ、そっか・・・・びっくり人間だな」


 こんなにあっさり回復されては、未だに何も思い出さない自分が情けなくなる。


「びっくりしたのは私ですよ。さっきから、ペットボトルと何を話してたんですか?」


「待て、誤解だ。俺はそんな不思議ちゃんじゃない」


 サクヤは《オズワルド》に表示されている時計を見た。

 時刻は十一時を回ったところだった。まだ酒場は開いているだろう。

 サクヤはベッドから起き上がった。


「今から散歩に行くけど、来るか?」


「えー、寒いですよ?」


「例の薬が手に入るかもしれないんだけど」


 ヒバリは眉を寄せた。


「・・・・どういうことですか?」


「どうやって俺たちが薬を飲まされたのか、目星がついたってことだよ」


 サクヤ達は防寒具を取って、警察病院を出た。


 夜中のニューステラは凍えるような寒さだった。気温が低すぎて素肌が痛い。手袋とニット帽を買うべきだったと後悔してしまう。


「それで、私はいつ薬を飲んだんですか?」


 ヒバリは謎の答えを早く知りたくて、寒さを感じていないようだった。いや、そもそも寒さに強いのかもしれない。

 凍った路面に注意して足を動かしながら、サクヤは答えた。


「ヒバリはバーで出されたオレンジジュースを飲んだだろう? 薬を飲まされたのなら、あの時だ」


「どうしてですか?」


「俺たちはずっと一緒にいたのに、記憶障害を起こしたのはヒバリだけだ。だから、ヒバリがして俺がしなかったことを思い出した。そしたら、ジュースに行き着いたんだ」


 ヒバリは釈然としない面持ちだった。


「でも出店で買ったメロンパンも病院食も、私しか食べてませんよ?」


 病院食も食べてたんだ。元気だね。


「記憶障害は名誉信徒だけに起こってるんだろ? もしメロンパンや病院食に問題があるのなら、被害者は一般人が多くを占めているはずだ」


「それは・・・・そうですね」


 もちろん、客が名誉信徒かそうでないかを見分けてから薬を提供するという方法もある。

 しかし、それは非現実的だった。

 仮にそれを実行するとして、一日に店を訪れる名誉信徒は何人だろう。


 高価な違法薬物を買い取り、それを各地の協力店にばらまいて、周囲に悟られないように商品に薬を混ぜる。

 資金、人員、時間の面でかなりのコストがかかるこの方法を、一日に十人も来ない名誉信徒を狙うために、犯人は実行するだろうか。ちょっとそれは考えにくい。


「その点、あのバーは『名誉信徒歓迎』の店だ。あの店の商品に薬を入れれば、効率的に名誉信徒を狙うことができる」


 実際、サクヤも記憶障害を起こした夜にあのバーに寄っている。この共通点からも、あの店に原因がある可能性は極めて高いと考えた。


「じゃあ、あのバーの店員が主犯ですか?」


 サクヤは首を振った。

 たくさんの店舗を持つチェーン店ならともかく、あの店は個人経営だ。

 世界各地で起きた記憶障害を、全てあの店が仕組むのは不可能だろう。


「多分あのバーは巻き込まれただけだ。あの店は、ただ薬が混ざった氷を買っただけだろうな」


「氷?」


「よく思い出してくれ。ジュースが出てきて俺たちがそれを飲み終わるまで、多く見積もっても八分だ。それなのに、あのときグラスは空になっていた。おかしいだろ?」


 ヒバリは眉を寄せた。


「どこがです?」


「グラスに氷が残ってない」


 違和感に気づいて、ヒバリは目を見開いた。


「水に他の物質を溶かしてから凍らせると、普通より溶け安い氷ができる。凝固点降下っていう現象だな。多分、あの氷には濃度が恐ろしく高い薬が混ざられていたんだ。だから、あんなに溶けるのが早かった」


「でも、それならサクヤさんも・・・・・・」


「俺は最初の方にちょっと飲んで、残りは全部こぼしただろ? まだ氷が溶けてない頃にジュースを飲んだだけだから、無事だったんだよ」


 しかし、昨晩のサクヤは違った。

 恐らく、滞在時間の十五分をゆっくり使って、氷が溶けた飲み物を飲んだのだ。

 だから、記憶障害を発症した。


「ニューステラは氷の産地なんだろ? だから、世界各地の酒場に氷を出荷しているはずだ。犯人は氷に薬を混ぜ、名誉信徒が贔屓にしている各地の酒場に出荷した」


「じゃあ・・・・・・」


 何かを察したように固まるヒバリに、サクヤは頷いた。


「世界中に薬をばら撒いた犯人は、この街にいる可能性が高い。この氷の産地にな」


 人通りのまばらな路地を、凍える風が吹き抜けた。

 黒い針葉樹の枝葉がざわざわと揺れている。

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